五話 影なる二人は成し遂げる
紅ずきんは一足飛びに獣の頭へ向かうと、空中で身を捻って横へ三回転。袖と踵の短剣が、速度と重量に従って、四回獣の頭を切り裂いた。
突然の痛みに、獣は引っ張っていた鞭を手放して、紅ずきんを払わんと両手を滅茶苦茶に振り回した。そのうちの一つを蹴り飛ばして、紅ずきんは再び空中へと躍り出る。そのまま、重力に逆らわず、一回転して軟着地。全身に隠された武器のどれもが音を立てないのは、一種見事なものがある。
「紅ずきん!」
「あんまりにも情けないんで、仕方なく出てきてやったんだよ。感謝しな、役立たず」
何でもないように言って見せる少女だが、血を吐いたような跡は、くっきりと口回りに残っていた。内蔵へのダメージによるものと、"祈りの滴"の代償の、激痛によるものだろう。内臓を復元する途中で、溜まった血を吐き出したのだ。多くの血を失ったせいか、その顔は酷く青白い。
無事には見えない形相に心配した猟師だが、両手に伝わってきた感覚に気付いて、気を取り直した。未だに首に巻きついた刃の鞭を、引きちぎってでもという勢いで、獣が動いているのだ。紅ずきんの方へと。
猟師は慌てずに鞭を引き絞った。ギリギリと絞られた鞭が、獣の首を傷つけ、その動きを無理矢理に止める。鬱陶しげに体を振り回した獣によって、今度こそ鞭が首から離れた。戻って来た刃がガチガチと組みあがり、再び猟師の手元で、鉈の形へと戻る。
そうして、紅ずきんを今度こそ食らわんと振り返った獣の視界に、銀の筋が一つ閃く。それは高速で飛来し、迷いなく獣の眼球へと突き刺さった。グジュリ、と瞳孔を貫く音がして、直後、獣が叫んだ。
「ハッ。案外、動いてる奴にも当たるもんだな」
鼻で笑った紅ずきんの声が、咆哮の隙間、ただ静かに響いた。
その飛来した銀の閃きの正体は、紅ずきんが放った銀色の投げナイフであった。小さな身のものとはいえ、紅ずきんによって渾身の力で投げられたそれが、狙い過たず命中したのである。
獣は雄叫びと共に、紅ずきんへと駆け出した。片目の破壊は何もかもを無視させるほどに敵対心を煽っており、結果猟師の鞭による攻撃をも無視するようになっていた。
紅ずきんは冷静に、その場で大きく飛翔した。
小さな体が、巨大な獣を易々と飛び越えて見せたのである。獣は自分の直上の影を食らおうとしたが、開けた口さえ足場の様に蹴られ、顎は空を噛んだだけに終わった。
しかし。蝶の様に宙を舞った紅ずきんだったが、着地時に足がもつれて体勢を崩した。祈りの雫による、副作用の痛みから、集中力が途切れたのである。そしてそのまま、重力にしたがってがくんと姿勢が低くなり、紅ずきんはそのまま転倒した。
好機と見た獣が飛び掛ってくるのを、転倒した状態で無防備に受けそうになった紅ずきんは、横から猟師が掻っ攫うことで難を逃れた。だが、猟師も紅ずきんも疲弊しているのは明らかだ。
「役立たずはどっちだ!」
「うっせ。あぁくそ、頭がガンガンする……しくったぜ」
再び立ち上がった二人を、獣が見つめる。己が身の傷を気にする事無く、獣があざ笑った。もうじき、自分の腹の中に入る事になると、笑っているのだ。げたげたと、狂ったように。
しかし、その顔に喜びと言う類の感情はない。恐ろしげに笑う獣だが、殺意以上ににじみ出る色はない。獣には、人を殺す以外をしない。それは、感情を持つだとか、感慨を持つだとか、そういう類の一切合財も持たないと言うことだ。
猟師がケッと呟き、不意にその手にもたれた酒瓶を投げた。その瓶の飲み口には、火の付いた布が詰められている。火炎瓶だ。
本来は気付けの酒の、ひたすらに酒精の高い酒だ。しかし宙を舞って飛んだ酒瓶は、紛れも無く攻撃用のそれである。鬱陶しげに振り払おうとした獣の手に火が付き、獣が叫び声を上げながら手を振るって火を散らそうとする。
獣は、己の表皮を覆う油が、酷く良く燃える事を知らない。ひたすらに振り回された腕は、しかし火を消すことすらできなかった。寧ろ、風を取り込んで、より一層火を巨大化させるだけだ。
苦しみ悶えているところへ、更に猟師から火炎瓶が投擲される。二つ、三つと投げられたそれから、パッと火が付いて、薄暗区なり初めていた周囲を煌々と照らす。紅ずきんも体勢を整えて投げ始め、そう時間もかからず、獣の全身を火が焦がした。
そうして、轟々と燃える日に包まれながら、獣はまだ死ななかった。
悲鳴のような、怒号のような、そんな叫び声を上げた獣ならざる獣。声だけで火を吹き散らすという凄まじい光景を狩人達に見せつけた後、その身をふらりと揺らした。
「まーだしなねえのか。まったく、無駄にタフな野郎だぜ」
そう呟いた紅ずきんと、その隣の猟師へ向かって、獣が走り出した。己を焼いた火の主を食い殺さんと、全開に空けられた口から涎を撒き散らして、両手を滅茶苦茶に振り回しながら。
同時に、猟師も駆け出す。真っ向から立ち向かう形だ。紅ずきんは、その背にぴったりと張り付くように走っている。
料金は獣が腕を振りかぶったのを合図に急停止。刹那、鈍い音と共に、猟師の鼻先を爪が掠める。
それに怯みもせず、猟師は叫んだ。
「いけ!」
その瞬間、刹那の隙を見逃さず、紅ずきんが跳んだ。一度目の跳躍は低く、猟師の肩へ乗る。そして、瞬きすら許さぬ間に、更に跳躍。獣の頭上を遥かに飛び越えて、空を再び、紅の影が舞う。
影を目で追おうとした獣の首に、またしても鞭が絡みついた。全力で引っ張られたそれが、わずかに獣の体を前傾姿勢にさせる。その首の上に、紅ずきんがまたがった。そして、両手に構えた銃を単発、散弾、単発の順に三連射。獣の後頭部を大きく抉り取る。
だが、獣の生命力は、その程度では殺せない程に強い。脳漿を撒き散らしながら、狂ったように頭を振り回す獣。足を首へと絡ませ、がっしりと組み付いた紅ずきんは、その最後の抵抗を見届けていた。
暴れだした瞬間に、猟師は武器を鞭から鉈へと戻し、下げそこねた獣の顎を持ち手で打ち据えた。尋常ならざる力によって上へと弾き飛ばされた頭。となれば、自然、上半身も浮き上がる。猟師の目の前に獣の腹部があった。
そこへ、猟師が全力で踏み込み、鉈を一突きした。渾身の力でもって突き刺されたそれが、盛大に肉を裂く音と共に、獣の体から血があふれ出す。
更に、その傷口へと、猟師が更に踏み込んだ。開いたもう片手を、全力で傷口に叩き込んだのだ。広がった傷口から、とめどなく鮮血が吹き出す。だが、猟師はそこで止まらなかった。
「ゼ……ラァッ――!」
雄たけびと共に、猟師が付きこんだ片手を、横へと振り切った。その手に、獣の内臓が握られている。引きちぎられた腹ごと引き抜かれたそれの痛みで、怒号なのか、悲鳴なのか、獣が叫んだ。
「あばよ。次生まれたら――なんて、いわねえよ。死ね」
首にしがみ付いていた紅ずきんが、獣の喉の前で手を交差させ、そして引いた。さらに、踵に仕掛けた機械式の隠し刃も起動し、肉を抉り取る。
小さな、とはいえ、四本という、決して少なくない数の刃が獣の首を走った。
その首を蹴って飛び、紅ずきんは獣から離れて着地。今度は、危なげのない飛翔であった。と同時、蹴られた首がずるり、とずれた。
ゆっくりとずれて行くそれを、獣はどうする事もできない。
くるくると乱雑な回転をしながら、獣の首が落ちた。いかな獣とはいえど、首と心臓を落とされてしまえばもう終わりだ。
"貫徹"と銘打たれたガン・パイルと融合した獣は、終に絶命し、その体を横たえた。体より分かたれた顔は、何かを憎んでいるようで、しかし感情は無かった。
「お前は成し遂げた……ってか。くだらねえ」
「……用事があるのはこいつじゃねぇ。そいつに火ィ付けたら、さっさと工房に行くぞ、猟師」
さすがに疲れた、と呟いた紅ずきんは、しかし休む事なく歩き始めた。
残っていた最後の火炎瓶を叩きつけた猟師は、その痛々しい背中を見つめた。幾千の傷を宿しながら、決して眠らない小さな背中だ。
今は考えてもしかたない。猟師はふん、と気に入らないように鼻を鳴らしてから、ゆっくりとした足取りで少女の背を追った。