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あと5分、どうしよう。
あの後から教習所に戻って来ても沈黙が続いている。私は運転するのが精一杯で、他の事なんて気にかけている暇はない。
と言いたいところだが、さっきからずっと考え事ばかりしている。
これは夢だろうか?彼は本気で言ってるんだろうか?
頭からぐるるる、と音が聞こえて来そうだ。
「じゃああと5分あるから縦列駐車ね」
「はい」
それ以外なんて喋れなかった。
言われるがままに車を停め、バックさせようとした。
準備をしたは良いが、パニックになってるせいもあってハンドルを切る方向と量をど忘れてしまった。
「ちょっと。早くしてよ」
彼が腕を軽く叩いた。せかす口調にますます焦ってくる。
「えっと、えっと」
「縦列駐車です。はい、どうぞ」
とりあえず思い付いたままにハンドルを切ったが、当たり前というか何というか、見事に間違っていた。
「縦列駐車ですけど!全部切りなさいよ」
「あっ、はい!」
いつもの雰囲気に戻った。何だ、お互い照れ臭かっただけか。
そう思う自分に気付き、はっと我に返った。さっきのが罰ゲームだったらどうするんだ。
訳のわからない事を考えてるなんて知らない彼は、笑いながら話しかけて来た。
「香西さん、起きてる?」
「起きてますよ!」
どこに教習中に居眠り運転する奴がいるんだ。もしかしたらちゃんと話を聞いてないとか思われたのかもしれない。
彼は笑い上戸だ、と思わせるくらいに笑っていた。
「短期間で忘れる香西さん」
「覚えてます!」
「はー…やっぱ香西さんといると面白いわ」
「春先だからね、頭がぼーっとするんです」
「春先だからじゃなくて常にでしょ?」
「ひどっ!」
駐車場へ戻る指示を受けて素直に戻るが、最近の彼はそこまで言うか、と言いたくなるほどずばずばと言ってくる。
そんな彼はSで、あまり嫌だと思わない私はMなんだろう。
「はい、ハンドル貸して」
ハンドルからパッと手を離すと、彼が横から手際よくハンドル操作をした。
見とれるのがばれないように、いつもわざとらしくハンドルか外しか見ない。
「はい、じゃあ駐車措置して」
「はい」
彼に負けじと手際よく駐車措置を終え、次の教習の指示を受けた。
彼が教習原簿に印鑑を押そうとしているのを覗き込む。何とか自主経路設計は合格できたみたいで一安心した。
「原簿まだ使う?」
「いや、今日はこれだけです」
「はーい、じゃあお疲れさまでした」
今日の予定も終わったし、帰ろうと思ってドアに手をかけた時、後ろから引き止められた。
「ちょ…待った!」
「え?」
「あのさ、さっきの返事まだちゃんと貰ってないんだけど」
「さっきの?」
記憶をさかのぼる。思い当たるのはもうアレしかない。
思い切って話をしてみた。
「後悔しないですか?」
彼は少しびっくりした顔をしたけど、即座に答えた。
「しないしない。するわけがないじゃん」
「ホントに?料理上手くないし、掃除下手だし、頭悪いし…そんなので良いんですか?」
愛想尽かされて捨てられるのがオチな気がする。
そんな私をよそに、彼は逆に私に質問して来た。
「そんなので良いって言うか…むしろおっさんで良いの?」
「まだ若いでしょ」
笑いながら答えた。その歳でおっさんなんて早過ぎるだろう。彼におじさん臭さはなく、むしろ男の魅力しか感じない。
「ともあれさ、返事は今じゃなくて良いから、真剣に考えてもらって良い?」
…あれ?
多分彼にとってさっきの反応はどっちつかずだったんだろう。実際曖昧な返事をしてしまったし。
「だから、返事ならしたじゃないですか」
「え?いつ?」
「運転中」
彼が小さくあ、と言った。やっぱりはっきりと答えるべきだったと後悔した。
次の時間に教習が入っている生徒さんが動き出したので、車から出ようとした。しかしその時、またもや後ろから引き止められた。
「っ、かお…」
「次の教習、始まっちゃいますよ?」
くるっと振り返って答える。
彼の言葉の続きは『が変』とかじゃなくて、私の名前の『る』だっただろう。もしかしたら『さま』が付いてるかもしれないけど。