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いつもは爽やかな立ち振る舞いでやわらかい物腰の谷原さんから、あまり想像がつかないようなヘビーな声が聞こえてきた。
「う…」
彼の膝元から谷原さんがきつそうに起き上がった。あまりのひどさに彼から離れ、走って車の反対側に回る。
ドアを開けてから岩本さんと目が合った瞬間、悟ってくれたのか岩本さんが財布を持って車から降りてコンビニに走ってくれた。ウコンか何か…もうこの際何でもいいから二日酔いに効くものを、出来れば彼の分も欲しい。とりあえずいつでも吐けるようにビニール袋さえあればそれでいいような気もするけど…。
谷原さんの目線に合わせて屈み、顔色を見る。いつもの谷原さんからは想像も出来ないような有様に、少し戸惑いを覚えた気さえした。
「大丈夫ですか?」
「薫ちゃん…」
いつも向けられる子犬のような目が、いつにも増して切なげだった。すごく胸が締め付けられる。
「…無理したでしょう?きつかったですね…」
そっと背中に手を添えて、谷原さんの顔を覗き込むように屈んだ。
谷原さんは苦しげに目を細めて、そのまま額を私の鎖骨辺りに乗せた。
谷原さんが声を殺して泣いている。それに気付いた私は、背中に添えていた手を谷原さんの頭に移した。子供をあやすようにそっと頭を撫でる。
私の腕を掴んでいる紳士的な男性の手は、少し力強く、でも震えていた。
少し落ち着いたのか、震えていた手が私の腕から離され、谷原さんの膝の上に力なく落ちた。
「みっともない…こんな…」
「そんなことないですよ」
そう言って谷原さんを庇うようにそっと抱き締めた。
初めて彼以外の男性を抱き締めた気がする…それは置いといて、華奢だと思っていた谷原さんは思っていたより背中が広く、こんなにずっと近くにいながらこんなことも知らなかったなんて、何だか罪悪感のようなものを感じてきた。
私は何度、この人の好意をはぐらかして来たんだろう?
「…ごめんなさい、私が谷原さんの気持ちを台無しにしたばっかりにこんな…」
「薫ちゃんは悪くない」
谷原さんからはすぐに返事が返ってきた。突然の言葉とその真剣な目に言葉が詰まる。
谷原さんがそっと私の両肩に手を置いた。その手は壊れ物を扱うようで、弱々しかった。
「俺が悪いんだ…結局自分の力で振り向かせれなかったし…」
この人はいつも、私だけじゃない…周りの人を否定したりしない。何か起こったら否は自分にあると言う。状況が状況だけにそれがとても辛く聞こえる。
「辛い思いばっかりさせてごめんなさい…」
私はそう囁くように言った。谷原さんの頭が私から離れる。一般的な男性より少し大きめな谷原さんの目は涙で潤んでいた。
「でも…私は彼を選んだことを後悔していません。むしろ中途半端に終わった関係が、こうやってまた続けられることになって感謝してます」
その時、彼と目が合った。逆光であまり顔は見えなかったけど、彼に対して微笑みかけ、そしてもう一度谷原さんを見つめた。
「幸せになります。谷原さんが悔しいと思うくらい…その代わり、私がすっごく羨ましいと思うくらい幸せになってください」
私は谷原さんではなく、彼を選んだ。
それならばきっと、私には彼と幸せになる、ある意味義務のようなものがあると思う。岩本さんが言ってたみたいに、もしそれが谷原さんと岩本さんの願いになるならなおさら。
そして、彼からの言葉を有り難く受けとめさせてもらうためにも…。
谷原さんは私から手を離し、彼の方を向いた。
「俺はまだ諦めるつもりはないですから…だから彼女が悲しむようなことがあれば、すぐにでも横から奪い取ってやります」
思わず目をぱちぱちさせてしまう。内容が内容だけど、その口調には全くと言って良いほど嫌味はなかった。
彼の方からふっと笑い声が聞こえたあと、谷原さんの肩に彼の手が置かれた。
「任せろ。そんなこと起こらないから…これから先、一生」
さっきから彼はプロポーズのような言葉を言いすぎだと思う。忘れそうになるけど、結婚を前提には一応なってるから間違ってないといえば間違ってないけど…何だか恥ずかしくて顔が火照ってしまう。
そしてようやく、長かった火曜日が終わろうとしていた。