悪役女、フツメン主人公に恋をする(下)
駄文です。
(このシリーズは上・中・下に分かれています。上から、順番に読んでいってください。シリーズのリンクから行けます。)
香苗が金城に対して欲情してしまったという事実にショックを受けてしまってから数時間後――。
午後7時30分。
世田谷区、二子多摩川。
「……というわけで、心臓が可笑しくなってしまったのだけど、病院へ行った方がいいのかしら」
「……いや、私に聞かれてもね」
淡い光が灯された照明の下、賑やかな居酒屋の中で、二人の女性が食卓を囲んでいた。片やビール、片やリンゴジュース。まるで親子が頼むような組み合わせだ。だが、そのりんごジュースに手を伸ばすのは子供ではない、それは――
「つうか、二十歳超えてもジュースって……せめてジンジャーエールとかカルピスサワーにしなさいよ、香苗」
香苗だ。眼鏡を取り去り、リンゴジュースを口に含むその顔は少し、あどけなく、幼げに見えた。視線が拗ねたように斜め下へと泳ぐ。
「……お酒はあんまり美味しくないから」
「……相変わらずガキね。これが天下の悪名代官。土宮香苗さまとは信じられないわ」
「ちょっと、それやめて由佳」
呆れたように天井を仰ぐ女性を香苗は恨めしげに呼んだ。けれど女性――由香はそれを意に介そうともせず、ジョッキに手を伸ばす。“悪名代官”、それは香苗が法務省で例の事件を起こした後、誰かがふざけてつけた渾名だ。
「はいはい……で、7歳も年下の純情少年に欲情したって?」
「6歳差よ。それとあの子絶対に純情じゃないから……というか、してないわ。絶対にない」
「そう……? 前からあんたの話聞いてると、そんな感じがしたんだけど」
「……どこで?」
「馬鹿正直にあんたを貶したところ」
「……それは、」
その言葉に香苗はしどろもどろになりながらも必死に反論しようとした。
「中々居ないと思うわよ、あんな厚化粧で迫力だしてたあんたにさ、あんな発言できる子」
「……」
――”ちゃんと考えて此れからは行動します。あんたみたいな“クズ”に成り下がらないようにな”
思い出したくもない、少年の数々の暴言が脳裏を過った。それは己を叱咤した言葉であり、また自分を変えるきっかけとなった、彼の真っ直ぐな言葉だった。その言葉が耳の奥で蘇る度、香苗は過去の自分の愚かさを思い知らされた。
友枝の死から目を背け、逃げ、彼を裏切るような真似をし、そして己を捨て、この世界の常識に浸水しようとした自分を、香苗は恥じた。それは正に都合の悪いことを前にした、我儘な子供のようだった。生徒に八つ当たりするように、グチグチといちゃもんをつけ、またある時は金城を傷つけた。だが、香苗はそれをきっかけに変ることができた。少年の真っ直ぐな言葉によって、心を入れ替えることが出来たのだ。
「私、けっこう感謝してるのよ……その少年、金城くんだっけ?
あの子のお蔭で、あんたは自分を取り戻せたわけだし」
「……由佳」
高下由佳は香苗が行政学部に居た頃からの友達だ。香苗を最も理解し、彼女と同じ意見を持った所謂ブラッドだった。少なくとも彼女も香苗同様、友枝が死んで良かったとは思っていないのだ。
大学に居た頃、由佳はなるべく香苗の傍に居ようとした。だが、幾ら頑張っても周囲の目をどうにも出来ず、香苗が変わってゆく様を歯噛みしながら見ることしか出来なかったのだ。
そして何時しか変わってしまった香苗を、由佳はたえず悲しそうに見つめていた。本当は良いと思っていないくせに、理学部へと移り、哉沢しおりのような考えへと己を浸水させようとした彼女を、由佳は何時も心配していたのだ。
(……だから、あの少年がこの子を変えたと思うと……ちょっと羨ましいというか、妬ましいというか……まあ、結果オーライだから良いんだけどさ)
由佳はほんの少しだけ、金城に嫉妬の感情を覚えた。それを振り払うように、一度大きなため息を吐き、箸で行儀悪くも香苗を差す。
「てかさ、あんたどうすんの?」
「……どうするって、何が?」
「その子……行政高校に行くんでしょ?」
行政高校――正式名を「国立行政機関付属高校」。毎年、行政機関へ最も多くの卒業生を正式な職員として送り込んでいる高等行政教育機関として知られている。それは同時に、誰もが憧れる“行政機関士”(警官や、検事を差す名称)を毎年多く輩出しているエリート校を意味している。行政高校の卒業試験は、行政機関士試験と同等のもので、結果次第ではそのまま機関に所属することが出来るので、香苗たちが居た大学よりも倍率は高いのだ。
其処に入るためには知、体、精神と三拍子が揃ってなくはいけない。
金城には正直、壊滅的なほどに高校に受かる可能性はなかったのだが、香苗の7ヵ月にも及ぶスパルタ教育で何とか補欠として入ることが出来たのだ。
「……私から見ても、その子は間違いなくブラッドよ」
「……行政高にだってブラッドは居るわ」
「それでも、差別を受けることには変わりはない」
「……」
「徹底した才能主義。残酷なまでの精神主義。それが機関士の世界よ」
「……」
「この国の法を受け入れられないブラッドにとっては、あの学校は地獄も同然。
“この国にとって都合の良い精神”こそが優先されるんだもの……ブラッドが生き残れるはずがない」
「……そうかもしれない」
この国は何処までも法に忠実だ。“法”こそが“正義”。“正義”こそが“絶対”。
裁判官が死刑判決を下したら、その被告人は必ず死刑されなくてはならないのだ。例え、其処にどんな“真実”があったとしても――。
国民はそれを当然正しいこととして受け入れ、常識と思っている。
そのどうしようもない現実に、香苗は憂うように目を伏せた。
「私たちのようなブラッドは、普通の人とは相容れない」
「……香苗」
「そう、思ってた」
香苗は諦めていた。哉沢しおりと言う人物に出会い、絶望し、屈服した。これが、世界なんだ。これが常識なんだ。香苗はずっとそう思っていた。
(…でも、)
そっと、目を瞑る香苗。そうすると、あの少年の姿が瞼の奧で蘇った。
――”消えねーんだよ。思い出も、想いも、この感情も、全部。もし、それが本当に全部消えてしまうのなら、残るのは、後悔だけだ”
(……そうね)
その時の彼を思い出して、香苗は自然と自分の口角が笑むのが分かった。何故かは分からない。だが、あの少年の言葉は何時だって香苗を勇気づけてくれる。彼女を“強くしてくれる”――
香苗は思う。そんな彼だからこそ、
「大丈夫よ」
「香苗……」
眉を顰める由香。彼女が金城を心配してくれているのがよく分かった。それでも、香苗は金城が選んだ道を阻むつもりはない。
「確かに金城くんは馬鹿よ」
「…… 」
「いや、訂正するわ。あの子は大馬鹿よ。正直で、阿保で、間抜けで、スケベで、極端で、それで、どうしようもないぐらい真っ直ぐ」
「香苗」
「証拠なんて無い。根拠なんて無い。でも、確信はあるの……あの子なら、あの学園で必ず何かを成し遂げられる」
淀みなく、悩むこともなく、香苗の口からスラスラと言葉が出た。それは心からの言葉。
彼女自身が金城という少年を心底から信じている証拠だった。
その事実に由佳は僅かに驚然としながらも、彼女に問いかけた。
「なぜ、其処まで言い切れるの?」
「……なんというのかしら。私があの子に一方的に感じてる恩のおかげと言うか」
恐らく金城自身は気付いていないだろう。己の悪態ともいえるその数々の暴言が香苗を救い、彼女を変えてくれたことを――。
(……それでも、良い。私は感謝している。だから、せめてものお返しに)
「私はあの子を信じると決めたの」
「っ……」
真っ向からこちらを見る瞳子。琥珀色のそれはキラキラと輝いていて、見る者を引き込む強い引力を持っていた。
はあ。由佳は頭を抱えるように額を抑え、思わず長嘆息した。
(……なんというか、相変わらず質の悪い……)
「由香、大丈夫? なんというか、御免なさい。でも、やっぱり私は……」
(違う……そうじゃない)
由佳が頭を抱えた理由は決して香苗が思っているようなことではない。痛む米神を抑えながら目の前へと視線を向けた。香苗は何処かオロオロとしており、自分を心配そうに見つめている。先ほどのように思わずドキッとしてしまう眼差しはいつの間にか消えていた。それに対して、由佳はホッと息を吐いた。
危なかった……危うく“落ちる”ところだった――。
(……無自覚って、本当に何なのこの子?)
しっとりとした白い肌、綺麗に通った鼻筋、赤く映えるその唇は美しく、厚い眼鏡を取り払われた猫目は今、凛とした雰囲気を伴って、彼女の存在を際立せている。
――土宮香苗は紛れもない美人だ
しなやかな手足にすらりとしたその体躯は、ダサいスーツの下に隠されてはいるが、間違いなく男性も、女性も憧れる体付きをしていた。
だが、何故か香苗にはその自覚が無いのだ。大学の生徒たちが彼女を一歩引いたところから見ていたのは、決して彼女を恐れていたからではない。彼女を高嶺の花として見ていたからだ(まあ、その認識も哉沢しおりとの衝突により、消し去られてしまったが)。それを何を思ったのか、自分の目つきが悪いのだと思い込み、分厚いビン底眼鏡をかけることでそれを誤魔化していた。そして仕舞には哉沢しおりとの事件以来、その秀麗な顔を隠すように厚い化粧をし始めたのだ。その時の由香の、あの筆舌し難い歯がゆさと言ったら――。
(……おまけに“戻ってる”し)
金城のお蔭で元の自分に戻ることを決意した香苗。それを知ったとき、由佳はやっと彼女が己の素顔を周囲に曝してくれると思ったのだ。きっと、彼女が居る学校の生徒や教師たちはその姿を見て呆気にとられるだろう。一度も会ったの無い彼らの情けない顔を想像した由佳は密かにほくそ笑んでいた。だが、実際の結果は――
(……なんでんなダサいビン底眼鏡をまたかけてんのよ!? ってか、どっからそんなもん買ってきた!?)
久しぶりに香苗の美貌を隠すそのレンズを見た瞬間、由佳は大きく落胆した。
「由佳?」
「……なんでもないわ。気にしないで、あんたの気持ちはよく分かったから」
――まあ……もう少し私が“一人占め”してもいいか
一人、心の中でごちる由佳。彼女は香苗の顔をよく目の保養にしていた。その美しい顔を自分だけが見つめ、堪能できると思えば苦には思わない。由佳は別に同性愛者と言うわけではない。ただ、美しいもの――性別や物を問わず愛しているのだ。
そして彼女にはもう一つ好物があった。
(それに……これはこれで“面白そう”だし)
先のことを想像して由佳は、頬を緩ませながらビールを口に含む。ちらり、香苗の方を見てみると彼女はいそいそと大好きな焼き鳥へと手を伸ばしていた。表情は乏しいが、長年の付き合いから由佳には彼女が嬉しそうにしていることが分かった。
ふと、余興を思いつき、その種を少し撒いてみる。
「……さっきの言葉、金城くんにも言ってやったら?」
「……へ?」
「あんた、何一つあの子に励ましの言葉とか、かけたこと無いでしょ?」
ぐっ。香苗は思わず言葉を飲んだ。それは正に図星だった。香苗は己の元からの厳しさゆえ、殆ど、というか一度も優しい言葉を金城にかけたことが無いのだ。
「……それは、だって、あの子私のこと嫌ってるというか……苦手に思っているし」
そうなのだ。知っての通り、香苗は以前、本当に嫌味な女だった。何かと生徒にいちゃもんをつけ、ことごとくしつこく注意をし、彼らの反感を大きく買った。金城もある意味その一人だったと言える。一つだけ違うことがあるとすれば彼が真っ向から香苗に悪態を吐いたことか。
今では心を入れ替え、化粧をやめるなど、外見も一瞬誰だか解らないほど変えたわけだが、金城にはまだ苦手に思われている節が香苗にはある気がした。自ら彼に勉強を教え、彼の第一希望だった高校に見事に受からせることが出来たわけだが、二人の間で行われる会話は悪態だらけだ。金城も勉強を教えてくれたこともあってか、香苗に対する苦手意識を多少取り払ってはいる。だが、過去の出来事を引きずっているのか、何処かよそよそしい時もあるのだ。
「だとしても、関係ないでしょ。あんたもそろそろ実習期間終わるし、彼も卒業でしょ?
もう来月よね? 労いの言葉でもやったら?」
「それは……そうね。確かにそうだわ」
一人頷く香苗。そんな彼女を見て由佳は満足そうに笑った。こういう素直な所は香苗の美徳だ。哉沢しおりのことはともかく、香苗はうじうじと落ち込むことを嫌う。何事も挑戦あるのみ。やる前から諦めることは決してしない女なのだ。
「有難う由佳。何か考えとくわ」
「いいえいいえ……愛しの彼に振り向いてもらうような頑張るのよ」
――ブハっ!
きっと何かを口に含んでいたら香苗は間違いなく噴いていただろう。
「……な、なにを」
トマトのように真っ赤に染まった顔。魚のようなパクパクと開く口から漏れ出る言葉は、意味のなさない羅列ばかり。香苗は動揺していた。
「いや、だって欲情したんでしょう?」
ガタリ。香苗は知らず立ち上がった。
「私はショタコンじゃない!」
――ざわ
行き成り聞こえた不穏な単語に店内に居た客と店員が一斉にこちらを振り向いた。
「……あ、」
「……おバカ」
思わず飛び出た声を抑えて、香苗はスゴスゴと上げていた腰を下ろす。そこには罰の悪そうな顔が見えた。気のせいか視線が泳いでいる。そんな彼女を見て由佳はやれやれと肩を竦めながら言ってやった。
「……相手高校生になるんだし、ショタコンにはならないわよ……」
苦笑を漏らす由佳。香苗は更に居心地が悪そうに身じろぎをした。
「……わかってるけど」
(認めたくないんだな……)
鈍感な香苗自身も恐らく己の気持ちに気付いているのだろう。だが、相手の年齢のためか、或いは己の立場のためか、それを受け入れずに居る。
眉をこれでもか、と言うぐらい顰める彼女。それを見て由佳はふとある可能性に行きついた。
(……まさか、)
「……もしかして、好きな子が居るとか」
「……っ 」
その瞬間、香苗が固まったのが由佳には分かった。心なしか、傷ついたようにも見える。
その表情を見て、由佳は無意識に嘆息を漏らしそうになった。
(当たりか……)
なら香苗が否定したがるのも分からなくない。既に想い人が居る相手を好きになるのは心苦しいことだろう。それに彼女は恋愛に関しては奥手だ。何故なら由佳の知る限り、香苗は恋愛したことがないのだから。
だが、恋なら一度だけしたことがある。哉沢しおりを庇ったあの刑事にだ。
(……恋愛運が悪いのか、それとも)
肘を付いて彼女を観察する。香苗の視線は斜め下に降りており、唇は固く引き結ばれていた。
(……トラウマ、か)
これは由佳の推測でしかない。だが、もしかしたら香苗は哉沢しおりの件で恋をすることに臆病になってしまっているのかもしれない。長年恋をしていた人に絶対零度の視線を向けられた瞬間、一体香苗はどんな気持ちになったのだろうか。それは由佳には一生わからない。
「……とりあえずさ、金城くんが合格したのはあんたのせいなんだから、ちゃんと責任をとってアドバイスとかしてやりなさいよ。
あんたも腐っても元行政学部だったんだからさ……」
「……私のせいって、まるで金城くんが受かったことが悪いみたいな言い方」
「別にいいじゃない。そんなのどうだって、
とにかく……一度くらいはちゃんと優しい言葉をかけてあげるのよ?」
何処か納得のいかない顔をしながらも香苗は了解の意を示した。
彼女のことだ。やると言ったらやるだろう。さて、一体どんな言葉を金城にかけてやるのか……。
(絶対に見に行ってやろう)
ギラリ。由佳の瞳に閃光が走った。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
2106年 3月25日。世田谷中学校、卒業式。
午後3時20分。
広い校舎、桜の花びらが舞い散る中。友達と抱き合って無く卒業生も、記念にと写真を撮る父兄の姿も、さすがに疎らだ。
その卒業式の会場となる講堂を前にして、香苗は一人、キョロキョロと誰かを探すように頭を振っていた。黒い制服は何時ものみすぼらしい物とは違い、ピッチリとアイロンをかけられていてとても綺麗だ。そのお蔭もあってか、本来の彼女のスタイルが見え、気のせいか何人かの視線を集めている。
だが、香苗は何時ものようにそれに気づかず、講堂の周りを歩き回る。
(……一体どこへ)
卒業式の最中ではかっくりかっくりと揺れ動く頭をずっと目で追っていたのに、見失ってしまった。担任の教師だった山本に捕まってしまい、目を離してしまったのだ。
(金城くん)
左から右へと、視線を動かし続ける。すると、
(居た)
目当てのぼさぼさ頭が見え、香苗は己の胸が舞い上がるのが分かった。校門の近く、大きな桜の下に佇む、彼の金城の背中が見えた。香苗は急いで彼の元へと駆け寄り、名を呼ぼうとする。
「かなっ……」
だが、出来なかった。脚は自然と10メートル先で止まってしまい、上げようとしていた声も中途半端に喉の奥で詰まる。
(……伊那瀬さん)
其処には金城の想い人、伊那瀬優香が居た。朗らかに彼に笑いかけるその顔は相も変わらず可愛らしい。そんな彼女を見つめる金城の赤く染まった耳が、香苗には見えた。
(……告白でもしてるのかしら)
ズキリ、心臓が何かに締め付けられたような気がした。
どれくらい経っただろうか。数秒か、或いは数分か。気が付けば伊那瀬は金城の元から去っており、講堂へと再び向かう背中が見えた。彼女は一応式の実行委員だったのでその用事で戻っていったのだろう。
それでも香苗は何故か足が竦んで動けずに居た。呆然と自分の足元を見つめる。
(……なんで、)
「なえセ……じゃなかった、土宮先生?」
ジャリ、間近で土を踏む音がして、香苗は顔を上げた。そこには、
「……金城くん」
「どうしたんですか? こんなところで……」
不思議そうなにこちらを見つめるあどけない顔。最後の日ということもあって、今回はちゃんと敬語だ。気のせいか、その頭は香苗が初めて会ったときより、高いところにある気がした。
(……目線。いつの間にか私より高くなってる)
成長期なのだろう。その身長がぐんぐんと伸びていき、喉仏も目立ちだしているのが香苗には分かった。あと一年もしないうちに、少年は青年へと変わるのだろうか。
香苗は感慨深い気持ちになりながらも口を開く。
「卒業、おめでとう」
「え、あ……有り難うございます」
ぺこり。丁寧に頭を下げる金城。そのつむじがハッキリと見えて、何故だか可笑しく感じた香苗は自然と笑みを零した。
金城はそんな彼女に気付かず、再び顔を上げてもう一度礼を言う。気のせいか、その顔は何処か照れくさそうに見えた。
「その……なんていうか、本当に有り難うございました。
なえ、じゃなくて土宮先生のおかげで行政高校にも入ることが出来ました……
本当に出来の悪かった俺を見放さず、最後まで勉強を教えてくれたことを感謝します」
「……大袈裟よ」
「それでも、俺はあんたのお蔭で此処まで来れたから 」
その真っ直ぐな瞳を見れば、彼の言葉にうそ偽りが無いのが分かる。感動で涙腺が緩みそうになりながらも香苗は己の右ポケットからある物を取り出した。
「これ、貴方に」
「……え、と」
少年へと差し出された掌の上に乗るのは透明なボックス。その中には黒い無線イヤホンが見えた。耳を覆いかぶせるほどのそれは頑丈そうで、白い輪っかの中にまた小さな円が描かれたシンプルなそのデザインは、洗練されていて、魅力的に見える。
「無線通信機。行政高校では演習とか、訓練の時とかに必要になるから良かったら使って」
「え、いや、でも……」
明らかにかなりの額が付きそうなそれは金城には正直受け取りがたい。卒業祝いにしても、世話と言うか、迷惑をかけた教師から貰うのは少々気が引ける。そんな彼の心情を察っして、香苗は続けた。
「良いの。これ、唯のお古だから……もう使うことは無いだろうし」
「お古って……」
それは以前、香苗が行政学部の学生だったときに、演習の時に使っていた物だった。
「もう、噂で知っていると思うけど……私、前は行政学部に居たの」
「はい……」
知っていた。香苗のその噂は嫌と言うほど生徒や教師の間で囁かれていたのだから。
「やってはいけないことをやって、居場所が無くなって……そこから逃げた」
「……」
「それで見ての通り、こんなところまで来ちゃった……情けないでしょう?」
自然と己に対する嘲りの笑いが漏れた。本当に情けない、と香苗は己を恥じた。
そんな香苗を金城は静かに見つめ、ポツリと言葉を零す。
「それで、なえセンは其処で立ち止まるつもりなんですか?」
「……」
「……俺にはあんたが満足しているようには見えない。その、なんつーか、」
何時の間にか、渾名で呼ばれ、敬語も外れている。切羽詰まった状況に陥った時、怒った時、或いは、何かに対して真剣に取り込もうとするとき、敬語が外れるのは彼の癖だ。いつの間にかそれを覚えてしまった香苗は、知らず口角を上げた。
「ええ、満足なんてしていないわ」
「……え?」
「私ね、欲張りなの。欲しいものは全部手に入らないと満足できない傲慢な女」
ポカン、正にそんな効果音が付きそうな顔を金城はしていた。それが可笑しくて香苗はクスクスと笑いながらも続けた。
「だから、諦めないわ。君が諦めず、高校に受かる目標を成し遂げたように、私も頑張る」
「……」
「本当に、お礼を言うべきなのは私の方。有難う、金城くん。君のお蔭で私は目を覚ますことが出来た」
「……え!?」
「本当に、感謝してる 」
さらり、香苗の黒髪が肩を流れて下へと落ちる。自分の前へと頭を垂れた頭に金城は驚然とした。
「え、ちょっ、なえセン! 頭ぁ! 頭あげてぇ!?」
慌てふためく金城。その様が本当に面白く、また可愛らしくて、香苗はついつい笑い声を上げてしまった。またもや呆然とする金城。
「え、いや……あの、えと 」
「ふ、ふはっ……ご、御免なさい。あまりにも可笑しくて」
捩れてしまいそうな腹を抑えながら、香苗は俯かせていた顔を上げた。
すると、遠くから女性の呼び声が聞こえてくる。
「おーい、理人―! どこー? そろそろ時間だから行くわよー!」
金城の母だ。遠くに見えるその姿はハッキリと分からないが、とても若々しく、華やかな人に見えた。小さな影は講堂の傍で大声を上げながらこちらへと向かってきている。
「……あ、えと。すいません。もう、時間みたいで 」
「ええ、さようなら。お元気で。これ、忘れないでね」
別れの挨拶を切り出しながら例のイヤホンを差し出す香苗。金城はそれを戸惑いながらも受けっとった。
「あ……はい、有難うございます。土宮先生もお元気で。あの、それじゃあ!」
何処か名残惜しそうに見えた少年は別れの挨拶を済ませるとすぐさま背中を向けて駆け出した。それを見て、香苗は不意に大事なことを思い出し、もう一度彼に声をかける。
「金城くん!」
「はい!?」
5メートル先。声を張り上げた途端、ピタリと止まった金城がこちらへと振り向いた。
「頑張りなさい」
この数か月間、経験した出来事が走馬灯のように脳裏を過る。初めは、最悪な関係だった。でも、衝突して、変わって、成長して、一方的な恩を感じて、金城理人と言う少年と共に過ごしたあの日々は、間違いなく、香苗にとって掛け替えの無い思い出となっていた。
心臓はゆるかに鼓動を刻み、淡い熱を灯りだす。泣きたいような、笑いたいような、そんな可笑しな衝動が香苗を襲う。だけど、それは悲しみではない。苦しみでもない。それはほんの少しの切なさと、寂しさと、――
「武運を祈る」
――未来への期待だ。
「……」
数秒、或いは数分呆気にとられた金城。だが、すぐさま意識を取り戻し笑みを零した。二カリ、歯を見せながら笑うその口は何処か挑戦的だ。
「あんたもな、なえセン!」
少年は未だに知らない、彼女がこの先、どんな道を歩むのかを。
彼女は未だ気付いていない、少年が既に背負っているその業を――。
2106年、春。
世界を大きく揺るがす歯車が、回りだそうとしていた。
“今は”まだ誰も知らない物語が始まる――。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
おまけ
香苗と金城が会話している間、桜の木の上、そんな二人を観察する不審者が居た。 ピンクのワンピースに、大きなつばのついた白い帽子を被る女性は、一人ほくそ笑む。
「なーるほど。あれが“金城くん”か」
――由佳だ
どうやら、当初の予定通り、香苗のゆく様を見守りに来ていたらしい。
ふむふむと、鑑定士のように金城を見つめる由佳。
(……間違いないな)
すっと目を細め、次いで溜息を漏らす。
「……恋愛運が無いと言えばいいのか、」
長年、勘が働く由佳は直感した。香苗の話を聞いて、まさかとは思ったが、あの少年は――。
(“本当の意味でモテる”タイプね……)
この作品は金城理人を主人公とした「私は犯罪者ですか?」のスピンオフ作品、及びそれのテスティングバージョンです。
本当はちゃんとした連載として書こうと思っていたのですが、途中で「……誰も読んでくれなかったらどうしよう」と言う不安が湧き上がりまして、このような形で投稿させていただきました。
元は連載だったのを無理やり三つの話に詰め込んだので、かなり話をはしょっておりますし、先の展開を多少”匂わせる”キーワードなどがあります。
良い評価、及びお気に入り数などを頂けることが出来ましたら、このお話をちゃんとした連載として投稿させていただきたいと思います。
尚、ヒーロー金城理人がどのような人物かを詳しく知りたいと思った方は宜しければ「私は犯罪者ですか?」までお越しください。
http://ncode.syosetu.com/n4552cd/
念のため忠告しておきますが、うちのヒーローは本当にフツメンです。
美形とかチート的に強いとかそんな要素は一切ありません。(知識チートならちょっとあるかもしれませんが)。ご存じのとおり、むしろちょっとおバカです。
ご都合主義を自ら禁じているため、四苦八苦しながらも金城くんは自分の力で道を切り開いていきます。
最初の展開は多少遅めですが、最後まで読んでいただけると幸いです。
尚、今の所香苗さんの出番は増えはじめていますが、少しモブに近いポジションに居ます。