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何も喋ることなく、悲しげな顔のまま氷室ちゃんがこっちに歩み寄ってきた。
「な、何?」
「いえ」
そして、至近距離で立ち止まられた。数はかなり少ないが生徒からの視線も向けられ始めて、多少…いやかなり困る。
「とりあえずさ、指導員室行こう。ね?」
俺は颯爽とその場を立ち去った。その後を小柄な氷室ちゃんがてけてけついてくる。
…擬音、彼女のくせがかなり移ってきた気がする…。
とか今はそんなんじゃなくて、指導員室に戻っても他の教員の目が痛くなりそうで、とりあえず通路で立ち止まった。
「言ってくれなきゃわかんないよ。どうしたの?」
「…あの女性は、昔の生徒さんなんですよね?」
「あー…ああ、アイツね。うん」
「ずいぶん仲が良かったんですね」
声色からして怒ってるような拗ねてるような。ぶっちゃけ、すごい困る。
「まあ指名してくれてたしね」
それから氷室ちゃんは何も喋らない。次の時間は教習がないからまだ良いものの、一応仕事中だからこの状況はあまりよろしくない。
「あの子気に入らないの?」
「はい」
やけにあっさり答えた。俺は思わず吹き出してしまった。
「正直だね」
「だって…」
少しうつむき加減の氷室ちゃんがぱっと顔を上げた。
「内村さんと仲良くしてる女性は好きになれないんですもん」
たぶん一般的に、男はこんなことをこんな子に言われたらイチコロだろう。でも言っちゃ悪いが俺は別にどうも思わない…彼女と付き合っててもそうじゃなかったとしても。
「気持ちは有り難いけどさ、アイツ実は俺の婚約者なんだよね」
ぽん、と肩に手を置いて営業スマイルを向けた。
「じゃ、俺仕事に戻るよ」
切なそうな声で呼び止められたが、俺は決して振り返らなかった。
「なんて事があってさ」
ここは俺の家。今彼女の手料理を食べている最中だ。
「ふーん…」
俺としては妬いてくれるかな、とか淡い期待を持っていたが、彼女の反応は意外と薄かった。
「まあ内村さんって名前出したらなんとなく嬉しそうにしてましたもん」
「あ、そうなの?」
「良かったじゃないですか、可愛い人に告白されちゃって」
彼女が何故か嬉しそうに喋った。でも、言ってる内容はちょっと皮肉っぽい。
「…なんかにこにこしてるね」
「んー、だって別の女の人から告白されるって事は…」
その次に来る言葉が何だか怖くて、彼女を引き寄せて抱き締めた。彼女の香りが目の前に広がる。
「俺は、お前以外興味ないから」
すると彼女は突然笑いだした。俺の腕の中からゆっくり出ていく。
「わかってます」
そしてその大きな瞳を俺に向けた。
「そうじゃなくて、別の女の人から告白されるって事は、それだけ魅力があるって事でしょ?」
「妬かないの?」
「まあ妬かないって言ったら嘘ですけど、彼女が同僚の人に妬いてもしょうがないでしょう」
よしよし、と彼女が俺の頭を撫でた。愛しくて愛しくて、もう一度彼女を抱き寄せる。
「可愛いこと言ってくれるじゃん」
「でしょ?」
「今のダメ。減点」
「なんですかそれ!」
そう言って俺から離れようとした彼女の唇を奪った。最初は触れるだけにするはずだったのに、徐々に深いものになっていく。
「…ばっ、か…今食事中…!」
「じゃあメシ終わり。皿は俺が明日洗うから」
「汚いでしょ!ちゃんと今日洗わなきゃ!」
「ちゃーんと綺麗に洗うから」
「そんな問題じゃ…ひゃ!」
つべこべ言っている彼女を抱えあげ、ベッドに放り込んだ。
「えーい」
ベッドからは小さい悲鳴が聞こえる。楽しいなぁ、と思いながらベッドへ上がり込むと、彼女はがばっと身を起こした。
「ちょっと!もっとデリケートに扱ってくださいよ!」
「だって時間かかりそうだし」
「何が…!」
「だって16回に増えたじゃん」
彼女が一瞬は?という顔をした後、いつものように顔を赤くしていった。
「忘れなさんなって」
「ばか!明日仕事って言ったでしょ!」
「さすがに俺もそんなに持たないって」
「だったら…!」
わー照れてるー、可愛いー、なんて心の中で惚気ながら、 彼女を押し倒した。彼女は無駄な抵抗をすることなく、頬を上気させて俺を真っすぐ見つめた。
俺たちには、この場に及んでまで愛の言葉を囁く必要はない。口に出さなくてもわかり合ってることだから…。
そしてやっぱり、翌朝二人とも遅刻ギリギリで職場に駆け込むのだった。




