性悪な兄は腐りかけ
室井雪也がワルツであることは、剣道部のみんなが知っている。この日も更衣室で、雪也がシャツを脱ぐと視線が集った。
「うわっ、また傷増えてんじゃん」
部長の川口光樹が言った。雪也は「あっ」と、恥じらうように慌ててシャツを羽織る。見られたくなかった、という風に。
「断れないのかよ」
川口が太い眉をハの字にする。目が小さく、やや口が突き出しているから緊張感に欠けるが、それでも不安げな表情は雪也を心地良くさせた。
「……うん」
雪也は弱々しく目を伏せた。
「俺から室井に言いましょうか」
住吉大吾が言った。まだ入部して一ヶ月しか経っていないが、すでに一年生部員のリーダー的ポジションに収まっている、期待の一年生だ。
えらい老けてんなあ……というのが、第一印象だった。張った頬骨、うっすらと髭の生えた厚みのある顎、浅黒い肌……そして重厚な低音ボイス。
身長は175センチの雪也とそう変わらないが、肩幅があって全体的にガッチリとしているため、側に来られると結構怖い。
「それ、探りか?」
川口が住吉を睨んだ。
「いえ。室井は自己紹介で自分はロンドだと打ち明けました。『普段は何を食べているのか』という質問に、彼は『兄さん』と答えたんです。室井先輩が弟の餌になっていることは、僕らの間では有名です」
そうだったのかと、雪也は顔が熱くなった。あの野郎、勝手なことを……
「餌ってお前……言い方を考えろ」
川口が困惑気味に咎める。
「餌食ですか?」
住吉は悪びれる風もなく、雪也をまっすぐ見つめて言った。射抜くような鋭い視線だ。雪也への好意を隠そうともしない。
昔から、容姿を褒められることが多かった。「綺麗」も「かっこいい」も兼ね備えていると雪也は自覚している。つまり男女から恋愛対象として見られるのだ。好意を直接伝えてくるのは男の方が多いかもしれない。「お前が好きだ」何度そう言われたか。雪也はその都度、「僕を抱きたいの?」と微笑んだ。顔を真っ赤にして俯く者、許しを得たと思って「ああっ」と抱きついてくる者……
雪也はやんわりと相手を離れ、こう答える。
ごめんね。僕は弟のものだから。
「だってそうでしょう。身内だからって限度を越してます。せめて……傷が治るのを待ってから求めるべきだ」
二個下の弟、真記はロンドで、幼少期から雪也の体で空腹を満たしていた。
「僕の体、治りが悪いから……だから、真記が悪いわけじゃないよ……」
「室井先輩……」
「それで、お前は弟になんて言うつもりなんだよ」
川口が問う。
「少しは室井先輩の体を気遣えって」
住吉が答えると、川口は雪也を見た。
「どうする? 俺は悪くないと思うけど」
周りを見渡せば、他の部員も神妙な表情で頷く。
「そんな……いいよ。いい……気持ちは嬉しいけど、これはどうにもならないから」
力なく言い、雪也はシャツを脱いだ。二の腕まで広がる傷が晒される。いくつか息をのむ声が聞こえた。
「どうにもならないって……室井先輩はっ、拒んだことがあるんですかっ! 我慢ばかりしてるんじゃないんですかっ!」
汚ねえな。唾液が掛かっただろうが。
「拒めないよ……真記は、僕の体しか味わえないんだから」
「市販のもので賄えるでしょうっ! 俺はそうしてますっ!」
「僕ならタダで済む」
「そんなの……室井先輩が可哀想だ。あいつが我慢すればいいだけなのに」
「我慢しなきゃいけないのは僕なんだよ」
雪也はまぶたを閉じ、ひとつ深呼吸した。
「……僕は、不貞でできた子供なんだよ。真記とは父親が違う。真記だけが両親の子供なんだ」
母はうまく不貞を隠し、父の子として雪也を産んだ。
二年後に真記を産んだ。真記は二歳になると、雪也の体に興味を示し、汗を舐めたり、唇に吸い付いたりした。
真記の行動で、雪也がワルツであると判明したのだ。父はそこで初めて不貞を疑った。ロンドとワルツに遺伝的要因はないが、兄弟でロンドとワルツが生まれることはない。共にロンドか、共にワルツ、どちらか片方だけ、というパーターンしか、あり得ないのだ。
追及された母は開き直った。「怒らないでよ。真記が飢えずに済むじゃない。むしろ感謝してちょうだい。万年助手のあなたに、ロンドの子供が養える? 食費が抑えられていいじゃない。離婚してもいいけどね、私は雪也を連れて行くから。そうしたら真記は空腹で気が狂ってしまうでしょうね」
父を裏切っておきながら、母は「感謝しろ」とまで言い放った。そして自分の不貞を肯定するため、雪也の体を弟に喰わせた。「雪也、あなたは堂々とていればいいの。あなたは真記に必要とされて生まれてきたの。うちが生活できるのは、あなたのおかげなの」
自分の存在価値は、真記の空腹を満たすこと。母の言葉は幼い雪也を傷つけた。
「真記が喰ってくれなきゃ、あの家に僕の居場所はない。……まあ、もう父さんいないから、そんなに気後れすることもないけどね」
一年前、父は死のワクチン開発に携わった責任を取って、自殺した。
他の研究者たちは、世間に明るみになる前に、逃げるようにバタバタと自殺した。
父は開発チームの中では補佐的なポジションで、主要メンバーではなかった。なのに全ての責任を取らされ、バッシングを受け、やつれ、結局責任の取り方がわからなくなり、自殺した。
雪也にとっては、血は繋がっていなくても、優しい、大切な父だった。
普通なら浮気相手との子供なんか憎いだろうに、真記と同じように接してくれた。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫。我慢するのは慣れてるから」
雪也はそう言ってロッカーを向き、黙々と道着に着替えた。
背中に同情の視線が集まるのを感じ、ほくそ笑む。
雪也は、弟の評判を落とすことに心血を注いでいるのだ。




