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夜9時半を回ったところで彼に電話をかけた。多分この時間なら家に帰り着いているだろう。
『もしもし』
「あ、もしもしー。免許取れましたよ!」
『まさか取れるとは思わなかったよ。よく頑張ったね』
前半部分は聞こえなかったとして、誉められたことを素直に喜ぶ。
「当たり前でしょう、私を誰だと思ってるんですか」
『え?方向オンチの薫さま』
何となく言われる気はしていた。私達の関係がどんなものであろうと、この構図に変わりないことに苦笑してしまう。
すると彼はそうそう、と言って別の話題を持ちかけてきた。
『今日交響の子に会ったよ』
美樹ちゃんのことだ。この人他に何を言ったんだろう…。
「知ってます。聞きました」
『で、何て言ってた?』
「秘密です」
『何でよ』
素直に喋ったら何か負けな気がする。
とりあえずオカン呼ばわりされたことを抗議しなければ。
『ねえ』
「…すみませんね、まだ二十歳にもなってないのにオカンで」
まだ十代なのに『私まだ若いんですけど』とか言わなきゃいけないのは正直辛い。
『変な意味じゃないんだって。ほら、しっかりしてるじゃん、面倒見も良いらしいし』
「私まだ19ですよ?」
『老け顔?』
この人は『親しき仲にも礼儀あり』という言葉を知らないのだろうか。Sの人ってこんなにもずけずけと言ってくるのだと痛感した。
「さっ、いてー!もう口ききません」
彼が大爆笑して話す。
『いや、俺だって高校の時からずっとこの顔でさ、でもおかげで今は若く見られるよ』
そんな事言われたって嬉しくないし、フォローにも聞こえない。どうせ私は老け顔ですよ。
完全にすねてしまった私の機嫌を伺うように彼が話し掛けて来た。
『ごめんって、怒らないで?』
ならばアレでいくしかない。私にとっての切り札だ。
「じゃあ、今度ドライブに連れてって下さいよ。私が運転するから」
『は?やだよ、補助ブレーキないもん』
言われると思ったが、押して駄目なら引いてみろ作戦で、特別リアクションを取らないことにした。
「…もう知らない」
だがそれは何故か逆効果で、彼が再び笑い始めた。
『香西さんドMなんだもん、仕方ないじゃん』
「仕方なくない、このドS!」
彼は今までの中で一番と言えるほどの大爆笑をした。私は別に面白いことを言ったつもりはないのだが、彼に言わせれば私のすべてが笑いのツボらしい。
彼は軽く息を吐いて呼吸を整えた。
『わかったわかった、今度俺連休取れるからさ、旅行にでも行こうよ。そしたら心置きなく乗れるし』
「…お金ないです」
『宿代だけで良いよ、車だし』
悩む。お金がないことは事実だが、だからと言ってその他資金を彼に出して貰うわけにはいかない。
『ねえ、春休みでしょ?行こうよ。
行かないんだったらもう車乗せないから』
人がせっかく真剣に悩んでるのに、それをへし折るかのような言葉には反論するしかない。
「セコい!良いです、レンタカー乗るから」
『薫』
今、自分でもドキッとしたのがわかった。ズルい、いきなり名前で呼ぶなんて反則だ。
「っ、わかりましたよ…」
電話の向こうでは彼が良かった、と言った。
『温泉行こうよ、癒されるし』
「格安でお願いします…!」
『はいはい、任せなさい』
彼の笑った声が聞こえてきて、何だかぽかぽかした気分になる。
『ちなみに二泊三日で大丈夫?』
「三連休取れたんですか?」
『そうなんだよ、今まで頑張ってきたからね。月曜から三日間』
スケジュール帳で予定を確認しながら答える。
「今度ですよね?なら大丈夫です」
『了解。良い所調べとくから』
「お願いします。楽しみにしてますね」
私はこの時、旅行がかなりハードなものになるとは思ってもみなかった。