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扱いやすい優等生

 保健室を出た足で喫煙所へ行くと、堂野がいた。入るなり、「亜城はどうだった」と聞いてくる。

「鋭いものを踏んだような傷口だった。自作自演じゃないと思う」

 他には誰もいないので、余裕を持って堂野の向かいに立った。

「桜井さんの件で、恨みを買ったんだろうな」

「……教官室でさ」

 教官室で偶然聞いた、亜城の反論を伝えてみることにした。

「あいつ、『俺の体を見てください』『噛み跡を照らし合わせればわかります』って言ってたんだ。堂々としてた。それで実際、桜井さんは退学になってるし……亜城はどんな手を使ったのかな」

 堂野は考え込むようにタバコを吸った。

「噛み跡はあるが、個人を特定するのは困難な、わかりづらいものとか。例えば昔のものに自ら傷をつけ、新しく加工したものを、桜井さんにつけられたと言い張っているとかな」

「ああ……」

 そういう方法もあるのか。

 そういえば大学時代、フラれた腹いせにロンドに襲われたと嘘をついた女がいた。女は採取用の特殊な器具で自ら体を削り取り、無理矢理喰われたのだと言い張った。あれは確か、結局警察沙汰になって、女の狂言だと判明したのではなかったか。器具で採取した痕だと、専門家に見抜かれたのだ。

 堂野の口から、プロファリングの授業の話は出なかった。夕食時、増田が「調子どうだ?」と聞いたのに対し、堂野は「完全復活」と答えただけで、それ以上語ろうとはしなかった。

 翔平は増田と二人きりになった時、あの事件は解決済みなのか、未解決なのかを聞いた。

「未解決」

 風呂上がり、タオルで体を拭きながら、増田は答えた。入ったのが遅かったため、脱衣所には他に誰もいない。

「被害者はワルツだった。警察は当初、ロンドの犯行を疑った。でも被害者はワクチンを接種していた。それを知っている者なら、手を出さないはずなんだ。だから近親者よりも、通り魔的犯行が支持された。それに損傷が激しくて、これはロンドの犯行に見せかけた猟奇殺人か? なんて説も浮上した」

 ガラッとドアが開き、ザワザワと長期生が入ってきた。

 のんびりしすぎていた。風呂は交代制だ。翔平と増田は急いで着替え、外へ出た。

「俺、あんな現場に行きたくねえな」

 増田がぼやく。

「俺だって嫌だ。孤独死の現場にだって行きたくないね」

「風呂で溶けてるのもキツイよな。教官は慣れるって言ってたけど」

「慣れるのも嫌だ」

「刑事と鑑識はごめんだな。俺は断然生活安全課(セイアン)。非行少年の補導とAVのモザイクチェックに警察官人生を捧げる。秋乃は?」

 授業で各部署の仕事内容を詳しく知って、学生は自らの進みたい道を見つけ始めている。

 堂野は刑事だろうなと思った。きっとあの事件の犯人を突き止めるために、警察官になったのだ。

「俺は交通かな」

「ああ、確かに交通もいいな。年寄り相手に認知症のテストしてりゃいいんだし」

「白バイに乗りたいんだよ」

 亜城を見つけた。風呂桶を持って、武道場の方へと歩いていく。

「いいね。箱根駅伝の誘導とか憧れる」

 確か、さっき風呂場に入ってきたのは、亜城のクラスだ。亜城はどうして武道場へ向かうのだろう。

「ごめん、俺、タバコ行ってくる……」

 言いながら足が動いていた。亜城はすでに武道場に消えていて、中のシャワールームに入っていくのが見えた。

 武道場を突っ切り、ガラッとドアを開ける。亜城はいない。奥へ行く。入り口から一番離れたロッカーの前に、亜城はいた。

「なんですか」

 ジャージ姿でこちらを向く。

「大浴場、なんで使わないの? ワルツだから特別待遇ってこと?」

 堂野はみんなと同じ飯を食っているのに、ワルツばかりずるいと思った。

 そんな内心を見透かしたのか、亜城がふんと鼻で笑う。

「俺が襲われたら文句言うくせに、自衛するのはいけませんか。配慮は特別待遇とは違いますよ。勘違いしないでください」

 亜城はロッカーを向いた。開けるが、ジャージを脱ごうとはしない。

 翔平はスッと手を伸ばした。亜城は咄嗟に退く。

「自衛ならできるだろ」

 逆に腕を掴まれ、一瞬のうちにロッカーに叩きつけられた。背中を強打し、顔を歪める。

「……なんなんだよ、あんた。俺が何したって言うんだよっ!」

「桜井さんを嵌めただろ。一人の警察官を退職に追いやった」

 亜城はスッと息を吸った。見開いた目が、次第に水分量を増していく。

「俺のことも教官に言うのか。シャワールームまで追いかけてきたって。力の差は歴然なのに、被害者ぶるのか」

 亜城は乱暴に手を離した。元のロッカーに向き直る。

「出ていってください」

 ファスナーに指をかけるが、下げようとしない。

「本当……出ていってください。困ります」

「食欲をそそられたら困るって? ロンドはみんな犯罪者予備軍だと思ってるのか」

 亜城は俯いた。耳がじわじわと赤くなる。

「……あんたは、ロンドじゃないだろ」

 翔平は瞬きした。先に勘違いしたのは亜城だ。どこでその勘違いが解けたのだろう。

「ロンドだよ」

 亜城はフルフルと首を振った。

「ロンドは、好みとか関係なくワルツの体を求める。俺が、体目当てと言ったのは、別に自分に自信があるからじゃない。ロンドはワルツの体ならなんでもいいんだ。不味くても、まずいまずいと言いながら求めてくる。あんたは……食欲に恋情が絡んでるって勘違いしてるだろ。好みとか……そういう次元の話じゃない。あんた何も分かってない。あんたは違う」

 堂野も言っていた。「本能みたいなもので、趣向なんかは関係ない」と。

 浅い知識でロンドを偽ろうとしても、当事者には簡単に見破られてしまうのだ。

 当事者にとって、どれほどタチの悪い嘘だろう。屈辱的にすら感じるかもしれない。

「ごめん」

「……いえ、俺が勘違いしたせいなので」

 返された言葉に、彼は悪い人間ではないような気がした。

「足、大丈夫?」

 気まずい空気を変えようと、聞いた。亜城はなかなか答えない。小さく息を吸ってから、口を開いた。

「なんで……お、俺にキス……しようとしたんですか」

 上ずった声に問われ、心臓がドッと跳ねた。まじまじと亜城の横顔を見つめるが、彼は頑なにこちらを見ようとしない。長いまつ毛が震えていた。

「言ったろ。可愛いと思ったからしたくなった」

 亜城の喉仏が動いた。翔平はそういうものにそそられる。本能ではなく、自分自身の感情で彼に触れたいと強く思った。

「亜城」

 名前を呼んだだけでびくりと肩を震わせる。

 いちいち繊細な彼の反応を見ていたら、彼への疑惑こそが疑わしく思えてきた。

「桜井さんに襲われたのは、本当なのか?」

 亜城はこちらを睨んだが、いつもの鋭さはなかった。

「本当なのかって聞いてるんだ。お前は運動神経がいい。あっさり喰われるようなタイプじゃない。だから自作自演を疑った。でも……人を陥れるようにも見えない」

 亜城の瞳が揺れた。やっぱり彼はでっちあげなんてしないと確信する。

「何があったんだ」

 亜城は瞳を彷徨わせた。一筋涙がこぼれた。唇は戦慄くだけで言葉はない。

「ごめん、疑ったりして……お前は被害者なんだよな」

 肩口に手を伸ばし、試しに触れてみる。拒絶されないから抱き寄せた。腕の中で亜城は声を押し殺して泣いた。泣かせたのは自分だ。彼に放った言葉を思うとゾッとした。

「亜城、本当にごめん。俺、お前に酷いことばかり言った」

 許してくれと抱きしめる。腕の中でかぶりを振る彼に、愛しさが込み上げた。

 顎を掴み、顔を上向かせた。

 端正な顔に、いくつも涙の筋がある。引き寄せられるようにペロリと舐めると、彼は嫌がるように顔を背けた。

「……俺、まずいですよ」

 一瞬、言葉の意味がわからなかった。亜城もハッとしたような表情を浮かべる。バツが悪そうに目を逸らした。

 彼は、ロンドにしか求められたことがないのだと察した。ロンドにまずいと言われたのだ。だから前もって伝えた。

 彼は、一体どれだけ理不尽な目に遭ってきたのだろう。

「まずくない。涙の味だよ」

 頬に流れる涙にキスしながら、唇に触れる。ひんやりしていた。

「んっ……」

 ビクビクっと彼の身体が震え、押さえつけるように強く抱きしめた。

「ふっ、んっ……はあっ」

 スラリと細身の印象だったが、ジャージ越しに触れる肉体は逞しい。素肌に直接触れたくなった。

 手を滑り込ませる。

「ほごっ」

 突如、腹に鋭い痛みが走った。後退る。

 なんで、と亜城を見れば、彼は気まずげに視線を逸らした。

「……すみません。シャワー浴びたいんで、帰ってもらえますか」

 そっけない口調だが、顔はのぼせたように赤い。

「う、うん……じゃあ、また」

 頷いたのか、俯いたのか、判別できなかった。翔平が去るまで、亜城は服を脱ごうとしなかった。

 

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