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彼はあれからほとんど…いや、何も喋らず、起きてるのか寝てるのかわからない状態が続いていた。
谷原さんは明日県外で仕事があるというのに、夜中まで彼の看病をしてくれた。まあそうしてくれたのも私がお風呂を貸してあげたおかげだと言っても過言ではないけど…。
というか、谷原さんは朝にかなり弱いのに、そこまでしてくれるからには帰ったらすぐ寝て起きて出来る状態にしてあげるのが礼儀な気がする。
でもそれよりも、話を聞く限りだと彼に嫉妬心丸出しなのに、こんなに面倒を見てくれるのが気になる。敵に塩を送るってやつなのかな?
あれこれ考えてる私の肩を谷原さんが軽く叩き、やわらかい笑顔を向けてきた。
「じゃあ俺帰るから」
「あ、遅くまですみません…明日県外なのに…しかもろくなおもてなし出来なくて」
「明日寝坊しないようにモーニングコールくれたら嬉しいな」
正直私もそんなに朝に強くない。でもここまでしてくれた谷原さんのお願いを聞かないわけにはいかない。
「ぐ…わかりました…」
谷原さんは私の頭をそっと撫で、何も言わずに玄関へ向かった。私もそのあとをついていくように見送りに行く。
靴を履き終わったあと真剣な顔つきでくるっと振り向かれた。めったに見ない真顔についどきっとしてしまう。
そして次の瞬間、私の唇に柔らかいものが触れた。最初は触れるだけのキスが、次第に深くなっていく。
谷原さんの左腕は私の腰に回され、右手が私の手に絡められている。
この前のようにふ、と変な声が漏れないように気を付けつつ、万が一のことも考えて離れたあとは俯いたままにした。そんな私の耳元で谷原さんが囁く。
「…そろそろ…あなたの返事がほしい…」
色気を帯びた声でそんなことを言われても、余計頭がパニックになるだけ。谷原さんは明らかに動揺している私の頬にそっと手を添えた。
「じゃあおやすみ」
そう言って谷原さんは笑顔で去って行った。
彼に見られていたんじゃないかと不安に思って部屋の方を見ると、壁側を向いて横になっていた。部屋は玄関から少し離れてて、玄関は台所に近いのでごまかしが効くといえばそうだ。
…私、今何を考えた…?ごまかし?何のための?
あわててその考えを振り払って彼の元に行った。目をつぶっているので寝ているみたい。
「ほら、ちゃんと被ってないと風邪引きますよ?…もう引いてるか」
一人漫才みたいにツッコんで恥ずかしかったので、彼の肩まで毛布をそっと被せた。
すると、彼がうっすらと目を開けてこちら側に首を傾けた。起こしちゃったかな、と思い、その場を立ち去ろうとした。
その瞬間、手首を引っ張られた。驚いて振り返ると彼の目から涙が流れていた。
振りほどこうと思えば出来る力の弱さ、かすかに震えている手、そして何より今まで見たことのなかった涙に胸が詰まる。
「頼む…もう俺の傍から離れないでくれ…」
こんな思いをさせているのは誰…?
「どこにも行かないでくれ…」
彼の声ととめどなく静かに流れる涙に胸が詰まる。
思えば私は、彼と連絡を取らなくなってから自然消滅の原因を心のどこかで彼に擦り付けていた。
でもそれは違う。
彼にあんな思いをさせたのは他の誰でもない私。なのに…なのに彼は今でも私のことを想ってくれている。
…私はそれでも、まだあなたのことを想うことは出来ますか?
自然とこぼれてくる涙を拭うことなくそっと彼の手を握る。彼の手の温かさが今の私には切なかった。