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男と女シリーズ

表情足らずの男と言葉足らずの女の恋の始まり

作者: 夏帆
掲載日:2016/10/15



私の初恋は、父だ。



そう言うと、血の繋がりが無い親子なのかと誤解されるが、間違いなく私と父は血を分けた親子である。

だからと言って近親相姦的な道ならぬ関係でもなく、純然たる親子関係にある。あまり信じていない神に誓ってもいい。




では私が何を話したくてわざわざこのことを文頭に置いたのか。




それは至極明快なことで、物心がついた頃から今現在に至るまで、私が重度のファザコンであるということを知ってもらいたかったからだ。

母と兄も好きだが、父が一等好きだ。どんなイケメンが束になって押し寄せてきたって、父には敵わない…そう公言して憚らない女なのだ。




そんな私が半年前、父ではない人に恋をした。




はっきりいって天変地異が起きたくらいの衝撃だ。今までの自分の人生やら信念やらがひっくり返ったんじゃないかと思うくらい、本当にあり得ない出来事だった。



けれども半年経った今でもその熱は冷めず、父よりも彼の方が好きかもしれないと思う。




彼に恋を自覚した時、私は世界の全てがガラガラと崩れ落ちる音を聴いた。

と言っても決して一目惚れではない。初めて出会ってから1年ちょっと、同じ委員会に属して2ヶ月。特別意識していたわけでもなかったのに。



あの時。



誤って唇に触れた彼の頬の熱と、私の下敷きになって常の冷静さを失くしたその真っ黒な瞳が





たまらなく愛しい、と。





そう感じた瞬間、心から止めどなく何かが溢れだして。



気づいたら私は彼に




『付き合ってください』




と口走っていたらしい。

らしい、というのは自分でそのことをあまり覚えていないからだ。自然に零れた言葉は私の耳を素通りしてしまったのだ。

そんな私に、戸惑いながら頷いた彼のその意思表示が、まさか『付き合ってください』の返事だと知ったのは翌日のこと。


『野村、』


やたらもどかしげに私の名を呼ぶ彼が、委員会の仕事を終えると同時に私の腕と鞄を掴んで部屋を出た時に発覚した。

私たちは同級生であり同じ図書委員であるため、頻繁に一緒にいる機会はあったし、その時も図書委員の仕事で図書室にいた。

前日の己の愚行…つまり彼の上にのしかかり、彼の頬に不可抗力とはいえキスをした事実に悶えていた私と異なり、彼は至って普通だった。


だから、突然の彼の蛮行に私は驚いた。それはもう目が飛び出たんじゃないかと思うくらいに。



『片倉君…!』

半ばパニックになりながら呼びかけるが、彼は私を引き摺るように黙々と歩き続ける。

疑問符が頭の中を満たす私をよそに、気づけば昇降口まで来ていた。そこで初めて彼は私の腕を離し、こちらを振り返った。

『片倉君!どうしたの』

私は喘ぐように彼に問いかける。昨日見つけたばかりの恋心は私を焦らすばかりで、まともな解答を導き出す自信がこれっぽっちも無かったからだ。

困惑を顕にする私を、彼はじっと見つめた。無表情だ、ロボットだと言われる綺麗で精巧な顔は能面のように凪いでいる。



『………付き合ってくださいと言ったのは野村だろ』



『…はい?』

無表情で告げられた言葉は私の想像とはかけ離れたものであった。思わず目を瞬かせると、彼は眉根を寄せて苛立たしげに次の語を吐き捨てる。


『昨日、野村が…俺に付き合ってほしいと言った。そして俺は頷いた。………つまり、俺と野村は恋人同士だろう。一緒に帰るのは、そんなに変か』






恋人、同士?





私の脳裏には昨日のことが甦る。飽和した想いに翻弄されて、実のところ、あまり覚えていないのだが…どうやら私は彼に告白したらしい。そして彼はそれを受け入れてくれたらしい。


じわじわと胸が熱くなり、手足が痺れたように震える。





そっか、恋人同士なんだ。





その事実がすとんと胸に落ちる。



『変、じゃないよ。…急だったからびっくりしただけ。一緒に、私と帰ってくれるの』

熱いものが込み上げて、私はぎこちなくしか微笑むことができなかったけれども、彼は静かに頷いてくれた。

『そっか。…帰ろうか』

『うん』

差し出された手は大きくて、ごつごつしている。

その手の上に自分の手を重ねると、きゅっと彼の手に力が篭るのがわかった。



心臓がトクリと大きく鳴る。




やっぱり、恋しちゃったんだ。




夕焼けに照らされた彼の横顔を何度も見上げながら帰ったあの日は、私たちの始まりの日。


幸せで、少しだけ刹那的で。





それからも彼、片倉雅哉と私はささやかながらも恋人同士の語らいを楽しみ、休日にはデートも重ねた。

高校生にしてはややプラトニックな関係ではあったけれど、繋いだ手から感じる温もりや、躊躇いがちに抱き締められた時の腕の逞しさ、目が合うと柔らかい色を浮かべるその瞳が嬉しくて、私はますます彼に溺れた。



確かにあの頃はこの日々が続いていくと信じていたのだ。





今とは違って――――――







きっかけは何だったのだろう。




彼からメールの返信が来ないことがあるとか、目が合った瞬間に目を反らされてしまったとか、本当に些細なことが始まりだったように思う。

一度気づいてしまうと、並々と満たした杯から水が溢れ出すみたいに疑問が湧き上がってくる。



そういえば、最近一緒に帰ってない。



そういえば、この前デートをドタキャンされた。



そういえば、彼の笑顔を見ていない。



そういえば…、そういえば…。





確かに彼は無表情だし、周りから敬遠される傾向はある。けれども決して冷たいわけではないし、真面目で義理堅いから、ただただ不器用に誰かのために動くことも多い。

つまりは、情に厚く、他人を傷つけることのできない人だ。

その彼が、メールを無視したり、約束を破ったり…そんなことを頻繁にするのだろうか。





あり得ない。





あり得ない、ことが起きている。




その意味は、何?




「私…嫌われたの?」




ぽつりと零れた結論が、私の心に染みを作っていく。

水酸化ナトリウムの水溶液を誤って触ってしまった時のような、ピリピリとした痛みを胸が訴えてくる。

指の感覚が曖昧になって、気づけば持っていたコップが指からするりと抜け落ちて床に吸い込まれていった。

カシャンという音がやけに大きく響く。

割れると同時に弾けた冷水が私の足にかかる。お風呂に入って温まった足の指が、急激に冷やされていくのが分かった。


…いや、指先が冷たくなってきたのはきっと水のせいだけじゃない。




この割れたコップは、私と彼の関係だ。



割れてしまったコップは元に戻らない。




思わずよろめいた私の耳に、慌ただしい足音と声が届く。

朝樹(あさき)!大丈夫?!怪我は!」

パタパタと駆け寄ってくる母と兄の声に私は我に返った。

ぼんやりとしていたから気づかなかったが、足の裏が痛い。裏を見ればガラスの破片が右足の薬指の付け根に刺さっており、そこから血が滲んでいた。

「コップ割ってごめんなさい。…ガラス、踏んだかも」

「ええっ?!わぁ、結構深く刺さってるじゃない!お兄ちゃん、車出して!」

「おう!」

私の怪我を見るなり、わたわたとし出した母と兄に苦笑してしまう。

母と兄は見た目は似てないのに性格は瓜二つなのだ。少し慌てんぼうで心配性。そんな二人が揃うと大抵大騒ぎになる。

「朝樹、ちょっとの間我慢してろよ」

そう言うが早いか、兄は私を横抱きにしてリビングを飛び出していた。

「晃樹兄!降ろして!」

驚きのあまり暴れた私を兄はちらりと見下ろし、そしてぎゅうぎゅう抱きしめる。

「暴れたら落ちる。じっとしてろよ」

シスコンで妹にとことん甘い兄には珍しく、私の言い分は聞き入れないつもりらしい。どちらかと言えば受け身で押しに弱いタイプなのに、こんな風に強引で少し乱暴な仕草は兄らしくない。


本当に、らしくない。


それが私の心を波立たせて思わず見上げると、端正で氷のような容貌の父とそっくりな兄の顔に、何故か彼の顔が重なった。



そういえば、お父さんと彼って本当によく似てるんだよね…。



綺麗な顔は冷たくて無表情で、口数も多くないし言葉選びが下手で。それでも不器用に家族を愛しているのが分かる優しい眼差しが私は大好きだ。


そんな父を見てきたから、私は父のような男性に愛されたいと願ってきた。包まれるような愛を、一途な想いを欲していた。



…あぁ、そういうことなんだ。



だから、彼を選んだのは必然だったのだ。



きっかけは、不可抗力のキスだった。



けれどそれより前から私はきっと彼に恋をしていた。



今頃何で気づくのだろう。

私は、初めから彼を好きだった。そのことを知った時には彼に嫌われていただなんて。そんなこと知りたくなかった。



じわり、と目頭が熱くなる。



「朝樹!泣くほど痛いのか?すぐ夜間診療に連れていってやるから!」

「私…泣いてる?」

「泣いてる」

感傷にも浸らせてくれない兄の声に、私はコトンと首を傾げた。…言われてみれば、視界が歪んでいる気がする。



胸が、痛い。



「………お兄ちゃん…」

私は兄の肩に額を押しつけた。自覚してしまえば、涙はもう止まらなかった。

「朝樹…」

「晃樹、いつまでそこにいるんだ。病院には俺が行くから早く朝樹を車に乗せてくれ」

戸惑った兄の声の後に響いた声は、穏やかで抑揚のない父の声。

「父さん…!朝樹は俺が連れてくよ!」

「晃樹は明日仕事だろう。それにそんな動揺して連れていって事故にでも遭ったら困る」

「う、」

「晃樹」

静かな声には逆らえない強さがあり、僅かな沈黙の後、折れたのは兄の方だった。

「…分かった。朝樹を車に乗せてくる」

「頼む」

言葉少なだが、確かにその声色は優しくて温かい。

でかける準備をしに行った父を見送った後、兄は私を抱いたままドアを開けるとそのまま車へと直行し、助手席にそっと乗せてくれた。

「晃樹兄、ありがとう」

そう告げれば、兄は照れくさそうに微笑んだ。

「どういたしまして」

ぽんぽんと、小さな子のように頭を撫でて、兄は家に戻っていった。

その背中はとても大きくて、華奢な印象の彼とは違うのだと実感させられる。

それが何故だか切なくて、私はきゅっと目を瞑った。











淡々と治療が終わり、薬を処方された後、私と父は車で帰路についていた。

父と二人きりで行動するのは随分と久々のことだったが、元々寡黙な父と傷心の私だ。会話らしい会話もなく、静かな空間を時折車のライトや街灯が照らすだけである。

きっと彼に恋をする前の私なら、父と二人きりでいることが嬉しくて聞かれもしないことまで喋り続けていた。

なのに今は何も話が浮かんでこない。


脳裏をちらつくのは無表情な横顔と、優しく緩む真っ黒な瞳。


きゅうっと胸が締め付けられて、私は服の上から自分の胸を押さえつけた。

「………朝樹、ちょっと寄り道するか」

「え?」

突然の父の言葉に私は驚いて何度も目を瞬かせる。

隣を見れば、普段通りの無表情な父が前を見据えて運転をしていた。

「母さんも晃樹も知らない、星が綺麗に見える場所だ」


お母さんと晃樹兄が知らない?


母と兄が知らない、という言葉に眉をひそめたのが分かったのか、そこで父はやっと表情を崩し、ほんの少し照れくさそうに、少し淋しそうに微笑んだ。

「だいぶ昔、大切な人を失った時に一人で見上げてた」

「お父さん…」

私はその後を続けることができず、黙って父を見つめた。



お父さん…私の悩み、分かってるんだ。



それが嬉しくて切なくて、ちくりと痛んだ胸をそっと撫でる。

ずっとずっと好きだったのに。

父へ抱いていた恋心は形を変え、今はただ穏やかな想いになっている。



それは私が彼を好きになったから。




けれども彼は私を好きになんてならなかった。










車は自宅の裏山の山道に入っていく。

ガタガタと心地よい振動を感じながら車に揺られ続け、ついうっかり居眠りをし始めた頃、目的地に到着した。

「着いた。外は寒いから今日は車の中からな」

父の声に目を開けた私は、眼前に広がる星空に息を飲んだ。



「わぁ………っ!」



そこには今にも零れ落ちそうなくらいに星がところ狭し瞬いていた。

まるで宝石をばらまいたみたいにキラキラと光っている。

目の前の光景に気を取られていると、隣から小さく笑う声が聞こえた。

「…朝樹は、一葉に似ているんだな」

「かずは?」

振り向けば、懐かしそうに父が私を見ていた。

「俺の初恋の人。…そんな顔をするな。母さんは全部知ってるから」

一葉、って…。

母は涼香だ。母と父はお見合い結婚だし、当然のことながら父の初恋の相手が母だとは思っていない。

けれども母とは別の女性のことを優しい目で話す父を、私は真っ直ぐに見ることができなかった。複雑な気持ちのまま、私は少しだけ視線を外し、父の目を見ないようにする。

そんな娘の心境を知ってか知らずか、父は昔を思い出すように語り始めた。

「一葉と俺は同期入社で割と仲は良かった。…今は農家をやってるけど、俺は昔、外資系企業で勤めていたんだ。

俺は無表情だからマシーンだと皆から避けられていたが、一葉だけはよく話しかけてくれた。

外見は朝樹によく似てる。…まぁ、母さんと一葉の容姿が似ているから、そうなるのは当然なんだが。

彼女は可愛い人だった。明るくて優しくて日だまりみたいな、そんな人だったから、本当に人気があったよ」

そこで区切ると父は私に目を向けた。

「俺も彼女が好きだった。でも見ているだけで良かった。

そんなある日、俺は一葉に告白されて恋人同士になった。

幸せだったから、いつまでも続いてほしかった。でも同時に何で一葉が自分を選んだのか不安で仕方なかった。

その不安を彼女にぶつけたこともある。冷たくしたこともある。けれど彼女は変わらなかった。


だから心のどこかで安心していたんだ。そしたら突然、別れを告げられた」

淡々とした口調なのに、父の表情は悲しげで。

私は何も言えずに父の目を見返した。

「そこでやっと自分のしたことの重大性に気がついた。

でも、もう遅かった。いなくなった彼女を探し当てた時、既に亡くなった後だったから」

「え?」

「がん、だったんだ。だから彼女は別れようと言ったんだ。

それすら知らなかったなんて、恋人としては最低だ。教えてもらえなかったことが、彼女の俺に対する答えだと思った。


…それから俺は無気力になって、自殺まで考えた」

自殺、という言葉に私はぴくりとした。父からよもやそんな単語が飛び出してくるとは思わなかったのだ。

けれど、父が一葉という女性を心から愛していたことがそれだけで十分に伝わってきた。



私も、彼がいなくなったらきっと絶望してしまうから。



愛する人を失う痛みがどれほどのものか、正直なところは私には分からない。

ただ、もしも彼を失ったら…と思うだけで足元が崩れ落ちていくような悲しみと後悔が溢れだしてくる。

「一葉はね、そんな俺を見越していて、手紙を残してくれた。それで初めて自分の過ちに気がついたんだ。




俺はね、朝樹。一葉に「好きだ」の一言すら伝えてなかったんだ。言わなくても分かるだろ、って甘えてた。



…本当は言葉にしなきゃ何も伝わらないのにな。

俺はそのせいで一葉を追い込み、最期の瞬間に傍にいることを許されなかった」

「お父さん」

「もしも朝樹が今、誰かを好きになって、その人と一緒にいたいのなら素直に気持ちを伝えなさい。伝える努力をしないで与えられるものは何一つ無いんだ。

俺は朝樹の味方だ。泣きたくなったら、またここに連れてくる」

父の大きな手が私の頭をそっと撫で、そして優しく抱き締めてくれる。

父と彼では抱擁の仕方もその感触も違うのに、私を包む腕が彼のものと重なっていく。




片倉君………




私はまだ何も伝えていない。




好きだって、大好きだって。




まだ、伝えてない。




私は彼を失いたくない。



傍にいることを許されたい。



父のように最愛の人を失ってからでは遅いのだ。

明日…彼と話そう。

そうしたらきっと、何かが変わる。

「お父さん、ありがとう」

「ちゃんと仲直りができたら彼氏を家に連れてくると良い。…朝樹も、もうそんな年頃かと思うと複雑だが」

やっぱり、私の悩みはバレてたんだ。

「私の悩みが、何で彼氏のことだと思ったの?誰にも言ってないのに」

そもそも恋人がいること自体、誰も知らないのだ。

何でだろうと首を傾げた私に、体を離した父が悪戯っぽく目を細める。

「可愛い娘のことが分からないわけないだろう」

平然と言ってのけた父に私は絶句し、その胸を軽く叩いた。


嬉しいけれど恥ずかしい。


じんわりと温かくなった胸にもらった言葉をそっと染み込ませると、私は父の首に抱きつき、遠慮なしに甘えたのだった。












次の日。

ガラスで足の裏を切った私は松葉杖で登校するはめになり、朝は兄の車で高校へ送ってもらった。

スーツを着込んだ兄は見た目だけは立派な大人だけど、車の中でひたすら私が学校へ行くことに不満を漏らし、子どものように駄々をこねていた。

「今日くらい休めば良いのに」

「たかがケガくらいで休めないから。それより晃樹兄、前見て運転してよ。危ないってば」

「朝樹が冷たい…」

「…って、本当に危ない!」



ぎゃあぎゃあと騒ぎながら車を進めること十数分。

学校の正門に無事に着いた私たちは車から降りた。まだ松葉杖がうまく使えないから、昇降口まで荷物を兄が運んでくれるのだ。

かなり早く着いたと思ったのに、学校には既に人がまばらにおり、興味深げに私と兄を見ているのが分かる。

そういえば私と兄は外見が似てないから兄妹じゃなくて恋人に間違えられるんだよなぁ…

「朝樹ちゃん!どうしたの、それ!!」

遠い目をしていた私の耳に高音の声が届く。

振り返れば、可愛らしいお人形さんみたいな女の子が何だか酷く不機嫌そうに立っていた。

「あ、花梨。おはよう。今日もテンション高いね」

へらりと愛想笑いを浮かべると、彼女は更に怒気を孕んだ目をこちらに向けてくる。

「今日もテンション高いね、じゃないでしょ!どうしたの、その足!」

「あ〜…コップ割って踏んだら結構深くまで刺さっちゃって」

だから大したことないよ、と足を持ち上げれば、彼女はむうっと口をすぼめた。

「朝樹ちゃんの大丈夫は大丈夫じゃないから。あ、朝樹ちゃんのお兄さん、おはようございます。荷物、私が運びますから置いておいてください。…朝樹ちゃんとしっかりじっくりと話したいこともあるので」

「あ、そう?じゃあお願いしようかな…」

早口で言い切った彼女は兄から荷物を受け取ると、それはそれは綺麗な笑顔を見せた。ただし、目が全然笑っていない。

「朝樹ちゃん、行こ!お兄さん、さよなら」

「あ…うん。じゃあ」

彼女の勢いに圧された兄が若干引き気味に頷く。

その様子を目の端に捕らえながら、私は彼女に引きつった笑いを見せた。





「朝樹ちゃんのお兄さんって本当にイケメンだけど、相変わらず押しに弱いのね」

なんとか教室に辿り着いて自分の席に座った私に、彼女はそう話しかけてきた。

彼女の席は私の席と前後だから、彼女はこうして椅子の上に体育座りをしてこちらに目を向けるのが常だったりする。

短いスカートはまくれあがり、パンツは見えそうで見えない危ういラインをさまよっている。

「まぁ、晃樹兄だし。強さを求めるだけ無駄だよ」

教科書を鞄から出して机の中に入れながら、私は毎度のように気のない返事をする。

こんな風に兄を貶しているが、彼女は兄が好きなのだ。それを悟られたくなくて、いつも兄を酷評する。複雑な乙女心のなし得る業なのだが、残念ながらそれを私は理解できないので、彼女の照れ隠しは無視することにしている。


隠したいなら、あの表情はないと思うけど…


兄と目が合った時、友人の頬に僅かに赤みが差すのを私は隣で度々見ている。それはもう、正しく恋する乙女なのだ。




私も、彼を見つめる時に同じ表情をしているのだろうか。




「…ちゃん、朝樹ちゃん!」

「え、何?」

突然自分の名を呼ばれて面食らった私に、彼女は呆れた顔をしている。

「何、じゃないよ。ぼんやりしちゃって」

そう言われて私は自分が物思いに耽っていたことに気がついた。

「ごめん、考え事してた」

「考え事って……もしかして片倉君のこと?」

「え?!」

いきなり核心を突かれて私は目を大きく見開いた。



な、何でバレてる?



彼女に、というより誰にも彼のことは話していない。なのにどうして彼のことを考えていたと分かったのだろう。

俯きつつ必死で理由を考える私の視線の先で、突然大きな影ができた。

「………野村、話がある」

ゆるゆると顔を上げればそこには無表情で立つ彼がいた。

「はな、し?」

急な出来事に頭が真っ白になっている私の稚拙な問いに、彼は真面目くさった顔で頷き、そして私の腕を引いた。

私の体は素直にその力に従い、自然と立ち上がる。足に力が入ったせいか、少し痛みを感じたが、困惑がそれを勝っていて正直感覚は曖昧だ。

「花梨、悪いが野村を借りる。朝礼に間に合わなかったら適当な理由をつけて先生に説明しておいてくれ」

呆然とした私をよそに、真顔のまま彼は友人に謎のお願いをしている。

それに対して彼女も驚くこともなく対応し、それどころか手であっちへ行けという。

「…たく、分かったから早く行ったら?人が増えてきたら面倒でしょ。こっちはうまくやっとくから安心して行ってらっしゃい」

「恩に着る」

「雅哉のママさんの手作りクッキーで手を打ってあげる。チョコチップとココアだから」

雅哉、と彼を呼び捨てた彼女はよく分からない報酬を要求するとそっぽを向いてしまった。




何で二人はこんなに親しげなのだろう。




チクリと胸を刺す痛みに、私は彼女の背中から目を反らした。

そんな私の様子が分かったのか分からなかったのか、彼は私の背に手を添える。

「野村、行くぞ」

そう言うと彼は私に松葉杖を渡すと教室を出ようと促してきた。

別に拒絶をする理由のない私は素直にそれに従った。











移動した先は教室と同じ階の隅にある倉庫だった。

倉庫といっても造りは教室と一緒なので内側から鍵がかかるし、常に鍵は開きっぱなしなので、恋人たちの逢瀬によく使われる部屋でもある。

雑然と古い机や椅子、古紙などが置かれていて自由に動けるスペースは少ないが、二人でいる分には十分な広さだ。

教室の中に入り、彼は内側から鍵をかけた。こんな所に誰かが入ってきたら言い訳はできないので、そのことに異論はない。

部屋が密室になったのを確認すると、彼は私に向き直り、そして徐に口を開いた。


「野村、朝一緒にいたヤツは誰なんだ」


「…はい?」

予想外の問いに口がぽかんと開く。我ながら間抜けな顔だと思うが仕方ない。



こんな所に呼び出されて、第一声がそれ?



わざわざここに連れてこられたから、別れ話でもされるのかと思っていた。

なかなか返事ができないでいる私に、彼は苛立たしげな表情を見せる。

「あれは、野村の新しい彼氏か?」

「はあ?…彼氏?もしかしてお兄ちゃんのこと?」

「お兄ちゃん?」

朝一緒だったのは兄だけだ。

とりあえず正直に昨日の夜から朝までの出来事を話すと、彼は目を丸くして硬直した。

「だからね、よく分からないけど…誤解だよ。




…で、ところで私たち、いつ別れたの?新しい彼氏って何?」彼の言い分ではまるで私たちが既に別れているように思える。

「私は別れたくない」

こんなに好きなのに。

久しぶりに会っても心臓が早鐘を打っていて、切なくなるくらい胸が熱いのに。

彼は黙ったまま、私を見つめ続けている。いつもは波風一つ立たない真っ黒な瞳が、今はゆらゆらと揺れていた。

「ねぇ、片倉君」

私は彼を呼ぶと一呼吸置き、そして精一杯微笑む。



「私は貴方が好きだよ。誰よりも何よりも。

その気持ちに嘘は吐けない。

…私が片倉君を好きでいるのは迷惑なのかな?」



父以外に恋することなどないと思っていた。



そんな、父を中心に回っていた狭い世界から私を引っ張り出したのは、他でもない彼だった。



苦しくて泣きたくて逃げたくて、でも嬉しくて幸せで傍にいたい。

そんな相反した気持ちを抱く自分が可笑しくて、愛しくて。




「私の心の鍵を開けたのは片倉君なんだよ。

もう昔には戻れない」

もう、片倉君を好きになる前の自分を思い出せないくらい私は変わってしまった。

彼は目を見開いたまま、私をただじっと凝視している。それこそ置物のように微動だにしない彼は、文字通りロボットみたいだ。

私は右手に持った松葉杖を近くの机に立て掛け、そのまま右手を彼の手に伸ばして触れる。

ピクリと肩を揺らし、苦しげに眉を寄せた彼は、それでも私の手を振り払うことはない。

「何で、最近私を避けてたの?もう嫌いになったから?面倒になったから?」

「……そうじゃない」

私の問いに、掠れた声で答えた彼は自分の拳をぐっと握った。

「じゃあ、何で?」

「…野村の気持ちが分からなかった」

「え?」

言われた意味が分からなくてきょとんとした私を彼は恨めしげに睨み付ける。

「本当に俺のことが好きなのか、分からなかった。付き合う前も付き合い始めてからも野村は変わらない。他の男に笑いかけたり、平気で触れたり。…それなのに、俺とは距離を取る」

吐露されたのは私が今まで知らなかった彼の思い。

私が当たり前にしていたことが彼にとっては不安を煽るものでしかなかった。

初めて男の人とお付き合いをしている私にとって、彼との接し方は手探りで精一杯だったから、彼の気持ちまで想像することができていなかった。

「でも、そう言ってくれたら良かったのに…」

そうしたら私もそんなことはしなかった。

私の言いたいことが分かったのか、彼は気まずそうに顔を背けてしまう。

「そんなこと、言えるわけないだろ。正直に言って野村に嫌われたくなかったし、別れようって言われたくなかった」

「そんなこと、」

「自信が無かったんだ。何で野村が自分を選んだのか…本当は気まぐれだったんじゃないかと思っていた」

だから、言えなかった。

静かに紡ぐ声は小さく震えている。

私は右手を彼の頬に添わせ、下から彼の顔を覗き込んだ。

「片倉君…私のこと、好き?」

その言葉に彼の目が大きく揺らぐ。綺麗な闇色の瞳が漣を立てて私を見た。

そして次の瞬間、私の体は彼に向かって傾いで倒れていた。

「片、倉く…」

「好きだ。ずっと前から…野村に告白されるより前から好きだった。失うのが怖くなるほど、傷つけることを恐ろしく思うほど、野村が好きだ」

背中が軋むくらい強い力で彼が私を抱き寄せる。今までの躊躇いがちな抱擁が嘘のように、強くて少し乱暴な抱擁に心臓が大きく鳴り始める。

「お願いだ、俺の傍にいてくれ。俺だって…野村を好きになる前の自分に戻れない」

初めてもらった言葉に、胸が熱くて仕方ない。

私は左手に持った松葉杖を放り、そのまま彼の首に両腕を回す。




もう私も彼を手放せない。




「大好き、雅哉君」

彼の名を呼ぶと、彼の腕に更に力が入るのが分かった。

「避けられたりするの、辛かったんだよ」

「それは…ごめん」

「もう避けないで。ちゃんと私を見て」

そしたら私は幸せでいられる。

彼は無言で私を抱き抱え、そして近くの机に座らせた。

首に回した腕を弛めれば、柔らかな表情で私を見つめる目とぶつかる。

「分かった」

目を細めて照れたように微笑んだ彼は、初めて見る幸せそうな顔をしている。

「朝樹…好きだ」

目が伏せられ、長い睫毛が見える。端正な顔がゆっくりと近づいてきて私はそっと目を閉じた。

彼の唇は私の鼻を辿った後、唇に重ねられる。きっと初めてのキスだからうまくいかなかったんだろう、そんな辿々しい様子の彼がたまらなく愛しい。

心臓はあり得ないくらい早く打っているのに、何故だかとても安心する。




人を好きになるって、こんなに素敵なことなんだ。



体の内側から喜びが湧き上がってくる。



唇が離れて、私は目を開けた。

そこには大好きな彼がいる。

「雅哉君」

私はそのはにかんだ表情を目に焼き付け、今度は私から唇を重ねた。













「ところで、花梨と雅哉君って知り合い?」

隣どおしで机に座った彼の顔を見上げると、不思議そうな視線が返された。

「花梨から聞いてないか?俺と花梨は幼馴染みだ。…ずっと朝樹のことを相談してた」

「あぁ…それで」

あの時、彼女が私の考え事の中身を言い当てたのは彼の悩みを聞いていたからだったのだ。

理由が分かると大したことではなかったなと脱力する。

「花梨は朝樹のこと、何も教えてくれなかった。唯一教えてくれたのが、朝樹が図書委員になろうとしていることだけだ」

「……もしかして、雅哉君。普段から本を読まない貴方が図書委員になったのって」

多分私の顔に呆れた、という言葉が貼り付いていたのだろう。ふてくされたように彼は自分の前髪を無造作に掻き上げた。

「あぁ。朝樹と会える理由が欲しかったからだ。2年になってクラスが離れたんだ、それしか無いだろ」

乱暴な物言いだが、そこに彼の照れを感じてこちらも恥ずかしくなる。

「…本を読むのが苦手だって公言してた雅哉君が図書委員になったって知ってびっくりしたんだから、私」

「俺も必死だったんだ、もう何も言うな」

真剣に地面に埋もれたくなる。

項垂れた彼に私は思わずクスクスと笑い声をあげた。

「可愛い、雅哉君。そこまでしてくれたなんて知らなかった。…すごく嬉しい」

「可愛いって…」

「そんな雅哉君を見せるの、私だけにしてね」

小さく微笑み、彼の手に自分の手を重ねる。

ゆっくり指を絡めると彼がその手を握り返してくれた。

「…もうチャイム鳴るから行こうか」

「あぁ」

「今日のお昼、図書室で待ってるね」

「分かった」

その返事が私の心を弾ませる。

自然と弛んでいく表情を抑えられず笑顔になると、彼は小さく目を細めて笑顔を返してくれたのだった。

蛇足として…実は朝樹は一葉の生まれ変わりだったりします。前話では報われないまま亡くなってしまった彼女が可哀想でこんな話を書いてしまいました。

朝樹の初恋の相手が実の父…つまり正道ということになっていますが、彼女が前世の想いを引き摺っていて彼を好きだったのです。ですが新しい恋を見つけたことで、過去の恋に別れを告げることができたのではないでしょうか。

正道と一葉、お互いに恋心を昇華することができたと信じています。



お読みくださりありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 一葉の生まれ変わりかぁ…幸せになれそうで良かった! 娘…としては予想外でした。来世かなぁ??と思ってたので…二人は恋愛としてはやり直せないけど二人の絆は形を変えて結ばれたって事なのかなぁ…
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