扱いやすい優等生
八木が退職して二ヶ月が経った。亜城が嫌がらせを受けているような様子はない。もっとも傍目にはわからないような陰湿な嫌がらせを受けている可能性もあるから、翔平は彼と会うと必ず、「何もないか?」と聞いてしまう。
「心配ありません。みんな優しいですよ」
「ならいいけど……何かあったら、すぐに言ってくれよ」
亜城はくすりと笑った。けれど教官の車が通って、すぐさま顔を引き締める。二人揃って敬礼した。
教場当番だった。朝、亜城と一緒だと知ってから、翔平は一日中機嫌がいい。彼の横顔をチラチラと見る。やはり影のような暗い雰囲気が漂っているが、以前感じた、荒んだものとは違う。色気のような、人を惹きつける大人の暗さだ。
「翔平さんはあと一ヶ月で卒業じゃないですか」
彼は寂しそうに言った。
大卒の翔平はあと一ヶ月で卒業する。高卒の亜城はあと五ヶ月。
関わることがほとんどなくても、姿を見かけるだけでテンションが上がる。目が合えばその日は絶好調だ。そんな存在と、あと一ヶ月で離れ離れになる。
「一緒に教場当番するのも、これが最後だな」
自然と、しんみりとした口調になった。
「前にここで話したこと、覚えてますか」
「『交番に二人きりでいたら、あんたは俺にキスしたくなるんだ』ってお前が言ったこと?」
横目で睨まれた。それじゃないらしい。
「なんで警察官になったのかって話です。俺は食いっぱぐれないからと答えて、あんたは『それじゃあ頑張りようがない』と言った」
「ああ……よく覚えてるな」
「あんたはどうでもいいことを覚えてる」
「可愛い子にキスをせがまれたんだ。どうでもよくなんかないね。完全保存」
「……別にせがんだわけじゃない。予言です」
「あっそ。で、あの話がどうしたんだよ」
「生活安全課を目指そうと思います。一応、目標ができたって言うか。……まあ、それだけです。すみません。大した話じゃなくて」
卑屈になるところも可愛い。翔平は思わず笑みがこぼれた。ううん、とかぶりを振る。
「理由も教えてよ」
「俺が両親から受けていた行為は、自治体によっては条例違反になるらしいんです。だからセイアンに入って、俺と同じような目に遭っている子供を救いたい」
亜城は警察学校に入るまで、体が治癒するたびにリサイクルショップに連れて行かれ、体を削り取られていたという。ストレス過多で質の悪い体は高値がつかず、より多く肉を採取することで賄われた。
「すごくいいと思う。亜城ならできるよ」
「……ありがとうございます。翔平さんがいなかったら俺、たぶんここ辞めてました」
「またまた。エリートのくせに」
亜城は首を横に振った。
「足の裏を怪我したあの日、本当は心が砕けそうだった。誰にも口を聞いてもらえなくて辛かったんです。翔平さんは最初ウザかったけど、それでも人と会話ができたことが嬉しかった。『痛いだろ』って言ってもらえて、この人はなんで俺の気持ちがわかるんだろうって驚いた。両親は俺が『痛い痛い』と訴えても、『気のせい』としか言ってくれなかった。翔平さんだけが、俺の痛みを理解してくれたんです」
グッと胸が締め付けられた。翔平は口を開くが、亜城はその気配を察し、気を取り直すように言った。
「立番はあと三十分です」
腕時計に視線を落とす。
「……これが終わったら、校内巡回だな」
「はい。その次は交番で待機」
「予言してよ」
「……交番に二人きりでいたら、あんたは俺にキスしたくなる」
「当たり」
亜城はクスッと笑った。
「今言ってどうすんの」
教官の車が来て、亜城は笑顔を引っ込めた。翔平も顔を引き締め、ピンと背筋を伸ばし、休めからきをつけの姿勢をとった。
指先を揃え、敬礼する。隣の男とぴたりと息が合った。




