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扱いやすい優等生

「誰がいたんですか?」

 亜城は部屋を見回すと、「堂野さんですか?」と言った。

「あ……うん」

 途端、亜城の目尻が吊り上がった。チッと舌打ちして、消毒液やガーゼの乗ったテーブルへ行く。その足取りがおかしかった。

「足を怪我してるのか」

「あんたに関係ないでしょう。もう堂野さんいないんだから、出ていってください」

 乱暴に消毒液やガーゼを手に取り、丸椅子に座る。座った瞬間、彼の右足が素早く床を離れた。

「右足?」

「いいから、出ていってください。俺をロンドから引き剥がしたかっただけなんでしょう」

 ドキッとした。

「堂野がロンドだって……知ってたのか」

 亜城は短くため息をついて、うんざりしたように、ふいっと視線を飛ばした。

「知ってた。知ってちゃまずい? 俺だってロンドなんかに近づきたくないんです。把握していて何が悪い」

 うまく飲み込めなかった。まるで自衛しているような物言いだ。ならば桜井に襲われたというのはなんなのか……やっぱり、でっちあげなのだろうか。

 翔平がその場から動かずにいると、亜城は吹っ切れたようにローファーを脱いだ。

「……っ」

 翔平は息をのんだ。

 黒色の靴下から、ポタポタと赤黒い水滴が床に滴る。どういうことだと亜城を見るが、彼はガーゼに消毒液を含ませていて、こちらを見ようとしない。

(嫌がらせ……?)

 咄嗟にそう思った。自作自演で足裏は攻めすぎだ。でも誰かが嫌がらせでやったなら悪質すぎる。

「……教官には言ったのか?」

「訓練に支障が出たら報告します。だから余計なことはしないでください」

「犯人に心当たりは?」

「ありません。気が散るんで、出ていってもらえますか」

 亜城は足裏にガーゼを当てる。滲みたのか、肩がびくりと震えた。

「水で流した方がいい」

 部屋を見渡すと、バケツを見つけた。棚には桶もある。翔平は桶に水を入れ、バケツと一緒に亜城の前にそれを置いた。

「バケツん中、足入れて」

 亜城の前、床に膝をついた。亜城は応じない。

「靴下の繊維とか、しっかり洗い流した方がいい」

 そう言うと、亜城は従った。

 一瞬見えた足裏は血まみれだった。ところどころに赤黒い穴があり、鋭利なものを踏んだとわかる。

 誰かが彼の靴に鋭利なものを入れたのだ。犯人が同期の中にいるのは間違いない。彼の孤独を思うと胸が痛くなった。

「ひどい。痛いだろ」

 何気なく手を伸ばしたら、怯えるように足が引っ込んだ。「あ、ごめん」と顔を上げる。

 目が合った。不機嫌な表情が、今は困惑気味だった。翔平を見る目が水っぽいのだ。

 亜城は慌てて目を逸らし、何かを堪えるように自分の腕を掴んだ。

「傷口、少し上に向けられるか?」

「……はい」

 口調はぶっきらぼうだが、足は素直に角度を変えた。

 翔平は傷口に水をかけた。バケツの中に、靴下の繊維と血が広がる。

「痛かったら言いなよ」

 返事はない。足は時折ビクッと跳ねたり、指先を丸めたりと、痛そうに反応する。

「痛いか?」

 顔を上げれば、潤んだ瞳と目が合った。いつもの荒んだような雰囲気は皆無。その目は不安げに、そして興味深そうに翔平をジッと見つめている。

「こ、これくらい、平気です」

 頬を染め、亜城はサッと俯いた。

(ちょっと待て。その態度は、可愛すぎるぞ……)

 よからぬ感情が芽生えそうになり、翔平は慌てて作業に戻った。しかし傷口を流すだけ。一瞬で終わってしまう。

 亜城は大人しく座っている。翔平は試しにタオルを手に取った。何も言わないから、ゆっくり時間をかけて足を拭った。

「もっかい、消毒するから」

 宣言し、ガーゼに消毒液を含ませた。亜城の足裏に押し当てる。

「っ……」

 亜城は痛みに顔をしかめた。足の指がパッと開く。

 さっきは出血に気を取られていたが、よく見れば潰れたタコがたくさんあった。

 それに気づいた瞬間、この足の指に舌を這わせたいと、恐ろしく物騒な欲望が芽生えた。傷んだ皮膚を労わりたい。

「嫌だったら殴って」

 自分は6ヶ月で卒業する。彼に嫌われたとて、大したダメージにはならない。

 翔平は欲望を優先し、顔を近づけた。親指の腹にある、大きなタコに軽くキスし、指ごと口に含む。

「っ……」

 口の中で親指が跳ねた。愛撫するように吸い上げる。

「なにっ……すんだよっ」

 硬い皮膚に興奮し、夢中になって舌を這わせた。努力の証が愛おしい。

 衝撃は来ない。許されたものと思って執拗に指を舐めた。亜城が身をよじり、翔平はもしやと視線を上げる。股間は亜城の手に隠されていて、思わず笑みがこぼれた。

「そこも舐めてやろうか」

 余裕が生まれ、軽い調子で言った。

 顔を紅潮させた亜城が、唇を戦慄かせる。

「なにお前、めちゃくちゃ可愛いな」

 欲望の赴くままに彼の顔に迫った。

「ごふっ」

 突如、腹に鋭い痛みが走った。腹を抱え、その場にしゃがむ。

「あ、あんた……ロンドだったのか」

「え?」

 突然殴られたことよりも、彼の傷ついたような表情に戸惑った。

「お、俺の……俺の体が、目当てだったのか」

 亜城の視線がバケツをとらえた。

 彼は素足のままローファーをはいて、立ち上がった。バケツを手にとる。手当てしたとはいえ、まだ痛むはずだ。なのにズンズンと洗面台へ向かい、乱暴に水を捨てた。そのまま出て行こうとしたので、「待てよっ」と腕に手を伸ばした。

 それも、彼は難なく避けてしまう。軽やかな身のこなしに、桜井の件が頭に過ぎった。

 彼なら、嫌だったら拒絶できる。桜井に喰われたというのは、どう考えても不自然だ。

「桜井さんに喰われたっていうの、自作自演なのか?」

 キッと彼の目つきが鋭くなる。翔平も負けじと睨み返した。

「だっておかしいだろ。お前、運動神経いいじゃん。黙って喰われるなんて信じられない。本当は喰われてないんだろ」

 亜城が桜井を陥れたなんて思いたくない。でも、本当に桜井に喰われていても気に入らない。どっちに転んでも最悪だから、つい強い口調になった。

 鋭い目つきが、力を失った。亜城は扉を向く。

「なんでもいいじゃないですか。あんたには関係ないんだから」

 投げやりな返答に、苛立ちが増す。

「関係なくない。俺もロンドだからな。お前にターゲットにされるかもしれない」

 亜城の勘違いを利用した。

 亜城は唇を開くが、何も言わずに引き結ぶ。喉仏が上下した。

 ふとひらめく。彼を怒らせれば、彼は、俺に喰われたと教官に告げ口するんじゃないか。

「っていうか、自分の体が目当てって、相当な自信だよな。俺にも好みがあるんだけど」

 せせら笑った。

 亜城はチッと舌打ちして、出て行った。

 彼が教官に「襲われた」と訴えても、ロンドでない翔平が咎められることはない。むしろ嘘が明るみになって、立場を悪くするのは亜城の方だ。

 号令台で、警察学校外出泊五訓をスラスラと唱えた姿や、黙々と自主練に打ち込む姿を思い出し、彼がここを去るのは惜しい気もしたが、でっちあげをするような人間にいてもらっては困る。堂野がターゲットにされるかもしれないのだ。

 これでいい、と翔平は自分に言い聞かせた。


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