痛むあかぎれに舌が覆う
指が割れた。
お湯が出るのを待つのがめんどくさくて冬の寒さで冷やされた水道水で洗ったら、薬指はぱっくりと第二関節の白い皮の間に赤い横線が引かれた。
人間の洗い物はようやく終わったのに、まだもう一匹分の洗い物が残っているというのに、自分の手の脆さに辟易してしまう。対面式キッチンの向こう側で愛犬のベニーが、黒真珠の目を向けている。もうすぐ日課の散歩の時間だから早くしてくれないかなと催促しているのだろう。
この愛犬は 自分のことしか考えていない。犬の頭に私の事情を理解してくれと期待している私もどうかと思うけど……
あかぎれした部分を絆創膏で貼ると、一年前にそこにあったものを思い起こされてしまった。残ったベニーのお皿を洗い終えると、ベニーはあごを上げてじっと化粧を落とした私の顔を見ている。
「……ふぅ。いこうか」
ため息をついてそう言うと、ベニーは尻尾をぴくんと立ち上げてグルグルと扉の前でフローリングに傷をつけながらタップダンスを踊った。
水道水で外の寒さの片鱗はわかっていたけど、外に出ると凍てついた空気がぱりぱりと衣服に覆われていない顔の肌に張り付いてくる。
私はパーカーの上に、もこもこのジャケットを羽織るという完全防備で、空気に触れたら凍傷するほどの真冬の冷たさから肌を守る。でもベニーは、裸だ。正確には自分の肌から生えている自前の茶色の毛深い毛皮のコートを常時身に纏っている。ベニーはグイグイと腕を引きちぎるほどリードを引いて私を引っ張っていく。
本当に身勝手な奴。彼とそっくり。
ベニーの爪からアスファルトの地面をひっかく音が消えて、じゃりじゃりと砂利を削る音に変わった。
公園についてしまった。幸いにも夜は深夜の十二時を回ろうとしていたので、誰も私の素顔を見る人はいない。誰も邪魔する人はいない。ベニーのリードを外して自由にすると、飛んでいくように公演のあぜ道を駆けだしていった。
ベニーが駆けていくのを見届けると、私はポケットからスマホを取り出して一年前のベニーの写真を見る。一年前まではミニチュア犬と何ら変わりないほどの小柄で可愛らしい子犬ベニーが、私の腕の中に抱かれている。
その写真の中で私は無理くりつくった笑顔で私は幸せですという表情をしていた。その一日前の写真には、本当に幸せだった私と彼の写真が残っていた。
ベニーを飼い始めたのは、衝動的だった。二つの不運がなかったら、私がこうしてあかぎれで指を痛めたまま夜の公園へ散歩することなんてなかっただろう。
『あのさ……別れよう俺たち』
「……へ」
彼の言葉に私はまぬけな声で返事をしてしまった。
その時の私は、仕事に失敗したショックでまだ立ち直れてないままの帰路の途中、唐突に彼氏から電話が来た。彼の誕生日を精一杯祝ったばかりの翌日に、薬指に彼からもらった婚約指輪をつけながら……
「なんで? 私なにか悪いことした?」
「やっぱり俺たち、相性が合わないと思うんだ」
……やっぱり? 昨日祝わせておいて、急に別れようだなんて。自分勝手なやつ! でも怒る元気は失われていた。私はそのまま彼の言うままに別れを受理した。受け入れたわけではない。
それから化粧が落ちるのも、寒さで涙が張りつくのも構わないまま帰路を行っていた。泣いて鼻をすするたびに、空気の冷たさが鼻の奥を刺激して痛かったのも覚えている。そしていつも見ることはないペットショップのガラスケースの中をたまたま覗いたことも。そしてゲージの中にいた赤茶色が映えた子犬が私のひどい顔をじっと見ていることも。
衝動的に店の中に入って、店員さんに言われるがままつくった笑顔をしてベニーと記念撮影をした。スマホの中にある写真はその時のものだ。
けど、ペットを飼うことは大変な労力と気付いたのは飼ってからすぐのことだった。ベニーは家に入るといきなり、玄関マットに用足しをした。慌てて私はベニーを段ボールの中に隔離して、汚されてしまったマットをどう洗うかで四苦八苦した。
それから一年は、この憎いほど自分勝手な愛犬と格闘する日々が続いた。フローリングを傷つけ、マットの上で致してしまうこの犬の理解できない行動のおかげで、私の嫌なことは全部こいつに喰われてしまった。何もかも、彼氏のことも、仕事のこともみんな自分勝手な愛犬に喰われてしまった。
今ではもう躾が効いて、だいぶ大人しくなりだいぶ楽になった。ほかのことにも気が向いてしまうほどに……
ベニーがまだ公園の反対側で土を蹴りながら駆けていくのを見届けると、ラインを開き、彼のタイムラインを覗いた。そして数日前に彼が投稿したばかりのものを見つけた。彼は新しく付き合った彼女と肩を寄せ合って、寒さをみじんも感じないような笑顔を見せている。
その目はきっと私には向いていないことがよく伝わってくる。下のコメントには、『四月に結婚します!』とメッセージが打たれていて、彼の隣にいる新しい女の薬指には銀色の指輪がはめられていた。
目から涙かこぼれ、真冬の寒さで涙が頬に冷たく張り付いた。
未練がましいと言われるかもしれない。一年も前の彼氏のことなんてもう忘れてしまえばいいのにと言われるだろう。けど、私は開いてしまった。このパンドラの箱を……
「ヴォンヴォン」
ベニーの吠える声が聞こえると、私ははっと現実に戻ってきた。ベニーはたっぷり走ってきたであろうに、口からもうもうと熱い湯気をポットのように吐き出していた。
「ボールだよね。ちょっと待ちなさい」
提げていたバッグに手を入れて、中に入っていたボールを握る。ちくっと薬指が二つに裂かれたような痛みに襲われて、ボールを土の上に落としてしまった。手袋を脱いで見ると、絆創膏が中で蒸れて剥がれ落ち、ボールと同じく地面に落ちてしまった。寒風が吹きすさび、裸の左手に張りつくと薬指が乾燥し、赤くひびが入った傷が染みるように痛くなる。まるであかぎれが古傷のように痛い。
そして真冬の風が、指輪をしていた指を切り落として、忘れてしまえと訴えるみたいだ。
もうみんな変わっていっているのに、私だけ取り残されている。
体も心も環境も、周りは変わっていくのに私だけそのまま。時は戻せないとわかっているのに、残ったまま。
結局私は、一年前のまま時が止まっていた。
薄暗闇の中に、くれなゐのものがあかぎれの薬指をぬるんと這った。
ベニーの舌だ。ベニーは何度もあかぎれして動けない私の薬指を舐めている。温かく濡れた舌が傷の痛みをやわらげてくれている。ひとしきり舐め終わると、私はベニーの頭を撫でた。
あかぎれの痛みはさっきよりも引いていた。
「傷を癒してくれているの? それとも早くボールを持って来いって意味?」
私はこの自分勝手な犬の行動をまだ理解できない。だって、何を言ってもベニーは何も言ってこない。
ベニーは、寒々とした夜の街灯に光る黒い瞳をまっすぐに私に向けて見つめるだけだった。慰めも、別れも、祝福も言わず口を閉じて私のことだけをじっと見つめるだけだった。




