八話 夜を蠢く白き静謐
夜を割いて、二つの影が舞う。信号弾はもう消えかけであり、紅ずきんの目には反対側から別の影が信号弾の地点に向かうのを捉えていた。
紅ずきんは飛び掛ってきた獣の顎を蹴り上げると、一度大きく飛翔して天空へと弾丸を撃ちはなった。
瞬間、一定の高度で炸裂したその弾が強く光輝き、夜の街を照らした。照明弾である。夜間戦闘に於いて、大物と戦わざるを得ない時これを打ち上げるのが決まりだ。そうでなくても、視界の確保には役立つ。
「――見えた!」
言うが早いか、紅ずきんが猟師の方へ飛んだ。猟師もそれに気付いて、即座に自らの片手を差し出した。少女は屋根をけると、猟師の伸ばした腕へと着地。みじんも揺れない腕を更に蹴って、紅ずきんは信号弾の位置へと辿り着いた。酷い薬の臭いがして、猟師すら顔を歪めてその広場へと飛び降りた。
シャナルとソリッテが、それぞれに武器を構えて、その獣と対峙している。その場面に飛び込む形となった二人は、その獣の姿を目にした。
それは、巨大な影だ。しかし、先の狩人食らいの獣ほど大きくはない。猟師よりも頭三つ分ほど大きい程度だ。
艶のない白い毛皮をしたその獣は、目元は毛で隠れていて、うなり声一つ上げない。涎一つ垂らす事も無い。まるで盲目の聖人の様な、静謐な雰囲気を持った獣であった。
「こいつが、聖人食らいか? ……いかにも、って感じだな」
ソリッテが、紅ずきん頷きながら、ハンドサインを出した。ソリッテの数少ない伝達手段であるそれは、警戒せよ、と紅ずきんへ伝えていた。
シャンダンテとサワタリの到着には少し時間がかかるだろうと判断した紅ずきんは、自らの武器を取り出した。ナイフでも投げ斧でもない。取り出されたのは、不思議な光を帯びた刃であった。
それは、カトラリーナイフの様な、シンプルな構造の柄を持つ武器であり。二本の鎌の様な形の刃が歪な形で交差し、一本の剣となっている物であった。持ち手にはロックがかかっており、元は二本の剣で、つなぎとめて一本にしているのだと言う事がわかる。
紅ずきんは迷うことなくそのロックを外し、左右に広げた。キインッ、と耳心地のいい金属音と共に、紅ずきんの手に二つの青白い刃が握られた。
そんな事を皮肉を込めて"福音の刃"と呼ばれるそれは、凄まじく鋭い武器だ。速度が乗れば乗るほど、切れ味も増してゆく。他の狩人武器に比べるといささか耐久力は低い物の、最高速の時の鋭さは、獣の首を水面でも切るかのようにして刎ねる事が出来る。
彼女は滅多なことではそれを出さない。切り札でもあるし、何よりも危険すぎるからだ。しかし、今は四の五の言っている場合ではなかった。
「……四人、いや六人居るんだ。確実に削り倒すぞ」
猟師のそんな言葉に、他三人が曖昧にうなずき――そして、獣へと攻撃を開始した。
シャナルの矢が乱れ飛ぶ。銀の光が幾筋も飛び、途切れる事は無い。彼の矢は銃弾であり、特殊な仕掛けを持ってその銃弾を矢にしているに過ぎない。そして、彼はその弓を主武器とするが故に、銃弾だけは山ほど持っていた。
その銀閃の雨の間を縫うようにして、赤い影が舞う。ひらり、ひらり。蝶の様に不規則に動くそれは、紛れも無く紅ずきんである。両手に福音の刃を握り締めて、また一撃、獣の足に一閃を走らせた。
獣が痛みに反応し、紅ずきんを踏み潰さんと足を上げたとき、既に紅ずきんはそこには居ない。一瞬の間に、四歩分ほど後退しているのだ。紅ずきんの生まれ持った、凄まじい瞬発力のなせる一撃離脱戦法である。
紅ずきんは、獣が足を下ろした一瞬の隙を突いて、再度突撃。脇腹を切りつて傷を付けつつ、反対側へと飛び出す。
そのまま大きくU字を描いて駆け抜ける少女が、獣の指一本を落とさんと二本の刃を合わせて振った。がしかし、その強靭な毛皮を切り裂く事は出来ず、何本かの毛が切れただけだった。文字通り、歯が立たない。様々な狩人武器の中でも鋭さに特化したそれが、刃を立てることができないのだ。
獣が腕を振りかぶって、うっとうしげに紅ずきんを払った。すんでの所で身をかわした少女は、そのままシャナルの立っている屋根まで飛び上がった。
「何つー化けもんだよ。福音がちっとも刺さりやしねぇ。……そこそこの速度で切って、かすり傷がせいぜいたぁ、な」
「皮膚が硬いだけではないぞ。見ろ」
指差された先には、聖人食らいの獣がいる、先ほど紅ずきんがつけた微細な傷が、あっという間に消えてしまっていた。
そこへすかさず、ソリッテが石槌を叩き込む。しかし、それを手で受け止めた獣は、一歩後退すると石槌を警戒するように両手を前に出して防御の構えを取った。
「防御偏重ってとこか? こりゃ、骨が折れるぞ」
そういいながら、紅ずきんは背を向けた獣に向かって火炎瓶を投擲した。素早い動きで投げられた瓶だったが、獣の大きな背中に叩き付けられる寸前、獣が大きく跳んで、火炎瓶をかわした。避けたのである。
紅ずきんは、それがまぐれだと思えなかった。何故なら、聖人食らいの獣が着地後に何も仕様としなかったからだ。火炎瓶をシャナルの懐から抜き取って火を付けながら、獣の能力のあたりをつけていた。
獣の跳躍にはおよそ三パターンある。一つは、攻撃の為。飛び掛り、追いつき、切り裂き、食いちぎる為の跳躍だ。二つ目は、攻撃を避ける場合。脅威となる攻撃をかわす為の物である。そして三つ目は、距離をとる為の跳躍だ。
おそらく今の跳躍は二つ目と三つ目の境に類する跳躍だろう、と紅ずきんが目を細めた。そして、再び火炎瓶を投擲する。今度は攻撃というより、確認目的のものであった。
当然のように、それを跳んで回避した獣に向かって、三本の銀閃が乱れ飛ぶ。
二本は、目にも留まらぬ速さで速射された、シャナルの銀矢だ。水銀の込められたものは獣が嫌う傾向にあり、弾丸の一種にも使われている。
もう一本は、紅ずきんの投げナイフだ。火炎瓶を投げた体制から一回転し、その勢いでナイフを投げたのである。少なくとも、狩人だからと言ってやすやすとできる芸当ではなかった。
しかし、その三つの凶器が獣の肌を傷つける事は無かった。二本の銀の矢は空中で身を捻って避けられ、ナイフはそもそも皮膚に弾かれてしまった。それは明らかに、自分が傷つくか、傷つかないかを判断できていた。見てもいない状態で、だ。
「……空間把握、再生、後は、堅牢ってとこか」
獣がずうん、と着地した。そしてぎこちない動きで紅ずきん達の方を向くと、近くにあった獣の屍骸を投げつけた。
凄まじい速度で投げられた屍骸がきりもみ回転しながら、まっすぐにシャナルの方へ向かう。遠距離攻撃という点で、脅威と思われたのだろうか。シャナルは、それに対して軽く弓を振るった。
すると、キンッ、と静かな音がする。
次の瞬間、投げられたはずの獣は真っ二つになってシャナルの後ろに転がっており、シャナル自身には傷一つ付いていなかった。金属製の弓が、血を浴びて、静かに煌いていた。
「厄介だな。だが、攻撃を避けると言う事は、無尽蔵の再生ではないという事か」
軽く弓を振るって血を飛ばしながら、シャナルが呟いた。
シャナルの弓は、なにも弓だけの用途で使うのではない。その本体の縁は、刃のように鋭くなっているのだ。いざという時は、上下に分離させて、剣のように扱う事もできる代物だったのである。
「"静謐の獣"……か。最近、盲目の聖者が行方知れずになったとは聞いていたがな……」
そういったのは猟師であり、ソリッテとなにやら目配せしているようだ。体躯が巨大な二人が並ぶと、まるで巨木を前にしたかのような威圧感を紅ずきんに与えるが、本人たちは気にも留めていないようである。
ソリッテが頷くと、猟師は無言のままに獣へと向かって走り出した。紅ずきんも、それに追随するようにして走り出す。ソリッテは、なにやら石槌の仕掛けを起動しているようであった。シャナルは弓をギリギリと引き絞った。
全員の狙いは、聖人食らいの討伐である。あわよくば、サワタリとシャンダンテが到着するより先に、弱点を割り出したいというのが本音でもあっただろう。
なんにせよ、聖人食らいの獣との戦いは、今変化を見せようとしていた。