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教習生の頃何回か担当してもらっただけで、特に親しくなったわけではない池田さん。そんな人がわざわざ職場を訪ねて来たんだから、何か特別な事情があるはずだ。
きょうはもともと谷原さんと会う予定だったのを、電話で断りを入れた。かなり失礼なことだったというのに、谷原さんはいつものやさしい口調で大丈夫ですよ、と言ってくれた。
ただし、今度家に招待して食事をする、という条件をつけて…。
それはともかくとして、今池田さんと向かいの席に座ってグラスを交わしている。昔はこんなふうになるなんて想像もつかなかっただけに、内心すごくびっくりしている。
「香西さん、私のこと覚えてます?」
池田さんが身を乗り出すようにして無邪気に尋ねた。私が聞きたい質問をしてきた池田さんについ苦笑してしまう。
「もちろんです。古野ドライビングの池田さんですよね?」
「うんうん」
「私一段階の時と、セット教習の時と…あと応急救護の時も担当してもらいました」
「よく覚えてるねー!嬉しい」
池田さんがとびきりの笑顔を作ってからビールを口にした。
「でも今日はどうされたんですか?」
私の問いに小さくうん、と言ってグラスをテーブルに置いた。真っすぐな視線が私に向けられる。
「…まあ、単刀直入に言えば内村さんの事なんだけど…」
ああ、と思った。確か付き合い始めたばっかりの頃、いろいろあって池田さんに知られてしまったと彼がぼやいてた気がする。
ということは多分別れてしまったことは知ってるだろう。じゃあ…どこから知らないんだろう?
彼の名前が挙がって心拍数が上がっているのを知らないはずの池田さんが、私を見て少しおかしそうに笑った。
「目が泳いでますよ」
とっさに顔を伏せてしまった。それが余計おかしかったんだろう、声を上げて笑いながら私の頭を撫でた。
「わー、髪の毛やわらかーい。いや、ホント香西さん可愛いね」
「むぅ…」
こんな綺麗な人にこんなことを言ってもらえたのが何だか照れ臭くて、ついつい顔が赤くなってしまう。
「内村さんが小動物みたいって言ってたの、わかる気がする」
「!奴はどこまで話してるんですか…!」
にこにこしていた池田さんの顔から明るい笑顔が消えた。伏し目がちに少しだけ笑ってグラスを手に取った。
「まあ…とりあえず恋敵がいて、あと香西さんに謝ってすぐ告白したまで、かな」
池田さんの雰囲気からして真面目に考えないといけない話。なのに今の私にはそれが出来なくて。
あのやろう…。
恋敵っていうのは多分谷原さんだろう。それは別に良いとして、私の情報までだだ洩れな感じがして正直恥ずかしい。
…とりあえず今日、家に帰ったら真っ先に電話してやる…。