-96-
気付けば周りはすでに暗くなっていた。彼が立ち上がって着替えはじめる。
「浴衣着ないの?」
「ん…」
布団から出てない状況のまま彼から浴衣を受け取り、それを軽く羽織って障子の向こう側へと向かった。
今、この前以上に彼の顔が見れない。確かにこの前よりは楽ではあったが、何せ恥ずかしい姿を見られてしまったのだ。
浴衣に着替えおわって、覗くような感じで彼の様子をちらっと見た。浴衣姿が大人の魅力を増していて、ついつい見とれてしまう。
『薫』
いつもいじってくるときとは全く違う、全てを包んでくれるような声。数時間たった今でもドキドキするなんて、きっと私は依存症になるんだろう。
あれこれ考えていると、不意に彼と目が合った。今までのことが一瞬にして鮮明に蘇り、思わず身を隠してしまった。
ダメだ、早くクールダウンしないと、せっかくの旅行を台無しにしてしまう。
無駄だとはわかっていても、顔をぱたぱたと扇ぐ。早く、早く普通に戻らなきゃ。
すると、彼の低くて優しい声が部屋に響いた。
「薫、こっちにおいで」
名前を呼ばれただけなのに心拍数が上がる。あの時から名前で呼ぶなんて卑怯すぎる。
そんな彼には勝てなくて、そーっと障子から顔を出した。
しかし私の予想に反して、彼はすでに目の前にいた。正面衝突しそうになってびっくりする。
それと同時に彼が両手首を掴んで来た。あの時と一緒…顔が一気に熱くなるのがわかる。
「捕まえた」
「バカップルじゃないんですから…」
そう言って私は顔を伏せた。正直今までバカップルはKYだとか思っていたけど、どうなんだろう…さすがに外ではしないから大丈夫か。
そんな私をよそに彼はふわっと私を包み込み、額に唇を寄せた。噴火するんじゃないかと言いたくなるくらい真っ赤になっていくのが自分でもわかる。
「よし、温泉に行こう」
彼はそう言って優しく微笑みかけた。
手を繋いではいるけど、彼が私の前を歩いているので、まるで手を引かれて歩く子供のようになっている。
…この大きくて温かい手がいつも私を包み込んでくれるんだ…。
嬉しいような恥ずかしいような気持ちで彼の手を握り返した。彼は少しだけ後ろを振り返り、笑顔で私の歩調に足並みを合わせてくれた。
大好きだ、大好きなんだ。
こんな気持ちが溢れてくるなんて初めてと言っても過言じゃない。
この幸せな時間がずっとずっと続けば良いと願う。
「薫」
最愛の人が名前を呼んでくれた。私はあえて何も言わず、彼に笑顔だけを向ける。
「…呼んでみただけ」
「良い歳してやめてくれません?バカップルごっこ」
そんなことを言いつつも、彼の左腕に抱きついた。
どうかこの時間が永遠でありますように…。