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目が覚めると私は彼の腕の中にいた。ぬくもりが全身に広がる。
ふと彼の顔を見ると、彼はまだ眠っていた。
いつも見てる彼とはまた違う顔…その整った顔立ちについ見惚れてしまう。
彼を起こさないようにそっと布団から出て浴衣に着替える。さすがに一度お風呂に入らなくては外に出られない。
痛む腰で何とか浴場へと向かった。今日、今ばかりはこの温泉の効用なんて信用出来なくて、看板を見て苦笑してしまった。
数十分後に満足気に帰ってきた私とは裏腹に、部屋に入ってみると彼がかなり慌てた様子で立っていた。私と目が合った瞬間脱力して布団の上に座り込んだ。
「何、どうしたんですか?」
彼のそばに座って袖を引っ張る。
彼は少し疲れたような顔で笑顔を見せた。
「いや、朝起きたら横にいなくてびっくりしただけ。
方向オンチのくせにいろんなとこに行こうとするよね」
どこまでバカにされるんだろう。こんな小さな旅館なんてどう考えたって迷い様がない。
「建物内で迷子になりません」
「この前迷ってたくせに」
反論の余地がない私の髪をくしゃっとした。せっかくといてきたのにもうぐちゃぐちゃだ。
「何するんですか!」
「だって可愛かったんだもん」
一生懸命動かしていた手を止めた。そんな恥ずかしい事さらっと言わないでよ…!
そんな考えが顔に出たのか、彼がふっと笑って頬を撫でた。
「よし、じゃあ朝飯食って出かけようか」
旅館の朝食を食べたあと、部屋に戻って支度を始めた。洋服を持って目の届かない所へ行く。
「何、いまさら隠す必要なんてあるわけ?」
明らかに足音がこっちに近づいて来る。確かにいまさらな事だが、何だか見られたくない。
慌ててワンピースを着るけど、焦っている時ほどスムーズな作業が出来なくて、逆にもたついてしまった。
「もうちょい!待ってください」
ようやく着替え終わって、彼の前にふらりと姿を現した。
「お待たせしました」
彼が目を見開いたまま何も言わないので、とりあえず笑ってみた。すると彼もやわらかな笑顔を返してくれた。
「じゃあ出掛けようか」
そう言って2人で部屋をあとにした。
ここまでは順調だったけど、今からまさかの運転になってしまった。実の所卒業検定以来乗ってないため、助手席に座るのが彼であってもかなり不安だ。
「えーっと、ホントに良いんですか?」
「運転させろって言っといてそれはなしでしょ」
彼はそう言って苦笑した。確かにそうなんだけど、何せ彼の車だ。下手に傷つけることなんて出来ない。
「や、だって…」
「まあ…今回は補助ブレーキないから死ぬ目に遭うかもしれないけどね」
「ひどい…」
相変わらず意地悪な彼も、それを否定出来ない私も、何だかいろんなものがおかしかった。
彼は軽く息を吐いてちらっとこちらを向いた。
「はい、じゃあ準備が出来たら発車してください」
懐かしい、あの時と一緒だ。
彼と初めて会ったのは丁度三ヶ月前。目まぐるしく過ぎていった時間はかけがえのない宝物になった。
それを噛み締めるかのようにハンドブレーキをぐっと引いた。