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日も落ちて辺りはすっかり暗くなってしまった。身を起こして部屋にあった浴衣に着替える。
「浴衣着ないの?」
「ん…」
彼女はそう言ってぱたぱたと部屋の奥に行ったきり戻って来ない。
その原因は少なからず心当たりがある。間違いない、部屋が明るかったからだ。
俺としてはむしろいつもとは違った可愛らしさを見ることが出来たから満足だったが、彼女にとってはそうではないのだろう。
『新一さん』
切なそうに何度も呼んだ彼女の声がまだ耳に残っている。こんな恋愛をしたのはホントにいつ以来だろうか…。
気付けば彼女は浴衣を着て障子の影からじーっと俺を見ていた。目が合った瞬間にさっと隠れてしまった姿は、小動物以外に何と表現出来ようか。
ついつい笑みがこぼれて来る。
「薫、こっちにおいで」
そう言っても出て来ないだろうと確信した俺は、そっと障子の方へ向かった。まるで獲物を狩りに行く獣のようだと心の中で苦笑してしまう。
障子の奥を覗こうとした瞬間、彼女が同じタイミングで顔を出した。出会い頭に衝突してしまうかのようにお互いがびっくりする。
それと同時に彼女の両手首を掴んだ。彼女の身体がびくっとしたのがわかる。
「捕まえた」
「バカップルじゃないんですから…」
そう言いながら顔を真っ赤にさせてうつむいた。肩まで伸びた髪を結っていて、いつもと違う雰囲気がまた色っぽい。
彼女を抱き締めて頭を撫でる。ほのかにするシャンプーの香りと汗の匂いが入り交じっていて、当然の事だが『彼女がここにいてくれる』という実感が湧いてくる。
額にそっと口付けをして微笑んだ。
「よし、温泉に行こう」
良い歳して若い子と手を繋いで歩くなんて正直恥ずかしい気もするが、彼女の小さくて冷たい手を握ると、彼女を守っていかなくてはという気持ちになる。さっきも俺の腕を必死に掴んでいた彼女の手はか細くて、俺が守らなければ消えてしまいそうな気がした。
そしてそれを身をもって実感する事になるなんて、その時は想像さえも出来なかった。
この幸せな時間がずっとずっと続けば良いと願う。
「薫」
最愛の人の名前を呼んだ。彼女はそれに答えるかのように笑顔を見せた。
「…読んでみただけ」
「良い歳してやめてくれません?バカップルごっこ」
そう言いながら彼女は声を上げて笑った。
世界で一番、大切なひと…。