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電話の着信があった。彼の番号で登録している着メロと違っていたので、誰だろうと思いつつ携帯を手にした。
そして画面に表示された名前に動きが止まってしまった。
『篠塚奏』
最近やたらと連絡してくる元彼だ。中学生の頃を思い出す…アイツはあの時も積極的だったな…。
「もしもし…どうしたの?」
『いや、声が聞きたくなったっていうか…』
「もういいよ、それ」
あの頃と変わらないやりとりに思わず笑ってしまう。しかしよく考えてみれば、裏を返すとあの時と一緒だということになる。
『あのさ、良かったら今度の休日映画でも行かない?確か金曜大学休みになるよね』
思わず息を呑んだ。言おう、今度こそ。
「あー…私今付き合ってる人いるからさ…聞いてみないとわかんないな…」
『嘘…マジで?
…この前の旅行の人?』
「うん、そう」
それから私は質問攻めを受けた。彼の年齢、職業…簡単に答えられるものではなかった。周りには秘密で、という条件で話をすると、元彼の反応は予想通りというか…断固反対された。
『車校の指導員と付き合ったりして良いわけ?』
「別に問題はないみたいだけど」
『しかももう30歳なんだろ?』
「また28だよ」
『一緒だよ…とにかく、騙されてるんじゃない?良い年して女子大生に手出すなんて下心見え見えじゃん』
彼の事を何も知らないくせに。なのに何で…!
「…彼の何を知ってるの…」
『薫?』
「何も知らないくせにそんな事言わないで!」
元彼は数秒黙ったあと、重い口を開けた。
『…もう俺の知ってる薫じゃないんだね』
「あんたの知ってる私って何?」
『でも俺、高校三年間もずっと薫しか想ってなかったんだよ…だから、たとえ薫に彼氏がいたとしても絶対諦めない』
そう言って元彼は電話を切った。布団に携帯を落としてしまったと同時に、涙がたくさんこぼれ落ちてきた。
彼を侮辱されたこと、元彼の気持ちをあっけなく踏みにじったこと…悲しくて悔しくて、涙が止まらなかった。
その時、設定していた着メロが鳴った。泣いていたのが悟られないように涙を拭いて電話に出る。
「…もしもし」
『…どうしたの?』
ダメだった。いくら涙は拭えても、鼻声っぽくなってしまった声は治らない。
彼の前では笑顔しか見せないと決めていたのに、彼の声を聞いたとたん、涙があふれ出た。電話越しに伝わらないように声を絞る。
「何でも、ないです…電話遅くなって、すみません」
元彼と電話した、と話せたとしても、言われたことを言えるはずがない。
彼はいつものように優しい声で私を包んでくれた。
『良いよ別に。泣きたい時はいっぱい鳴きな?話もいつでも聞くし』
優しい人だ、彼は。あえて事情を聞かないでくれる。
だから、このことはそっと胸にしまっておこう。
この時すでに運命の歯車とやらが回りだしたなんて、想像だに出来なかった。