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「じゃあ俺帰るから」
そう言って谷原が彼女の部屋を後にしたのは深夜2時くらいだったと思う。話を聞いていると奴は携帯販売の仕事をしているらしく、明日は県外の量販店で仕事らしい。
俺の中で始めて谷原に対して申し訳なさを感じた。熱で俺自身が弱ってるせいもあると思うが…。
彼女は台所で食器を洗っている。俺のために作ってくれたお粥は、俺の腹も気持ちもいっぱいにさせてくれた。
…俺はこんなに涙もろかったっけ?そんなことを思いながら寝返りを打つ。
するとぱたぱたと足音が聞こえ、肩まで毛布が被せられる。
「ほら、ちゃんと被ってないと風邪引きますよ?」
もう引いてるか、と言いながら彼女がやわらかい笑顔を浮かべた。俺の胸をそっと叩いてくれるリズムが心地良い。
彼女は俺と目が合った後、にっこりと笑ってここから立ち去ろうとした。
彼女がこの場からいなくなる。
ただそれだけのことなのに、俺の手が届かないようなどこかに行ってしまいそうで。
同じ空間にいるはずなのに、彼女がとても遠く感じて。
モウニドトオレノモトニカエッテコナイ…。
「まっ…」
とっさに彼女の手首を掴む。彼女はびっくりしたように振り返った。視界がぼやけてどんな顔をしているのかはわからない。
「頼む…もう俺の傍から離れないでくれ…」
手首から手をずらし、そっと彼女の手を握る。
「どこにも行かないでくれ…」
それからの記憶はない。気付いたら朝だった。
昨日の熱っぽさはどこへやら、すっかり元気になった。大きく息を吸い込む。
ゆっくり上体を起こそうとすると、何かに引き止められるのを感じた。右手にある温かな感触。
ふと枕元に目をやると、彼女が俺の手を握ったまま床に座って寝ている。うつぶせになっているので、口元が腕で隠れててどんな表情をしているかはあまり確認できないが、少なくとも俺は涙が出て来そうなほど嬉しかった。
右側の肘で体を支えて彼女の方を向く。暖房をつけているとはいえ、一晩中俺の手を握って、ついには眠りに落ちてしまったのなら、風邪を引く可能性は高い。彼女にはベッドがちゃんとあるのに、俺がいるばっかりにこんな状態にさせてしまって申し訳ないと思う。
器用に自分が借りていた毛布を左手だけで彼女の肩にかける。かなり難しい作業だが、意地でもつないだ手を離したくない。
彼女の髪をそっと撫でる。相変わらずさらさらした綺麗な髪。顔を覗き込めば長いまつげをつけた瞼が閉じられている。そして俺の右手にある彼女の手。
彼女のすべてを、もう一度俺だけのものにしたい。まだ教習生だった頃からずっと想い続けていた彼女を、俺のものにしたい。
5年前は許されないと思っていた恋。だからどんなに彼女を想っても連絡を取ってはいけなかった。それは、彼女の将来を想うが故…。
だがそれは間違っていた。
再会したとき、彼女は俺が忘れられなかったと言った。俺もまた、そうだった。そして再び出会い、惹かれた。
これは偶然ではない、必然。
それを噛み締めるかのようにそっと彼女の髪の毛に唇を落とした。