生きてこそ、塗り替えられる記憶。
一度でも、自分の命を傷付けた人なら解るかもしれない。『生きてこそ、記憶は塗り替えられる』という気持ちを。
命を傷付ける理由は人それぞれにある。お金だったり仕事・学業だったり病気だったり……辛い気持ちを他人が百パーセント理解できるものではない。それぞれが乗り越えなければいけない壁が存在するのだろう。
自分を傷付けるのは、明らかに何かのバグだ。小さなものでは唇を噛んで血まみれになったり。掌に爪を立てて痕を残したり。他人から見たら痛々しくても、当人からとれば無自覚の行為。
一番は、そういった行為に繋がるストレスを取り除くことだ。
薬が必要な人が多く居る。私も、その一人だ。投薬治療には大きな効果と代償がある。それも人それぞれ。私は、多くの記憶の消失と体型、時々起こる副作用があった。
特に記憶については、昔の自分がどんな性格だったかとか、どんな事をしていたとかが朧気である。そんな私は、とあるゲームにハマった。気分が高い時に、ほぼ衝動的に買った物だった。
ゲームは憶える操作が多い。はじめのうちは、
(どうせすぐに止めるだろうな。買い物失敗だ)
等と思っていたが、操作に慣れると、とても癖になる。面白いのだ。ゲームのキャラにも愛着がわいてあるサイトに二次創作の小説を投稿するまでに沼った。
ふと。部屋を見渡すと、埃をかぶった、大きな『羊』のぬいぐるみがあった。羊は、ハマったゲームに登場するキャラの象徴的存在だ。ぬいぐるみを見つめながら、
(これは何年くらい前の物だろう)
と、思いを巡らせていると、高校生から大学生くらいの私が、ゲームセンターで羊のぬいぐるみを入手したという記憶だけが浮かんできた。
意外とキッカケさえあれば記憶は思い出せるのである。
私は、埃をかぶった羊のぬいぐるみをクリーニングに出そうと決意した。ずっと埃を被っていたぬいぐるみ。まるで私の朧気な記憶と同じ。それが洗われて、モコモコのふわふわ真っ白で戻ってきたとき、私の記憶は鮮明な今の記憶に塗り替えられるだろう。
もしあのとき私が、自分の命を傷付け、それが行き過ぎてしまった場合。私はこんな弾んだ気持に辿り着かずに息絶えていたと思うと、怖ささえ感じる。
生きてこそ、記憶は塗り替えられる。
嫌な記憶や現実・病気も、他人を頼ったり薬に頼ったりいろいろと試して、適切な処置をすれば乗り越えられるのだな。と、実感するのはいつも問題が解決した後。やはり、ぶっつけ本番な人生だから、沢山の後悔が残るが、生きているということは『苦しみをどう乗り越え、生きる喜びを見つけるか』によると思った。
何事においても、
「絶対に〇〇しなくてはならない」
というこんな制約。実はどこにも無かったりする。もっと気楽に、ちゃらんぽらんに、人生を生きても良いのだと思う。先ずは、生きてこそ。
記憶はいくらでも塗り替えられるから。
後悔以上の楽しみが見つかる日は、きっと見つかる。一所にしがみ付かなくてもいい。私たちはどこまでも自由だ。