-162-
唇の上まで湯槽に浸かり、ぷくぷくと音を立てた。
とりあえずお風呂に入りませんか?と谷原さんに言われて、特に異議を唱えることもなく大人しくお風呂を使わせてもらうことになった。谷原さんは今夕食を作ってくれているらしい。
まだ付き合い始めた訳でもないのにこんなにお世話になるなんて、これから健全なお付き合いをしていくんだとしたらやっぱりダメなことだ。
そして脳裏に浮かぶ彼の笑顔…。
その時ようやく気付いた。
彼と約束していたのはまさに今日。ざばっと風呂から上がり、急いで着替えて谷原さんの部屋へ向かう。
するとリビングからひょっこりと谷原さんが顔を出した。
「上がりましたか。ちょうど晩飯も出来上がりましたよ」
申し訳ないがそれどころじゃない。今はまだ7時のため、ぎりぎりまだ仕事中だ。頑張れば間に合うかもしれない。
「す…みません!私の携帯見てないですか!?」
「見てないですけど…車に置きっぱかもしれないですねぇ。どうしたんですか?」
「えっと、携帯が見当たらなくて…キー貸して貰えませんか?」
谷原さんは落ち着け、と言わんばかりに肩にそっと手を置いた。
「僕が取って来ましょう。その間に食べててください。今日はカルボナーラですよ」
さあ、と言って私を椅子に座らせた。普通にレストランで出てそうな温かな料理が目の前に置いてある。
なんて私は谷原さんに弱いんだろう。一人で大人しくパスタを食べながら思う。
温かくて美味しいカルボナーラは谷原さんの得意料理。わざわざ私のために腕を奮ってくれたんだと思うと、嬉しいけど何というか…複雑な気分になる。
もし私がここまでしてくれてる谷原さんにNOを出したらどうなるんだろう。
振った後のことなんて気にしてたらやっていけないのかもしれないが、谷原さんは間違いなく傷付くだろう。こんなに想ってくれる人なんてそうそういない。
それに私は…谷原さんのことをどう思っているんだろう。
彼のことを引きずっているのは確か。でももし彼にもう恋人がいたら…。
だからといって『彼がダメだったから谷原さんで』何ていう失礼なことは死んでもしたくない。
そして谷原さんに惹かれつつあるのも確か。
いったい私はどうしたら…。
「どうしたんですか?」
背後から谷原さんの声がしてびっくりした。いつの間に戻って来たんだろう。
「あ、いえ…」
「はい、携帯。助手席のシートに落ちてました。すぐ見つかって良かったですよ」
「ありがとうございます」
安堵の表情を見せると、谷原さんがそっと私の肩に手を置いた。
「大丈夫ですか?」
子犬のような目で心配そうに私を見ている。昔仕事で一緒に働いたときも、ふと気付いたらずっと横から、あるいは少し後ろから心配そうに眺めていた。
みんなあの時から変わってない。変わったとすればそれぞれの想い。
笑顔を谷原さんの方へ向けた。それが泣き顔に似ているなんて思いもせずに。
「大丈夫ですよ」