性悪な兄は腐りかけ
目が覚めたら無機質な白い部屋にいた。薬品の匂いと、白衣を着た男……佐伯の姿で、雪也はここがG3ラボだとわかった。
体を起こしたら、一緒にチューブが動いた。両腕にベタベタと貼り付けられたそれらは、周囲の精密機器や、点滴と繋がっている。
「ああ、よかった。三日も起きないからダメかと思った」
二十六歳の若手研究者はケロリと物騒なことを言った。
「三日……?」
部屋には日時を示すものがない。正方形の部屋は、一面が鏡張りだった。隣に研究室があり、こちらの様子を見ることができる。
「月曜日に学校で気を失ったんだよ。一回目の投与で欲張りすぎたみたい」
「は……」
記憶は、保健室で殴られる真記を嘲笑ったのが最後だ。
「今は木曜日の二十一時」
「うそ……」
「ふふ、ほんと」
何笑ってんだ、人を殺しかけておいて。
猛然と腹が立った。
「僕が死んだら、あんたは殺人罪になりますよね」
「んー、どうだろう……ならないんじゃない?」
くいん、と品良く上がった口角が憎らしい。
「もみ消すんですか」
「ふふ、何それ。人聞きの悪い」
「だってそうでしょう。あんたに変な薬を打たれる前は健康だった。それが、三日も意識を失ったんだ……」
ゾッとした。本当に死んでいたかもしれない。
「ハイリスクハイリターンが治験だからね。同意書にもサインしてもらった。きみは死んでも文句は言えないよ」
雪也は激しく瞬きした。冗談じゃない。
「やめます。僕、死にたくないんで」
力任せにチューブを取った。ビービー機器が鳴り響く。
「別にいいけど、もうきみの体にはいろいろ打たせてもらったから、経過を見せる意味でも続けた方がいいと思うよ。何かあった時、一番適切な処置ができるのは俺だから」
ずるい。そんなことを言われたら、続けるしかないじゃないか。黙っていると、佐伯はそばに来て、チューブを元に戻していく。
ふと、薬漬けされた自分の体は、真記に喰わせても平気だろうか、と疑問が湧いた。
「あの……僕の体って、ロンドに喰わせても平気なんですか」
「あまりよくないね」
血の気が引いた。本当に大丈夫か、このバイト……
この研究室では、培養肉の開発をしている。市場に流通しているワルツの血肉は、すべて生きたワルツから採取したものだ。ワルツの血肉は、生命反応があるうちに採取しなければ、味がしないのだ。
それによって、多くのワルツが子供のうちから痛い思いを強いられてきた。佐伯はそうした現実を目の当たりにし、体から直接削り取らなくても、培養によって供給できる仕組みを作ろうとしていた。
けれど切り離した肉の培養は困難だった。増やせても、培養肉は味がしないのだ。
そこで佐伯は、ワルツの体、細胞を、培養肉を作りやすい構造に作り変える研究にシフトした。切り取った肉ではなく、切り取る前の肉を進化させるのだ。
「極端な話になるけど、きみのお父さんが携わっていた死のワクチンは知ってるよね?」
「三十年前に富裕層の間で流行った。それを打ったワルツは、二十歳になる前に死ぬ」
「そう。あれを打ったワルツの肉は腐ってた。味はうまいけど、食べると死ぬ」
「……やっぱ、そうなの? ただの迷信だって言う医者もいるけど」
「迷信なんかじゃないよ。さすがに日本中がパニックになるから、隠蔽したんだ」
「……ていうか、その話をするってことは、僕が打たれてる薬も……そういう類のってこと?」
「大丈夫、きみは死なないよ」
「当然だろ。死なせるな」
強がったが、少し声が震えた。
佐伯は小さく笑った。ムッとして睨むが、思いの外優しい目つきに虚を突かれた。まじまじと見てしまう。佐伯がこちらを見て、微笑んだ。
「一緒に頑張ろう」
大きな手に額を撫でられ、ふいに涙が溢れそうになった。
痛いしきついけど、もう少し頑張ってもいいかも、なんて思えてくる。
「……培養肉が成功したら、搾取されるワルツが減るんだっけ」
佐伯はなぜか、痛みを堪えるような顔をした。
「うん、そうだね」
「じゃあ……頑張るけど。死ぬのは嫌だから」
「うん、絶対死なせないよ」
そんなの当たり前なのに、佐伯は誓うように言った。
真記は研究施設の中で待っていて、雪也が目覚めたと聞いて、すぐに部屋に駆けつけた。
片目が青く腫れていた。唇は切れている。
見た瞬間、胸がキュッと締め付けられた。痛々しい顔から目を逸らし、謝ろうと口を開く。
「……わかったろ。僕はこんなに大変な思いをしてるんだよ」
真記はこくんと頷いた。
「意識が戻ってよかった」
「僕が死んだら、お前は食に困るもんな」
「ユキが死んだら、食欲なんて起きない」
長い腕に抱き締められた。佐伯は隣の研究室だ。ここにはいないが、鏡張りの向こうから、こちらを見ているかもしれない。
「よかった……本当に」
ぎゅうぎゅうとキツく抱き締められ、無性にキスしたくなった。
「……腹、減ってる?」
真記の身体がビクリと震えた。
「三日も喰べないでいたら、減ってるんじゃないの。……いいよ。キスぐらいなら」
顔を上げると、戸惑うような目があった。
サッと背筋が凍りつく。もしや怯えているのか? 薬漬けされた体を喰うのが怖いのか?
疑惑が込み上げる。憎悪になる前に、真記が顔を寄せてきた。
唇が触れ合う。柔らかく唇を啄まれ、恍惚とした。もっととせがむように背中にかきつく。もっと喰って。僕を安心させて。
「んっ……」
温かい舌先が口腔に入ってくる。歯列や上顎を優しく撫で回され、舌先を絡め取られた。唾液ごと吸い上げられる。
真記は唇を僅かに離すと、軽くチュッとキスし、離れていった。
傷んだ顔が再び目に入る。
「……真記、ごめん」
さっき、できなかった謝罪をする。真記はキョトンとした。
「住吉には……僕から誤解を解いとくから……」
真記は表情を和ませ、かぶりを振った。
「もう終わったことだから、気にしなくていい。それにあいつは何を言っても聞かないと思う。あいつの好きなように解釈させておけばいいよ」
「……帰ったら、血も肉も喰わせてあげる」
真記がハッと息をのんだ。
「なに? 怖いの?」
つい口調が尖る。喰わせると言ったのはお詫びというより、自分が安心したいだけかもしれない。
「薬漬けされた体は嫌だっていうの?」
「嫌なわけない。嬉しいよ」
真記は即答した。
佐伯の手配したタクシーで、二人で家に帰った。母はすでに就寝中だった。
自分が意識を失っている間、真記はほとんど起きていたのだろう。雪也が風呂に入っている間にソファで寝落ちしていた。組んだ腕に手が伸びる。シャツ越しに肩に触れ、スルリと肘まで撫でた。
真記はなんでもできてしまう。剣道はその象徴だった。雪也は幼い頃から道場に通って稽古していたのに、中学から始めた真記にあっという間に抜かれてしまった。
兄弟なのに似てないね。弟は出来が良いのにね。耳に入った陰口は、次第に妄想が入り混じるようになる。だって浮気相手との子だもん。え、離婚してないの? 弟がロンドだから、ちょうど良いって。それって食糧要因ってこと? でも他に、家に置いておく理由なんてないじゃない。旦那さん、気の毒だわ。成長するにつれて浮気相手の顔に似ていくんですもの。私、耐えられない。
それなのにこのタイミングで自殺するなんて不自然だ、何か他に理由があるんだって、佐伯さんは言ってたわ。
「っ……」
ひゅっと喉が詰まった。胸を押さえ、膝から崩れ落ちる。
「ユキ?」
しゃがんで喘いでいると、真記が起きた。
「ユキっ!」
背中をさすられる。
「苦しいのか? 佐伯さんに連絡しっ……」
腕を掴んで引き留めた。涙目で首を横に振る。
「ちが、う……」
こういうことはしょっちゅうあるのだ。そのうち治る。両手で真記の腕を掴んだ。
「……真記の腕は、太いな」
うまく呼吸ができないせいか、視界がにじんだ。逞しい腕をそろそろと撫でる。
真記の腕はしなやかな筋肉に覆われている。雪也の要求が全て、真記の気持ち次第でどうにでもなるのだと思い知る。
真記なら、ワルツの恋人など作ろうと思えば簡単にできるだろう。保健室に連れ立って行った女子生徒はワルツだった。
もう、真記は雪也がいなくても生きていける。それを解放とは思わない。自分の存在意義が失われるのだ。
「……喰って」
胸を押させていた手で前ボタンを外し、肌を晒す。脇腹の瘡蓋を剥がした。ピリピリとした痛みを感じる。
「真記、喰って……たくさん」
舌足らずに言うと、真記はゆっくりと、脇腹に顔を近づけた。




