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天使の日々―シバイヌの子犬の話

作者: アンチャン・チェーホフ

 破壊者であれ!

 

 無法者であれ!

 

 理由なんかいるものか。

 飛びかかって、踏みにじって、むしゃぶりついて、こなごなに引き裂いてしまえ! そのツメとキバが届くもの、なにもかもすべてに対して。


 お前は情けとか、容赦という言葉を知っているか?

 ……ぜんぜん知らない? よろしい! とてもよろしい。

 

 極悪非道であれ!


 お前というやつは、この世でいちばん誇り高く、危険のかたまりで、だれの手にも負えない恐るべき悪魔だ。まったく、お前こそは猛獣のなかの猛獣だ。生まれついての最強で最悪の猛獣なのだ!


 ……


 モモタロはいつからともなく知っていた。自分が天から与えられた宿命について。そんな非情の道を歩まねばならぬという宿命について。そして実際彼は、それに従って生きてきた。


 モモタロ――たいていはモモちゃんと呼ばれる――は、生後三か月を少しばかり過ぎたシバイヌで、いかにも聡明らしく澄みきった黒いつぶらな瞳と、ぴったりと閉じ合わさって一本の黒い線になったくちびるを持っている。ついこの間立ち上がったばかりの三角の両耳は、勢いが余ったように上に伸び続けて、そのため今では彼の顔立ちを、全体としてなんだかシバイヌらしくないものに、ちょっと洋犬のシェパードめいたものに見せていた。なぜか耳の成長ばかり早過ぎて、顔のほかの部分の成長が追い付いていないのだ。とはいえやはり鼻づらも、また胴体も、四本の脚も、カーブを描くしっぽも――要するに身体じゅうのことごとくだが――このごろとみにひょろりと細長くなってきた。

 まだまだ子犬のうちだけれども、その若いしなやかな身体に秘めた体力ときたら、実にほぼ無限だった。


 見よ、今しもモモタロは、彼の貴い自由の前に立ちふさがる、いまいましい敵と戦っているところだ。

 彼は部屋の隅に置かれた、スチール製の小さなケージに閉じ込められている。

 このケージは一か月と少し前、彼が生後二か月でこの家にもらわれてくるにあたって、彼の新しい飼い主となった二人の若い男女が用意した、まだぴかぴかの代物だ。

 中にはいつも、新鮮な飲み水はもちろん、噛むおもちゃの二、三個、かなり寝心地のいい敷物も用意されている。しかし、そもそもが囚われの身にとって、そんなものたちがなんだというのだ。モモタロが激しく求めてやまないものは、四六時中気ままにこの部屋のあちこちを、さらには廊下と、隣の部屋と、キッチンを駆け回って遊び回る自由なのだ!

 モモタロは顔を横にしながら大きく口を開いて、細い金属の格子棒をまとめて二本くわえると、それらをばねのきいた全身でもってぐいぐいと強く引っ張りはじめた。引っ張りながら、小さな喉の奥からは、しきりと不満と怒りの唸り声が漏れ出した。


 ……まもなくぴかぴかで頑丈なスチール製のケージは、その内側から、あちらこちら見るも無残に、ぐにゃぐにゃにへし曲げられてしまった! モモタロはそこにできた大きな穴から、意気揚々とわが身を押し出して、フローリングの上にすっくと立った。


 するとまた宿命の声が、さも何気なく彼の心の耳に告げてきた。


 さあ、破壊者であれ!

 いっそ極悪非道であれ!


 たまたますぐそばにプラスチックのゴミ箱があったので、モモタロはまず手始めにひょいと後足で立ち上がって、そのへりに二つの前足をかけた。たちまちゴミ箱はひっくりかえって、中のこまごまとしたものが彼の周囲にぶちまけられた。

 壁際からぴょんとするどく跳ね退いたモモタロは、しかし驚いたのも一瞬で、すぐに次なる獲物を求めて、大きなソファやコーヒーテーブルなどが置かれた、カーペットが敷いてある部屋の中ほどへと進んでゆく。

 ソファの上にはふわふわに膨らんだクッションが並んでいた。首を伸ばしてその一つを引きずり落とした。前足でしっかりと踏み押さえながら、キバを振るって、なんなくばらばらにしてしまう。これはあまりにもの足りない。

 大きなソファそのものに齧りついた。その肘置きにしっかりと深く咬みついておいて、背骨をしならせながら全身の力を、がつん! と後ろに持っていく。続けざまに、がつん! がつん! がつん! 丸ごと肘置きを引きちぎることができた。コーヒーテーブルの脚もかたっぱしから噛み折った。本棚も、テレビもひっくり返した。鉢植えの観葉植物は、反対側の壁までぶん投げた。腹の底から、ワフ、ワフ、と声を出しながら、思い切りめちゃくちゃに駆け回った。

 キッチンでは、のっぺりとしていてなんだか気にくわない巨大な冷蔵庫を、また自慢のあごと腰のひねりを用いて引きずり倒し、さらにその一つの角に深くキバを突き立てたまま、思い切りぶるんぶるんと、首を左右に振り回した。大きいばかりでダンボールの空き箱のようにかるがると持ち上がる冷蔵庫を、続けざま宙を舞わせ、何度も床に叩きつけた……。



(静かだな。きっと、ふて寝をしてるんだろう。)


 シャワーを浴びてきたばかりで、上気した顔面にくしゃくしゃの頭髪の男が、モモタロのケージが置いてある部屋に入ってきた。かなり大柄な男だけれども、なるべく物音を立てないように、そうっと動いて入ってきた。まだどこか青年の面影がのこる、モモタロの飼い主カズマである。

 カズマが、さてモモちゃんはと見れば、思った通りケージの底で横になって、ぐっすり眠っていた。

 子犬の力なんかではびくともするはずのないスチール製の格子棒に、懸命に未練がましく齧りついているうちに、だんだんトロトロときて、思わずぐにゃりと眠りに落ちてしまったということが見て取れた。

 カズマが黙って見守っている前で、モモタロの横に投げ出した四本の脚が、突然ビクッと小さく、ほとんど一斉に動いた。ややあって、またそれらは動き出したけれども、今度はもっと大きな、力の入った動きで、かなり長いこと続いた。しきりに空中を引っ掻くような動きだった。


(こいつ、夢の中で走ってるんだ。それか何かと戦ってる。分かりやすいなあ。)


 と思っているところへ、モモタロは、お次は脇腹を素早くへこませながら、ピュウ! と笛のように細くするどく鼻を鳴らした。続けざまに、ピュウ! ピュウ! と鳴らした。寝言でも、夢の中でも、何かを真剣に主張している響きがあった。



 およそ一時間前、仕事先から帰ってきたカズマは、早速モモタロの食べる物を用意して、彼をケージから出してやった。モモタロの食べ物やその分量は、ユキが決めたとおりにしている。そもそもシバイヌの子犬を飼おう、飼いたいと言い出したのは彼女の方だった。

 あっという間に食べ終えたモモタロと、しばらくプロレスをしたり、ビニル製の小さなボールやただのタオルを奪い合ったりして遊んだ。その後スマホを眺めて、彼の動きから目を離していたほんの少しの隙があった。気が付けばすでに、床に転がっていたティッシュの箱はこなごなにされていて、モモタロはというと、木製のコーヒーテーブルの下に潜り込んで、黙々とその脚にかじりつき、げじげじの傷を付けているところだった。

 ちょうど自分も食事をとりに、キッチンに行かねばならない。カズマは走り回るモモタロを苦労して捕まえて取り上げ、なお全身で暴れてもがくのを、むりやりケージに押し込むようにして、素早く金属の棒のかんぬきをかけた。

 食べ始めてしばらくのうちは、ケージを開けよう、あるいは壊そうと頑張っている音や、怒りやら恨みやら嘆きやらを伝える節回しの付いた声が聞こえていた。

 食後すぐに浴室へシャワーを浴びに行ったけれども、その頃にはもう、そちらから騒がしい音はしていなかった。



 眠っているモモタロは、まったくいかにも、カズマに察せられた通りの夢を見ていた。すなわち戦いと駆けっこの夢である。

 冷蔵庫を叩きのめした孤独な猛獣モモタロは、ふと気が付くとすっかりきれいに片づけられたリビングの真ん中に立っていて、その目の前には大きなカズマの姿があった。何の迷いもためらいもなく、その上着の裾にかじりついて、ぶら下がった。わが尻に思い切りの勢いをつけて身体をよじる。よじって、よじって、激しくよじって、飽く迄もそれを繰り返す。ついにうまく衝撃が伝わって、カズマはバランスを崩した。そしてそのままゆっくりと倒れた。


 さてさて、でも、もう少しおれさまの強さを教えてやらないと! 


 モモタロはカズマの上着の襟首をくわえて、さっきの冷蔵庫と同様に、めちゃくちゃに振り回した。ちょうどタオルでそうするときのように、右に左にすごい速さでカズマが飛び回り、面白くなる。いよいよカズマが、キャイン! と悲鳴を上げたところで許してやった……。



 ユキも仕事先から帰ってきた。

 モモタロのおかしな寝相や寝言をスマホで撮影していたカズマは、そうっと静かにこっちにきてごらんと、手まねでユキを呼んだ。早く、早く。

 ユキはすぐに目を輝かせて、ケージの前へやってきた。

 二人で苦しく必死に笑いを押し殺しながら、夢の国で大活躍中であるらしいモモタロを見守った。

 カズマはいよいよこみ上げる笑いをこらえかねると、むりにちょっと真面目なふうに表情を改めて、小声でユキに、こいつはいい奴だ。外であったいやなことを、ほんとに全部吹っ飛ばしてくれるからね、とささやいた。

 ただ本当のことを言ってしまうなら、モモタロの夢の中では、ちょうどその時、彼自身がひどく吹っ飛ばされていたのだ。

「そう。だってこの子は、無垢のかたまりなんだもの!」

 ユキの声が、思わずその語尾で高くなってしまった。


 横臥するモモタロの目がゆっくりと開いた。

 それからいきなり、すごい速さで顔を起こして、ユキの姿を確認すると、これまたすごい速さで立ち上がって、ぶるぶるぶるっと身震いをした。

 早く開けてと、右往左往しながら、でたらめにスチールの格子を叩きまくる。もっとも、この頑丈な格子の棒は、さっきモモタロ自身がぐにゃりとへし曲げ済みのはずだけれども……彼は気に留めない。世界が不思議に満ちあふれたところであるということは、人間にとってよりも、むしろ犬にとって当たり前の常識なのである。

 モモタロがケージの扉を裏側から強く叩くせいで、ユキはかんぬきをうまく外すことができない。

「ごめんね、モモちゃ~ん。今にパピーじゃなくなれば、一日中ケージの外ですごせるようになるからね」

「そういえば、来週は、初めて外の散歩もできるんだろ?」

「うん。最後のワクチン接種が終わったら」

「三人で公園に散歩か。あそこには、同じシバでも毛皮の黒いのや、ゴールデンレトリバーのでっかいのがよくいるよな。モモはどんな顔するかな?」

「どうかなあ。あ、開いた」

 モモタロがつんのめるように躍り出てきた。

 ユキはモモタロを抱き上げて、ウッドブラウンのとても柔らかい毛皮に頬ずりをした。そのあいだ彼もあまり嫌がらなかった。

「あー、いいにおい! 天使のにおいだ」

「ユキ、メシはまだなんでしょ?」

「でもまず、遊ばなくっちゃ。ああ、モモちゃ~ん。一日中会いたかったよぉ」

 カズマはにやにやしながら部屋の隅に行って、床にあぐらをかいてテレビゲームをはじめた。


 ユキとモモタロは活発に遊んだ。

 ボール遊び、タオル遊び、おやつ隠し。そのやっていること自体は、カズマとの遊びの時と別に変わらないのだけれども、でも自分よりもユキと遊んでいる時の方が、どうもモモタロの顔が夢中で楽しそうだな、とカズマは思った。

 投げられたビニルボールを拾ってきたモモタロは、ユキのすぐ前まできておいてわざとボールを渡さない。ユキは両手で子犬の脇腹をわしゃわしゃと撫でまくる。くすぐったがって身をよじりながら、モモタロはごろんとカーペットの上にひっくり返る。ひっくり返ってもまだ何か照れたように、くねくねしている。ボールはとうに口からこぼれて転がっていってしまった。


 なんてことだ、これが誇り高く、極悪非道を志す猛獣の姿だろうか!


 ふたたび宿命の声が、モモタロの心の耳に聞こえた。

 モモタロはふと、自分が間違っていることをしているような気がした。

 その時ユキが、はい、モモちゃん、と言いながらまたボールを投げた。

「はい、ボール取ってきて!」

 モモタロはそちらを追いかけかけて、ふと立ち止まった。

 そしてちょっとしげしげと、ボールの行った先と、こちらに背中を向けてテレビゲームをしているカズマの姿とを見比べた。


 そうだ、もっと戦いを。厳しい戦いを! あっちの大きいのこそおれの獲物なのだ。もういっぺんさっきみたいに、カズマをぶっとばしてみよう!


「モモちゃ~ん、そっちじゃないよう」

「なんだ、うおおおおっ? モモちゃんやめてぇ!」



                          おわり。


小さな子犬というのは、彼らと縁のあったことのある人ならよくご存知でしょうが、ポテポテポテと十歩も歩かないうちに、そのやりたいことや興味の対象が変わってしまって、まことにとりとめのない時間の過ごし方をしています。そんな気まぐれ者のくせに、顔付きはなぜかたいてい大真面目。また無力なくせに妙な自信家でもあります。私が彼らを見るたび、とても可笑しい、とても愛らしいと強く思うのは、むろんそのあどけない姿や仕草のためというのが最も大きいでしょうが、私自身の子供時代を彼らを通して見ているというのも幾分あるような気がします。

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