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十三話 捨てた日の話

「お(かあ)さまは、馬車がはじめてではないのですか?」


 不意に、少女が声を出す。


 やや灰色がかった白色のドレスに身を包んだその少女は、グレイアッシュの短い髪をふわりと揺らして、自分の母に問いかけた。


「ええ、ルーゼ。昔、二回だけ乗った事があるの」


 母親は、やさしく少女ルーゼの髪を撫でながら言った。少女は心地良さげに目を細めて、笑った。薄く灰色がかった黒い髪が、正午の風に合わせて揺れる。


 今年で九歳となる少女は、とても可憐だ。白色がよく似合う少女で、紺碧を湛えた目はパッチリと開いている。店売りの簡素なドレスが、まるで糸の一本一本が少女の為に作られたかのようによく似合い、動く度にその可憐さを増しているような錯覚すら覚える。


 にこりと笑えば、その笑顔は人の微笑みを引き出し、ひとたび踊れば、空間が華やかになる。


 身内贔屓(ひいき)のかけらもなく、近い未来、傾国の美女となりえる器を持っていることは間違いないといわれていた。


 しかも、それだけではない。ルーゼは運動神経も相当に良かった。軽快に自分の身長の高さを超えて飛び跳ねる姿に、驚く人は少なくない。


 それに、聡明な子供でもあった。早くから様々な学習に手を出し、既に初等数学、初等国語を完全に扱えるようになっている。それゆえに成績もよく、また素行も素晴らしいと評価される。それに加え、どんな人に対しても優しく大らかに接する事の出来る人柄から、天使のような子供だとよく言われていた。


 ――神童だ。誰かがそう言うほどに、その少女、ルーゼは優れた知性と肉体、そして人格の持ち主であった。


 そんな彼女も、町を出るのは初めてだ。招待されたダンスパーティーに向かう道、慣れない馬車の中で、きょろきょろと周りを見ていたり、馬車の中をせわしなく歩いていたり。


 年相応の無邪気さが見れて、両親は少し微笑ましい気分になっていた。


 ただ、当のルーゼにとってはそうではなかった。確かに両親と旅の出来る数少ない機会で、楽しくないわけが無い。だが、別の事が気になっているのも確かだった。


 この街道沿いに、獣が出るというのだ。二、三体ではすまない、十数体の獣が。なんでも、弱い群れらしいが、警戒に越した事は無い。少なくとも、この馬車の護衛に雇った者では、十体は抑えられないと、少女は考えていた。


 万が一獣が現れたとき、馬車の荷物を捨てて逃げれば、充分に逃げられる。その為の警戒行動であった。無論、気付かれないように行っていたが。


「ルーゼ。そんなに心配しなくても、馬車は転んだりしないよ」

「あ……はい、お父さま」


 両親が優しげに笑いかける。ルーゼは曖昧に笑って座りなおしたが、それでも両親のことを守るために、時折外を気にしていた。




 彼女は強く、賢く、慎重だった。彼女は今回の舞踏会への参加を見送ろうと考えていた。しかし、両親の熱心な誘いを断り切れず、結局行く事になった。


 それに、彼女には若干の引け目があった。町や村の外に出るという事は、常に"獣"と遭遇するリスクを背負うことになる。そうなれば、何度も外出を繰り返せば、そのリスクも相応にあがって行くという事になる。


 その危険を少しでも避ける為に、彼女はそういった外出を様々な理由で幾つも断っていた。保身ばかりではなく、それには両親の無事の為という理由もあった。


 しかし、何度も何度も断ると、自然と申し訳ない気分になってくるものだ。ルーゼは強く賢かったが、同時に優しく、人情深くもあった。ゆえに、誘いを断るたびに、仕方ないといって落ち込む両親を見て、今度くらいはいいか、と思ってしまったのだ。


 ルーゼは、いかにも何でもない様に取り繕った。たまにしか無い、家族の旅行だ。それゆえに、ルーゼの中には、不安がらせる事もないだろうという思考があった。


 もう二年もすれば、しっかりと打ち明けるという選択肢を取れたかもしれない。関係の亀裂を恐れず、安全策をとれたかもしれない。


 だが、いかにルーゼが神童と言えども、その思考回路の大部分を占めるのは子供の部分だった。楽しむべきときは、全力で楽しみたい。出来れば、何もストレスを感じることなく。


 彼女は良くも悪くも、子供であった。一回だけなら。そう考えてしまったのである。ここ最近、彼女の耳に獣が出たという知らせがなかったのも、要因の一つであった。


 崩壊は、すぐに訪れる。




 ふとした一瞬。茂みから、唐突に巨大な黒い影が現れ出でたかと思うと、それは強烈な力を伴って馬車の側面へと体当たりした。


 ガコン! と大きな音を発して、車体が揺らぎ始める。


「なっ!?」

「ひっ!」


 誰とも分からない悲鳴が聞こえる。


 馬車は、そもそも横からの衝撃を考えて作られていない為、横から強い衝撃さえあれば比較的簡単に転んでしまう。中の人間も、悪ければ即死もありえた。


 ルーゼは、傾き行く視界の中で、咄嗟に近くに於いてあった衣類の入った麻袋を掴み取り、両親の体の下に滑り込ませた。落ちて行く体が、ちょうどその袋の場所へと落ちるように。


 馬車の横転という予想外の事態にも、ルーゼは決して焦らなかった。両親はもう大丈夫だろう。流石に、小さなとはいえ貴族の衣類袋だ。柔らかな素材で出来たドレスや礼服の類が入っている。緩衝材としては充分だ。後は、自分の身の保護である。


 一瞬、どうしようかと迷った。緩衝材代わりの衣類袋に飛び込むには、恐らく袋の面積が足りないだろう。かろうじて、両親の体を受け止める事が出来るほどしかない。


 衣類袋を投げて硬直していたルーゼの体を、母親が不意に抱き寄せた。自分の胸の中にかばう形だった。ほんの一秒ほどの間である。それを成したのは、単純な母親の愛情だろうか。


 衝撃と共に、完全に視界が横になる。衣類袋以外の全ての荷物が転げ落ち、派手に音を立てる。ルーゼは母親の腕の中でぎゅっと目を瞑って横転の衝撃に備えた。


 そして強い衝撃と共に地面に打ち付けられる音がして――少女の視界は暗転した。




 少女が目覚めたとき、既にあたりは暗かった。衝撃に気絶してしまったらしい、と母の腕に抱かれたまま考えて、ようやくハッとした。母親も気絶してしまったままなのだろうか。


 母親の腕からそっと抜け出した少女は、上半身だけを起き上がらせて母親の体を揺らした。何度も、おかあさま、と声をかけながら。


「お母さま、起きて。起きてください」


 少女の声に反応したかのように、ごろり、と母親の体が転がる。


「……お、かあ……さ、ま?」


 起き上がる事はない。


 その背中から幾つもの臓物をこぼれさせ、血を滴らせるばかりの母親は、もう起き上がらない。


 呆然としたように、少女は母親の体を揺らし続けた。何度も、何度も。涙を流して、嗚咽も止まらないままに何度も揺らし続け、母親の死を否定する。


「おかあさま! おかあさま! 起きて、起きて!」


 不意に、馬車の壁を突き破って人影が飛び込んでくる。少女の横の壁にぶつかる形で動きを止めたそれは、かろうじて人の形を留めていた。


 キリッとしたまつげは血に濡れ、いつも優しげな目を怒りに燃えさせたまま絶命している人物こそ、少女の父親であった。片手には短剣を持って、体の無数の傷が、背を向けていたであろうそこを――すなわち、馬車を守ろうとしたことを物語っている。


 首を食い破られ、多量の血を流した彼のその瞳に、既に光は無い。


「あ……あ……」


 その死体を追いかける様にして、一つの影が、馬車の中に跳び込んで来る。ギラリとした瞳が、少女の顔を捉えて、その口の端を醜くゆがめた。笑っているのだ。


 真っ黒な目、真っ黒な毛、そして真っ赤の牙。その牙には、銀色に光るロケットが引っかかっていた。


 獣は無垢なる少女の方へと、一歩、一歩といやらしくゆっくりと歩を進めた。父の遺体にすがり付いて泣いていた少女は、父親の短剣を握り締めて、獣と向かい合った。


「……殺す」


 少女の顔には、似合わない殺意がこびりついている。ギシッと噛み締めた奥歯が鳴り、込められた力を物語る。


 両親の血にまみれ、白かった筈のドレスを真っ赤に染め上げた少女は、全てを憎みながら叫んだ。


「お前ら全員、この世の地獄に叩き込んでやる!」


 短剣が宙を舞う。


 少女はその日、少女である事をやめた。

 投稿が遅れてしまい、申し訳ありません。

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