性悪な兄は腐りかけ
母が治験のバイトをしろという。うちには二人も大学に行かせる金がないのだと。
真記は隣で、黙々とカレーを食べている。会話に入らないつもりだ。
「佐伯さんって、覚えてる? お父さんのお葬式に来てくれた人。あの人今ね、培養肉の開発チームにいるんですって。それも主任よ。若いのにすごいわよねえ……」
佐伯……名前を聞いてもピンとこないが、葬式に来ていた若い男なら、一人だけ印象に残っている。
長身痩躯。癖毛の髪は肩につくほど伸びっぱなしで、目は眠たげ、いかにも軽薄そうなジゴロ然とした風貌のくせして、発散される気には品性があった。きっと育ちがいいのだろうなと思ったことを思い出す。
「それで、ワルツの被験者を探してるんですって。毎週日曜日に研究室に行くだけでいいの」
「嫌だよ治験なんて。絶対嫌」
「せっかくワルツに生まれてきたんだから、社会貢献しなさいよ。他の子はね、リサイクルショップとか、食品会社に体を売られてるの。あなたはそういうのとは無縁でしょう? それがどれだけ恵まれたことか、わかってる? 普通の親はね、ワルツの体で金儲けしようとするものなの」
「しようとしてるだろ、今」
「佐伯さんに直接頼まれたんだもの。断れないわよ。雪也は知らないでしょうけど、あの人、お父さんの自殺のことで、色々調べてくれてたのよ」
「調べる?」
反応したのは雪也だけだった。横目に見るが、真記は変わらず無表情。
「死のワクチンに携わっていた研究者は、みーんな世間に公になる前にあの世に逃げたでしょう? お父さんは立派に矢面に立って戦ったわ。十年もね。時効が成立したと言っても良い。それなのにこのタイミングで自殺するなんて不自然だ、何か他に理由があるんだって、佐伯さんは言ってたわ」
ブワッと背中に汗が噴き出した。
「……それで、何かわかったの?」
母は大袈裟にかぶりを振った。なんだよ……雪也は肩の力を抜いた。
「十年間非難を浴びて、ストレスが蓄積したんじゃないかって。最初にお医者さんが言った通りの答えが返ってきたわ。でも、お父さんのことをそんなふうに思って、行動してくれただけで私は嬉しかったの。だから雪也、佐伯さんの力になりなさい」
「力になるったって、報酬は出るんだろ」
「こんなに良い話、もう二度とないわよ」
「結局それじゃん。やだよ」
「雪也、お願いだからわがまま言わないで。お母さん、いっぱいいっぱいなんだから」
なんだ、いっぱいいっぱいって。拙い言葉選びにカチンときた。
「どこがわがままだよ。それに僕、別に大学行かなくてもいいし」
「真記はどうなるのよ。医学部はお金がかかるのよ」
「知らない。働けば?」
「なんてこと言うのっ」
真記は黙々とカレーをかき込む。味覚がないから、これが不味いともわからないのだ。
「真記はどう思う?」
雪也は真記に振った。
「ごちそうさまでした」
真記は答えず、食器を持って立ち上がる。シンクに入れると、そそくさと二階へ逃げていった。
雪也は舌打ちした。僕はお前を飢え死にさせることだってできるんだぞ。
「雪也、いいわね?」
ああ、うざったい。雪也は投げやりな気分になって、「やればいいんだろ」とぞんざいに言った。
真記のクラスがグラウンドで体育をしていた。
雪也は窓際の席からそれを見ていた。真記は背が高いからわかりやすい。準備運動を終えると、教師のもとへフラフラと向かった。
雪也は鼻で笑った。今朝、ケツにディルドーを押し込んだのが、響いているのだろう。
明らかに様子のおかしい真記に、教師も困惑している。
どうなろうが知ったこっちゃない。こっちはお前のためにいかがわしいバイトを引き受けてやったのだ。それに比べたら可愛いイタズラじゃないか。
昨日、佐伯に意味不明な薬品を打ち込まれて、雪也は機嫌が悪かった。
どこかから女子生徒が飛んできて、真記を校舎へと連れていく。真記は女の肩にくたりと寄りかかった。思わず舌打ちする。
「せんせ……」
雪也は控えめに手を上げた。中年の国語教師が「どうした」と促す。
「ちょっと具合が……保健室行っても、いいですか」
「わかった。無理しなくていいから、休んできなさい」
「室井、大丈夫かよ」
川口が席を立つ。
「うん、多分貧血。少し休んだら治ると思う。自分で行けるから、大丈夫だよ」
言外に弟が原因だと匂わせる。
雪也は教室を出た。次第に足早になる。真記にベタベタ触れる女の手つきが気になった。
保健室のドアには「保険医不在」のカードが貼り付けられていた。
わざと勢いよくドアを開けた。三つ並んだベッドの一つ、カーテンが閉まっている。その奥から、気配を押し殺すような緊張感が伝わってきた。布団をバサっと被る音。
雪也は足音を立ててそこへ向かった。カーテンを掴む。
シャッと勢いよく開ける。真記が横たわっていた。
「ユキ……なんで」
真記が目を見開く。
雪也はまだ疑っている。布団の中に女がいるかもしれない。肩まで上げられた布団を剥ぎ取った。
「あっ」
真記の下半身が露わになった。真記はズボンもパンツも履いていない。尻から親指ほどディルドーが飛び出していた。
真記の顔がみるみると赤らむ。ああ、そうか。こいつは女を追い払って、ここに四つん這いで、一人でこっそりケツに突っ込まれた異物を抜こうとしていたのか。
安堵すると、残酷な気持ちが込み上げてきた。
「だめでしょ」
ベッドに片膝をつき、真記の顎をつまみ上げた。
「僕は真記のために治験を引き受けたんだよ。昨日なんか変な薬打たれてさ、それから気分が悪いんだ。真記、お前も頑張らないと」
ベッドに乗り、親指ほど飛び出た部分を押し込んだ。
「うっ……あっ」
「放課後まで入れとけって言ったよね?」
「あ、はっ……」
苦しそうに肩を喘がせる。
「今日は家まで抜かないでね」
僕はもっと辛い思いをしてる。お前が僕の体を求めた時からずっと。
「わかった?」
ギリギリまで引き抜き、また突き入れた。繰り返す。こんな簡単な動作を、真記は自分ではできない。
「真記」
「あっ……わ、かった……」
「じゃあズボン履いて。こんなとこで休んでないで、授業戻りなよ」
真記はゆっくりと体を起こすと、パンツとズボンを履いた。顔が疲れ切っていた。口から熱い息を吐く。何もかも癇に障った。
「行けよ」
真記はふらつきながらカーテンの外へ出たが、直後にカタンと音がした。
出てみると、しゃがみ込んでいた。大きく背中を揺らしている。
やっぱり抜いてやろうか。そう思った時、視界の隅に、グラウンドからこちらへ駆けてくる大柄な男……住吉が見えた。
雪也は素早く部屋を見回した。カレンダーに目がいく。自然と足が向かっていた。画鋲を抜き取り、親指から人差し指までブスブスと突き刺す。
「真記、おやつの時間だよ」
優しく声を掛け、真記の前にしゃがむ。
真記の虚ろな目が、雪也の指から流れる血を見て見開かれた。喉が上下に動く。
「いい……のか?」
真記は両手両膝を床についていて、腰は僅かに離れている。犬みたいだ。
「いいよ。真記、辛そうだから」
手をひらりと差し出すと、真記はハッと息を飲み、しゃぶりついた。
ゾクリと背筋が震える。夢中で血を吸い上げられ、痺れるような快感が走った。
「室井先輩っ!」
保健室は一階にある。外とつながる窓から、住吉が入ってきた。
「室井っ! 何してんだ授業中だぞっ!」
住吉は真記の背中に飛びつき、雪也から引き剥がした。
真記は床に伏せった。血が喉に絡んだのか、ケホケホと咳き込む。それに合わせて前にのめる彼を見ていたら、ぶち込みたくなった。そういえば最近、後ろから犯していない。
「室井先輩、こんな授業中まで、求められているんですか」
ふいに暑苦しい顔面が迫って、雪也は思わず目を伏せた。
「たまたま……だよ。ちょっと今日、朝から具合が悪くて……少し寝たら治るかと思ってここにいたら……真記が……」
殊更か弱い声で言った。
鼻息を荒く、住吉が真記を睨む。雪也もつられて真記を見た。真記は床についた腕を伸ばし、顔を上げた。
自分にはない鼻の高さと、シュッとした美しい顎のラインに目がいく。
「可愛い」「綺麗」とは無縁の、同性からも「かっこいい」と言われる正統派の男前。
剣道で鍛えた身体は雪也よりずっと逞しい。
頭も運動神経も真記の方が上なのだ。雪也は体をチラつかせることでしか真記の優位に立つことができない。でもこの能力差は、真記に体を喰われてきたせいだと雪也は確信している。
「真記が、喰いたいってせがむから……」
雪也が涙声で言うと、単純な大男は真記に突進していった。
「いい加減にしろっ!」
住吉が喚く。真記は抵抗しない。無抵抗の真記を、住吉は容赦無く殴った。
ざまあみろと思った。
ワルツの自分は、真記に奪われてばかりいる。真記のせいで両親は不仲になり、自分は父の子供じゃなくなった。
もっと嫌われればいい。真記の魅力と能力に誰も気づかなければいい。




