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家までぶらぶら帰っている最中も、まだ頭がぼーっとしている。
夢か?頬をつねってみようか…いや、最近の夢はつねっても痛いらしい。
家に帰り着いて、布団も敷かずにカーペットに寝そべった。今日はお姉ちゃんがいないから、一人であれこれ考えてても怪しまれないだろう。
丁度その時電話が鳴った。こんな時間に誰だよ、と思いつつ携帯を手に取ると、そこに表示されていたのは彼の名前だった。
再び心拍数が上がる。
「もしもし?」
『こんばんは』
「こんばんはー、お疲れさまです」
何だろうか、何を言われるんだろうか。そっちの意味でもドキドキが止まらなかった。
しかしそんな私の思いとは裏腹に、2、3秒ほど二人の間に沈黙が流れた。
「えーっと…どうしたんですか?」
『いや、まあ声が聞きたくなったっていうか…』
思わず絶句してしまった。顔が熱くなってくるのがわかる。
何と言葉を続けて良いのかわからない。ありがとう、か?嬉しい、か?私も、か?
一人であたふたしているのが電話越しに伝わったのか、彼が話題をふってくれた。
『あのさ、何て呼んだら良い?』
「いや、普通に下の名前で良いでしょう」
むしろ何と呼びたいのかが気になる所だけど、墓穴を掘りそうなのであえて聞かないことにした。
『えー、面白くない』
「そこに面白さを求めないでください!」
彼はいつものように大爆笑している。
「じゃあ私は何て呼んだら良いんですか?」
『下の名前で良いんじゃない?』
「…新一…さん?」
その瞬間彼が喋らなくなったので、名前を間違えたのか不安になる。
が、彼は少し声のトーンを上げてあれ?と言った。
『そういえば俺、香西さんに名指しで呼ばれたことないよね』
「だって先生って呼ぶのか、さん付けで呼ぶのかわからなかったんですもん」
『じゃあ俺のフルネームは?』
「内村新一さん」
間違えるはずがない。何度携帯に表示されたこの名前とにらめっこしたことか。
『ありがとう、香西薫さま』
「ちょっと、さま付け止めてくださいよ!」
『えー、何で?』
「何ででも!」
彼は大爆笑していたが、軽く一息ついてトーンを落とした。
『俺達さ、これから大丈夫かな?』
「ん?何が?」
『だってさ、よくよく考えれば俺と香西さんって10歳離れてるじゃん』
私はそこまで気にしたことはなかったが…彼は真剣に悩んでるみたいだ。年の差ってやっぱり気になるものなんだろう。
「良いんじゃないですか?世間には30以上年の差がある夫婦だっているし」
『でも俺が40のおっさんの時、香西さんは30でまだ女盛りでしょ?』
何を言ってるんだ、と思う。年齢差とか、お互いにまだ知らない過去とか、そんなのは問題じゃない。彼と一緒にいたい、ただそれだけだ。
「嫌ならご破算にしますか?」
『っ、いや、そうじゃなくて!
ただ…香西さんはそれで良いのかなって』
「良いに決まってるじゃないですか。こんなに私を必要としてくれる人ってそういないですもん」
『そっか…ありがとね』
「え?何がですか?」
『いや、何でもない』
幸せだ。この時間が、会話が、彼の声が、私の全てを満たしていく。
『そうだ、今度休みが出来たらドライブにでも行かない?』
「じゃあ私が免許取れたら行きましょう」
『何で?』
「ペーパーにならないように」
『やだよ、教習中の香西さん見てるとめっちゃ不安だもん』
「失礼な!」
さっきとは打って変わって、彼が声を上げて笑っている。
『今度休みが出来たら、ね。免許取れたらまた考えてあげるよ』
「むー…」
『ちなみにどこに行きたい?』
「フランス」
『行けるわけないじゃん!』
当たり前じゃないか。行けるものなら連れて行って欲しいくらいだ。彼の全力ツッコミに思わず笑ってしまう。
「嘘です嘘です。いちご狩りが出来るとこに行きたいな」
『わかった、調べとくよ。
因みに次いつ?』
「明日です」
『聞いてない』
「だって言ってないですもん」
指導員への報告義務なんてないんだから良いじゃないか、と思う。
それに、
「明日終わってもこれからずっと会えるんだし」
彼が小さくあぁ、と言った。言い出しっぺが忘れる関係なんておかしい話しだ。
『そうだね』
「ね?」
彼のその柔らかな声に胸の高まりがおさまらない。