赤ずきんちゃん
「赤ずきんや、森のお婆さんの所へ行って来てくれないかい?」
母の一言に、赤ずきんと呼ばれた少女は少し不安げな声をあげました。
「……お母さんは?」
「ちょっと用事があるんだよ。
なあに、赤ずきんももう12歳なんだ。大丈夫だろう?」
母は赤いずきんを指差しながら優しく諭します。
赤いずきんは大人の証。先日プレゼントされたばかりのソレをギュッと握り締めて、赤ずきんは渋々と頷きました。
「……わかった。行ってくる」
*
森のお婆さんは、森の奥に住んでおります。とは言え、母と何度か行ったことがあるので迷子にはなりません。
ただ、赤ずきんはどうにもこの森が好きではありませんでした。見上げれば高い木々に空は狭められ、何とも陰鬱な雰囲気なのです。
「こんなところに住むなんて、きっとお婆さんは疲れているのね」
と、独り言ちる赤ずきん。
母に持たされた鞄には赤ワインやパン、チーズが入っており、少女にとっては軽い荷物ではありません。また恨めしい事に、先日まで降っていた雨のせいで地面が少しぬかるんでいるのです。
「ああ、いつもならお母さんも荷物を持ってくれるのに」
赤ずきんの独り言は止まりません。そうでもしないと、心が挫けてしまいそうだからです。
しかし、その独り言を聞き付けたのでしょうか。赤ずきんの近くからガサリと草木をわける音。
森の陰鬱な雰囲気もあって、赤ずきんはビクリと立ち止まりました。
「……だれ?」
恐る恐る訊ねた赤ずきん。しかし、ガサガサと次第に大きくなる草の音が近付いて来るばかりです。
その正体は狼でした。いえ、二本の足で立ち、人間のように長い手足ですから、人狼と言うべきでしょうか。
大きな口から覗く牙は唾液でぬらぬらと光り、ごわごわと毛深い手には見るからに硬い爪。肋骨が浮かぶ程に痩せぎすった身体も相まって、人狼の瞳は『餌を見つけた』とばかりにギラギラと輝いているように見えます。
人狼は大きな口を開けました。そして、
「やあ、赤いずきんのお嬢さん。こんにちは」
「こ、こんにちは……」
予想に反して流暢に挨拶をする人狼に、目を丸くしながらも応える赤ずきん。
人狼は大きな口をガパリと開けて続けます。
「赤いずきんのお嬢さん、どちらまで行くのですか?」
「お婆さんの家に……
あと、赤ずきんと呼んでください。赤いずきんのお嬢さんだなんて、その牙で舌を噛んだら大変ですもの」
「あはは、なるほど。では、赤ずきんちゃん、と呼びましょう」
人狼が笑うと、生暖かく獣臭い息が赤ずきんを襲いました。
「それにしても、お婆さんですか。
もしや森の奥に住んでいる方でしょうか?」
「ええ、そうよ」
「まさか、赤ワインを届けに、ですか?」
「ええ……
赤ワインとパン、それからチーズを」
なぜ、人狼は赤ワインの事が分かったのでしょう。赤ワインは鞄の中にすっぽりと入っているのです。
しかし、狼だから鼻が良いのね、と一人納得する赤ずきん。
と、そこで赤ずきんはある事に気付きました。
そうか、この人狼はお腹を空かせているんだわ。
だから食べ物の匂いに敏感なのね。
「あの、もし良かったらパンを食べますか?」
「……良いのですか?」
良いわけではありません。
しかし、赤ずきんは痛々しい程に痩せ細った人狼が可哀想に思えたのです。
それに、あの大きな口は私を丸々と飲み込んでしまいそうですもの。
命とパン。それならパンを差し出した方がマシです。
鞄の中からパンを取り出すと、赤ずきんは人狼に手渡しました。
「赤ずきんちゃん、ありがとうございます」
「いいのよ。
でも、これ以上はあげられないわ」
「あはは、パンと貴女の気持ちで十分ですよ」
またしても獣臭い息がかかりました。
「じゃあ、私はもう行くわね」
大事そうにパンを持つ人狼に手を振り、赤ずきんは再び歩き出しました。
*
ふかふかのパンを食べ終えた人狼は、赤ずきんの行った方向を見据えました。その瞳は凪いだ水面のように静かです。
「森の奥に、行ったのですか……」
今しがたパンを噛み千切っていた鋭い牙を覗かせながら、呟きました。同時に人狼の脳内に赤ずきんの顔が過ります。
「森の、奥……」
再び呟いた人狼は何を考えたのか、赤ずきんの去った方向へと走り出しました。
*
森の奥にコンコンと、扉をノックする音が響きました。
すると、その音を待ちわびていたように家の中から、しがれた声が応えます。
「ああ、はいはい。赤ずきんや、今開けるから待ってておくれ」
ここは森の奥、お婆さんの家。
あらかじめ赤ずきんが来ることを聞いていたのです。
「思っていたよりも早かったじゃ……」
しかし、扉を開けながら喋っていたお婆さんの言葉が、不自然に途切れました。
それもそのはず。ノックの主は人狼だったのですから。
「ひっ」
老婆の短い悲鳴は続きませんでした。
何故なら人狼は素早く動き、お婆さんの喉笛を噛み千切ってしまったからです。
「う、え……ぁ……」
鮮血吹き出る首に手を当て、もはや言葉とは言えない音を口から出すお婆さん。片や、欠片を口からプッと吹き出す人狼は何一つ喋らず、お婆さんを見つめています。
やがてお婆さんはヨロヨロと崩れ落ちました。首もとから広がる赤は、光の失せた瞳と合わさって、どこか不気味な作り物めいた雰囲気を放っています。
人狼はまだ仄かに温かい死体を家の裏へと運びました。本当であれば穴でも掘って隠したかったのですが、赤ずきんが訪れるまで時間が無いのです。
家の裏に死体を隠した人狼は、半開きのままだった扉から家へと入りました。家の中には真ん中にテーブルと椅子があり、その奥にはベッドと箪笥が、右手側には調理場がありました。他に部屋は無いようです。
ここまでなら普通の家と相違無いのですが、扉から左手側には細長い瓶が壁一面に飾られていました。埃の積もった瓶もあれば、中身が残った瓶もあり、中には真っ赤な液体が見えます。
「赤ワイン……」
しばしその瓶を見つめていた人狼ですが、気を取り直した様にテーブルの奥へ移動し、箪笥の中からお婆さんの寝間着を引っ張り出しました。
赤ずきんが来るまで、もう時間がありません。
*
森の奥にコンコンと、扉をノックする音が響きました。
すると、その音を待ちわびていたように家の中から、しがれた様な声が応えます。
「ああ、はいはい。赤ずきんや、今開けるから待ってておくれ」
ここは森の奥、お婆さんの家。
ギィィと木材が軋む音と共に、その家の扉は開きました。
「お婆さん、お久しぶりです」
「ああ、そうだねぇ赤ずきん。久しぶりだ」
「……お婆さん、そんな声でしたっけ?」
「ちょっと体調を崩していてね。まあ、とにかくお入りなさい」
若干の違和感を感じたものの、素直な赤ずきんは、具合が悪いから寝間着なのね、と納得しました。そして、お婆さんに続いて家の中へと入ります。
持ってきた赤ワインとチーズを鞄からテーブルの上へと乗せている間に、お婆さんは余程気分が優れないのか、そそくさとベッドの中に潜ってしまいました。
「お婆さん、そんなに具合が悪いの?」
「ああ……
でも、大丈夫だよ」
そうは言うけれど、お婆さんの腕は痩せ細り、大層毛深くなっているのです。何か大変な病気を患ってしまったのでしょうか。
見れば、口は前へと大きく伸び、鼻も黒く変色しております。
そんなお婆さんに、届けるはずだったパンを狼にあげてしまった事を伝えるのは気が退けました。けれども、正直に伝えなければなりません。
「あのね、お婆さん。一つ謝らなきゃいけない事があるの」
「なんだい?」
「本当ならパンも持ってくるはずだったのに、ここへ来る途中で狼にあげてしまったの」
お婆さんがこんな姿になっていると知っていたら、と後悔の念が赤ずきんの目を熱くします。
しかし、お婆さんは満足そうに深く頷いたではありませんか。
「良いんだよ、赤ずきんや。きっとその狼も大層感謝していたはずだ。
お前はとても良い事をしたんだよ」
「でも、お婆さんのお口がそんなに大きくなっているなんて知っていたら。
お婆さんがそんなに痩せてしまっていると知っていたら……」
「大丈夫。心優しい赤ずきんや、私は大丈夫だから」
お婆さんに慰められ、赤ずきんの心はスッと軽くなりました。
すると、どうにも今度は病気の事が気になります。
「ところで、お婆さん。いくつか聞きたい事があるの」
「なんだい?」
「どうしてお婆さんの耳はそんなに大きくなってしまったの?」
「赤ずきんの綺麗な声を聴く為さ」
「どうしてお婆さんは毛深くなってしまったの?」
「赤ずきんを優しく温めてあげたいからさ」
「どうしてお婆さんの口は大きくなってしまったの?」
「それはね赤ずきん、お前をた――」
お婆さんの言葉はそこで途切れてしまいました。
パンッ、パンパンッ、と何かが破裂する様な音が遮ったのです。
「その娘から離れろ! この薄汚い獣め!」
音の正体は猟銃でした。
いつの間にか扉が開き、猟銃を構えた男が立っていたのです。
「やめて! お婆さんに何するの!」
お婆さんの寝間着が、見る見る赤く染まっていきます。
「ああ、お婆さん! ねえ死なないで!」
「離れなさい! それはお婆さんに化けた獣だ!
本物のお婆さんは家の裏で死んでいたんだ!」
男の言葉に、赤ずきんは気付いてしまいました。
お婆さんが、あの人狼と瓜二つな姿だと……
ベッドから転げ落ちる人狼は、もはや虫の息でした。
獣臭い息が牙の隙間を通って、ヒューヒューと苦しげな音を奏でています。
「危ないところだったね。どうして君はこんな所に居るんだい?」
「お婆さんに、あ、赤ワインを届けに来たの……」
震える腕で必死にテーブルの上を指さす赤ずきん。それを見た男は急に嬉しそうな声をあげました。
「そうかそうか!
なるほど、僕はとても運が良い!」
「……あの、あなたはいったい誰なんですか?」
「僕は商人さ。
息抜きに狩りをしていたら、お婆さんの死体を発見してね。
いやはや本当に運が良かった!」
何が嬉しいのか、商人は高らかに笑います。
「君も喜んだらどうだい?
狼に食べられずに済んだのだから!」
「……うん、そうよね。
私、生きているわ!」
あの貪欲な人狼はパンだけじゃ足りなかったんだわ。私まで殺してお婆さんと一緒に食べてしまうつもりだったのね!
そう考えると、目の前の商人は命の恩人ではありませんか。
「さあ、こんな陰気な森から早く出よう」
「はい!」
意気揚々と商人の手を取る赤ずきん。
こうして二人は森から去っていったのでした。
*
二人が去った家の中。人狼は赤ずきんを追うように手を伸ばします。しかし、その手はバタリと床に落ちてしまいました。
その衝撃で、テーブルから赤ワインの瓶が転げ落ちてしまいました。
瓶が割れ、血のように赤が広がります。
赤ずきんちゃん、違うんだ……
この大きな口は、君を助ける為なんだよ……
お婆さんは間引かれた子供を殺す魔女だったんだ……
だから…………
お婆さんのフリをすれば、捨てられたキミ、と、いっしょに…………
人狼の意識はそこで途絶えました。
*
【おまけ 1】
「あれ? 君の娘はどこに行ったんだい?」
「ああ、あの馬鹿なら魔女の家へ行かせたのよ」
「まさか、赤ワインを持たせて、かい?」
「そりゃそうよ。だって死んだ男とつくった子供なんて邪魔でしょう?」
「あはははは! その通りだね!」
「あの馬鹿ったら、頭も悪いし可愛げも無いんだもの。育てた12年を返して欲しいくらいよ」
「辛辣だなぁ。
じゃあ、僕との子供も捨てるのかい?」
「きっとあなたとの子供なら頭も良くて可愛いわよ」
「あはははは! それなら、期待に応えなきゃね!」
「うふふ、きて……」
【おまけ 2】
赤ずきんの命を救った商人は、奴隷商でした。
大人の証、赤ずきんをかぶった少女は、大層高値で売れたそうです。
しかし、そんな事は少女に関係ありません。
少女の仕事は、目の前の貴族を満足させること。
「さあ、大枚を叩いて買ったんだ! 満足させろよ!」
無理矢理少女の足を広げた貴族は、そのまま乱暴に肌を重ね合わせました。
激痛に顔を歪めますが、悲鳴をあげれば殴られてしまいます。少女は涙を浮かべながらも必死に我慢しました。
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全てが終わった後、少女の間からは赤い液体が流れ落ちていました。
それはまるで、人狼が最期に見た赤ワインのようで……