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教習原簿を握る手に汗をかいて来た。彼氏とかいつ以来だろう。しかも彼は指導員で、10歳も離れている。
遂に今日が最後となった。『先生と生徒』という関係は今日で終わるが、何せ昨日から『彼氏と彼女』の関係が始まっているから、何だかややこしい感じがする。
のたのたと準備をしていると、わざとらしいと言いたくなるほど彼が他の指導員と話しながらやって来た。今までにこんな姿見たことがない。
「こんにちは、運転席どうぞ」
「はい、お願いします」
車と彼のあいだをするりと抜けて運転席に回る。二人ともシートベルトを着けるやいなや、彼がこっちを向いて話し掛けて来た。
「薫さま」
「第一声がそれってどうなんですか…」
「えー、何で?」
何か…さま付けで呼ばれるのは抵抗感がある。何でとか言われても、嫌なものは嫌なんだが…
「…何でもないです」
つい彼だから良いか、とか思ってしまう。そんな私はもう末期だろう。
「よし、じゃあ今日はみきわめだからね」
「はい」
「まあ香西さんなら無理だろうけど」
「どういう意味ですか!」
私の言葉に彼が大爆笑する。
「はー、俺香西さんにかなりひどい事言ってるよね」
「ホントですよ、もー…」
「香西さんさ、そのキャラって素?」
思わずバックしていた車を停め、彼の方を見た。彼もまた私を真っすぐ見ていた。
その強い眼差しを長時間見るのは実に心臓に悪い。
「は?素ですけど…何で?」
「マジウケるから」
「どの辺が?」
「存在が」
怒るべきなのか、嘆くべきなのか、もう訳がわからなくなって来た。『存在がウケる』とか普通彼女に言うだろうか。
「存在を笑われたの初めてですよ…」
「それだけ俺が香西さんを好きって事なんだからさ、そんないじけないでよ」
「むー…」
ドSだ。前々から思ってはいたが…あれか、好きな子ほどいじめたくなるってやつか。
そう考えると愛されてるんだなぁ、と思い、顔が熱くなってくる。
しかし彼は私の淡い期待を無視して、何とも言えない言葉を発した。
「仕方ないじゃん、香西さんドMなんだもん」
「は?」
誰がいつドMになったというんだ。一応自覚がないこともないが…何だか認めたくない。
「香西さんドMじゃん」
「どの辺が」
「全体的に。『私をいじってください』ってオーラが出てるもん」
「どんだけなんですか!」
私ってそんなにMっ気満載だったんだろうかと少し不安になった。多分、彼の気のせいだ。
「そういえばバレンタインのお返しは?」
どうせ恋人同士になったのなら、もらったっておかしくない話だ。しかし彼はわざとらしく右耳に手をあてた。
「え?」
「え?」
「何の話?」
「むぅ…」
ここで引いたら絶対負ける。そう確信した私は大袈裟に話をしてみることにした。
「あーあ、せっかく忙しい時間割いて作ったのになー…」
「あれ何か立派だったもん。すっげぇ手が込んでるなって思った。
あれ作るのに相当時間かかったでしょ?」
彼は見事に引っ掛かってくれたが、その反応には何故か良心が痛んでしまった。
「時間自体は全然かかってませんよ」
「でも凄かったよ、あれ」
あまり付け込むなんて事はしたくなかったけど、一か八かの賭だ。
「頑張ったんです。だからお返しを」
「竹トンボでもあげるよ、手づくりの」
何でそんな…。
何だか少年っぽさが残っている彼に、ついつい笑ってしまう。
「いりません」
そして私は今日、無事に技能教習の全課程を修了した。