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来るはずがないとわかっていても、心の中で期待してしまっている自分がいる。
携帯があれば話は別なのに、今だに見当たらないがために彼と連絡が取れない。
彼とはかれこれ一ヶ月近く連絡を取ってないことになる。早く会いたい、声が聞きたい。約束したゴールデンウィークはとっくに突入してしまっているのに。
言うことをきかない体を恨めしげに思いながら着替えを始めた。一人では着替えにくい状況だけど、さすがにもう下着だけでも替えないと気持ち悪い。
廊下がバタバタと騒がしいと思った次の瞬間、病室のドアが大きな音を立てて開いた。
思わず息を呑んだ。ドアのところに立っていたのは、少し息を乱した彼だった。
今見ているのは、夢?そんなことを思う暇もなく、彼は何も言わずに傍にやって来て、私を力一杯抱き締めた。
彼だ、私がずっと望んでいた彼だ。今まで頑張って作って来た笑顔が、我慢していた感情が、一瞬にして全て壊れていった。
とめどなく流れてくる涙を止めることが出来ないまま、私は彼の胸に顔をうずめた。彼はそんな私の頭を包み込んでくれるようにそっと撫でた。
彼がゆっくり病室の丸椅子に座りながら話し掛けて来た。
「あーあ、帰れなくなっちゃったよ」
面会時間が終わってしまったため、帰ろうに帰れなくなってしまった。彼がいなくなってしまうのはこの上なく寂しいけど、明日仕事に行きにくいのはもっと困る。
「そうですね…明日仕事でしょう?」
「このまま行くよ」
「汗臭いですよ」
彼は私の額を突いた…というか、指した。思わず美樹ちゃんのリアクションが出てしまう。
おでこをさすりながら彼を見つめた。
「汗かいてないし」
「走って来たのに?」
「競歩です競歩」
彼はそう言ったあと、私の髪の毛をくしゃっとした。
会いたかった。何人お見舞いの人が来ても、そこに彼の姿がなくて虚無感が募った毎日。することもなく、ただただぼんやり過ごす毎日。
今繋いでいるこの手が、涙が出るほどに幸せなことだった。
「意識戻ったんならもうちょっと早く連絡してよね」
「だって携帯が見当たらなくて」
「マジか…あ、そうだ」
彼はそう言って私の右手を握った後、ズボンのポケットから何か探し始めた。彼の部屋の合鍵だろうか、と思ったが、出てきたものはまったく想像つかないものだった。
シンプルなデザインの指輪。でも私には大きすぎて。
きっと私に悟られないようにこっそり買ったんだろう。お父さんが誕生日に買ってくれた指輪みたいにサイズの合わない指輪を見つめ、思わず笑ってしまった。
愛されてるって、こんなに素敵なことなんだね。そう思いながら彼を見つめた。
「大事にします、ずっと」
彼はそっと頬に手を添えて口付けをした。彼の手に重ねた私の手には、シルバーの指輪が光っていた。