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終電を逃した夜、駅のベンチで隣に座った人と、朝までしりとりをした

作者: みぎみみ
掲載日:2026/10/26




 改札の前のシャッターが、がらがらと音を立てて下りていった。


 蒼井咲良は走ってきた勢いのまま、シャッターの格子に両手をついた。息が切れて喉の奥が鉄の味がする。電光掲示板はもう真っ暗だった。駅の時計は零時四十一分。


 終電は零時三十八分。


「……うそでしょ」


 声に出したら、膝から力が抜けた。


 三分。たった三分。駅前の居酒屋のトイレで、泣いていなければ間に合った。


 咲良はシャッターから手を離して、駅前のロータリーを振り返った。タクシー乗り場には、二十人ほどの列ができている。車は一台も来ていない。スマホで配車アプリを開くと、「現在、お近くに空車がありません」の文字が、くるくる回るだけだった。


 家まで電車で四十分。タクシーなら、たぶん一万円を超える。財布には、四千円しかない。


 十月の終わりの夜風が、首筋を撫でた。薄手のトレンチコートでは、少し寒い。


 咲良はロータリーの端のベンチに座りこんだ。


 始発は四時五十二分。あと四時間とちょっと。


 スマホの画面に、さっきまで開いていたLINEのトークが残っていた。大学時代の友人グループ。今夜の飲み会はその友人たちとの久しぶりの集まりだった。


 ――そういえば、拓海くん、結婚するんだって。来月。


 誰かが何でもないことのように言った。


 拓海。三年付き合って去年の春に別れた人。「咲良といると、自分がだめに思える」と言って出ていった人。


 ――相手、職場の後輩らしいよ。


 咲良は笑って「へえ、おめでたいね」と言った。それから、トイレに立って個室の中で二十分泣いた。化粧を直して席に戻ったら、もう会はお開きで、駅まで走ってシャッターが下りた。


 ばかみたい。


 別れてから一年半、ちゃんと立ち直ったつもりでいた。拓海の写真は消した。もらったマグカップは、会社の給湯室に寄付した。休日は一人で映画を観に行って一人でパンケーキを食べた。平気だと思っていた。


 平気ではなかったのだ。結婚、という二文字を聞いただけで、トイレの個室で二十分泣くくらいには。


 ――咲良といると、自分がだめに思える。


 あの言葉の意味を、咲良は今でも分からない。何をすればよかったのか。何をしなければよかったのか。分からないまま、心のどこかで、自分が悪かったのだと思い続けている。


 ベンチの冷たさが、スカート越しに太ももにしみてくる。咲良は膝の上で両手を握りしめた。泣いたせいで、まぶたが熱い。目の下がひりひりする。


「――あの」


 隣で声がした。


 顔を上げると、ベンチの反対の端に、男の人が座っていた。


 いつからいたのか、気づかなかった。紺のジャケットに、グレーのマフラー。三十歳くらい。少し長めの前髪の下で、目が困ったように細められている。手に、缶コーヒーを二本持っていた。


「よかったら。さっき、そこの自販機で間違えて二本買っちゃって」


 差し出された缶は、温かかった。微糖の、ありふれたコーヒー。


「……間違えて二本?」


「ボタンを押したら、出てきたのが冷たいほうで。温かいのを押し直したら、それも出てきて。冷たいほうは僕が飲みます」


 男の人はもう一本の缶を持ち上げて見せた。たしかに、こちらは結露で濡れている。


 咲良は少し迷ってから温かい缶を受け取った。両手で包むと、指先がじんわりとほどけていく。


「ありがとうございます」


「いえ。……終電、ですか」


「三分、間に合いませんでした」


「僕は二分です」


 男の人は冷たい缶のプルタブを開けて一口飲んだ。顔をしかめた。


「冷たい」


「冷たいのを選んだんじゃないんですか」


「選んでません。間違えたんです」


 咲良は思わず小さく吹き出した。


 男の人は自分の手の中の缶を見て肩をすくめた。


「七瀬といいます。七瀬奏多。怪しい者では……いや、こんな時間に缶コーヒーを差し出してくる男は、だいたい怪しいですよね」


「蒼井です」


 名字だけ名乗ると、七瀬さんはうなずいて、それ以上は訊かなかった。




 一時を過ぎると、タクシーの列は少しずつ短くなっていった。でも、車はなかなか来ない。来ても、一台に一組ずつ。咲良たちの前には、まだ十人以上並んでいる。


 ロータリーの真ん中の時計の針が、ゆっくりと動いていく。


「あの、蒼井さん」


 七瀬さんが空になった缶をベンチの脇に置いた。


「始発まで起きてるつもりですか」


「寝たら、たぶん風邪をひきます」


「ですよね。僕もです。……それで、提案なんですけど」


 七瀬さんは少し照れたように、前髪をかき上げた。


「しりとり、しませんか」


「……しりとり?」


「眠気覚ましに。黙って座ってると、四時間ってけっこう長いですよ。経験上」


「経験上って。よく終電、逃すんですか」


「年に二回くらい」


 咲良は缶コーヒーを両手で持ったまま、七瀬さんの横顔を見た。


 変な人。でも、悪い人ではない気がする。悪い人なら、しりとりなんて言い出さない。


「……いいですよ。でも、普通のしりとりだと、すぐ終わりますよ」


「じゃあ、ルールを一つ足しましょう。『ん』で終わる言葉を言ったほうが負け。負けた人は相手に秘密を一つ話す」


「秘密」


「何でもいいです。小さいことでも。今日の夕飯、本当はカップ麺だった、とか」


 咲良は少しだけ笑った。


「じゃあ、七瀬さんから」


「しりとり、の『り』から。……りんご」


「ご、ですね。ゴリラ」


「ラッパ」


「パンダ」


「ダチョウ」


「う……うさぎ」


 子どものころと、何も変わらない言葉が、深夜のロータリーに一つずつ落ちていく。タクシーのヘッドライトが、ときどき二人の足元を照らして通り過ぎていく。


 はじめはただの時間つぶしだった。


 でも、三十分もすると、言葉の選び方に、その人が出はじめた。


 七瀬さんは植物の名前が多かった。「キンモクセイ」「ススキ」「ヒイラギ」。咲良が「植物、詳しいんですね」と言うと、七瀬さんは「実家が植木屋なんです」と答えた。


 咲良はなぜか食べ物ばかりだった。「たこ焼き」「肉じゃが」「卵焼き」。七瀬さんに「お腹すいてます?」と訊かれて、居酒屋でほとんど何も食べていなかったことを思い出した。お腹がぐう、と鳴った。


 七瀬さんは何も言わずに、ジャケットのポケットから飴を一つ出して咲良の手のひらに載せた。蜂蜜の、黄色い飴。


「……用意がいいですね」


「年に二回、終電を逃す男ですから」


 飴を口に入れると、甘さが舌の上でゆっくり溶けていった。


「……り、でしたっけ」


「り、です。蒼井さんの番」


「り、り……リュックサック」


「く……クリスマスツリー」


「また、り!」


 咲良は思わず声を上げた。七瀬さんが肩を揺らして笑っている。


「わざとですよね、今の」


「しりとりは、戦略ですから」


「じゃあ、わたしも。り……リコーダー」


「だ……だるま」


「ま……マトリョーシカ」


「か……カブトムシ」


「し……しりとり」


 言ってから咲良は口を押さえた。


 七瀬さんがベンチの背もたれから体を起こした。目を丸くして、それから、こらえきれないというように吹き出した。


「一周しましたね」


「しましたね……」


「じゃあ、僕は『り』から。……り、り」


 七瀬さんが考えこんでいるあいだに、ロータリーの向こうから、足音が近づいてきた。


 ふらふらとした、千鳥足の音。スーツの上着を片腕にひっかけた、五十代くらいの男の人だった。ネクタイが首から外れかけている。男の人は咲良たちのベンチの前で立ち止まって咲良の顔をのぞきこんだ。


「お姉ちゃん、終電なくした? 一人? おじさんとさ、そこの店で朝まで飲もうよ。おごるからさあ」


 酒の匂いがぷんと鼻をついた。


 咲良の体が固まった。


 声が出ない。断らなきゃ。でも、こういうとき、どう言えば相手が怒らないのか、とっさに分からない。


「――すみません」


 七瀬さんが立ち上がっていた。


 咲良と男の人のあいだに、すっと体を入れる。大きな声ではなかった。むしろ、穏やかな、のんびりした声だった。


「僕たち、今、しりとりの大事なところなんです。り、で止まってて。何か、『り』で始まる言葉、ありませんか」


 男の人がぽかんと口を開けた。


「……は?」


「り、です。何でもいいんですけど」


「り……りんご?」


「それ、最初に僕が言いました」


「じゃあ……りょ、旅館」


「あ、『ん』ですね。おじさんの負けです」


 七瀬さんはにこりと笑った。


「負けた人は、秘密を一つ言うルールなんですけど。……おじさん、奥さんに、今どこにいるって言ってあります?」


 男の人の目が泳いだ。ズボンのポケットで、スマホが震えているのが見えた。男の人はそれを取り出して、画面を見て青くなった。


「……やべ」


 男の人は上着を抱え直して、タクシー乗り場のほうへ、ふらふらと走っていった。


 七瀬さんは何事もなかったようにベンチに座り直した。


 咲良はまだ固まったままだった。膝の上で握った手が、細かく震えている。


「……ありがとう、ございます」


「いえ。しりとりを続けたかっただけです」


 七瀬さんは前を向いたまま言った。


「り、の続き。蒼井さんの番ですよ。おじさんが『旅館』で負けたから、仕切り直しで」


 咲良は震える手を膝の上でもう一度握り直した。


 それから、少しだけ笑った。


「り……リボン」


「あ」


「負けました。わざとです」


「どうしてですか」


「お礼に、秘密を話そうと思って。……さっき、怖くて声が出ませんでした。こういうとき、いつも出ないんです。断ったら相手が怒るかもしれないって思うと、喉が詰まって」


 七瀬さんはしばらく黙っていた。


「それ、秘密じゃないですよ」


「え?」


「だって、さっき、僕には見えてましたから。蒼井さんの手が震えてるの」


 七瀬さんはマフラーを口元まで引き上げた。


「だから、秘密は、別のをお願いします。もっと楽しいやつ」


 しりとりは続いた。


 二時を過ぎたころ、最初の負けが出た。咲良だった。「み」で回ってきて「みかん」と言ってしまった。


「あ」


「はい、蒼井さんの負け」


 七瀬さんがベンチの背にもたれてにやりと笑った。


 咲良は缶を握りしめた。秘密。何を話せばいいのだろう。今日の夕飯はほとんど食べていない、はさっきばれた。


 ロータリーの時計を見る。二時七分。


 口が勝手に開いた。


「……今日、元カレが結婚するって聞きました」


 七瀬さんの笑みが、すっと消えた。


「来月だそうです。職場の後輩と。わたしといると、自分がだめに思えるって言って去年出ていった人で。……それを聞いて、居酒屋のトイレで二十分泣いて、それで終電を逃しました」


 言ってから咲良はうつむいた。


 何を話してるの、わたし。初対面の人に。しりとりの罰ゲームで。


「すみません。重いですよね。もっと軽いのにすればよかった」


「いえ」


 七瀬さんの声は静かだった。


「だから、目が赤かったんですね」


 咲良は顔を上げた。


「最初に、ベンチに座ったとき。泣いてたんだろうなと思って。それで、自販機に行きました」


「……二本、間違えて買ったって」


 七瀬さんは答えなかった。前を向いたまま、マフラーを口元まで引き上げた。耳が少し赤くなっていた。


 咲良は手の中の缶を見た。もう、ぬるくなっている。


 間違えてじゃなかったのだ。


 胸の奥がきゅっと縮んだ。痛いのではなかった。温かいもので、縮んだ。


「……ずるいです、七瀬さん」


「何がですか」


「わたしだけ、秘密を話して」


「じゃあ、蒼井さんが僕を負かせばいい」


 七瀬さんが前を向いたまま言った。


「次。『ん』で負けたから、蒼井さんから。好きな字で始めていいですよ」


 でも、その次の言葉を言う前に、咲良は大きなくしゃみをした。


 二時半を過ぎて風が冷たくなっていた。ベンチの金属がスカート越しに太ももの熱を吸い取っていく。指先がかじかんでいた。


「コンビニ、行きましょうか」


 七瀬さんが駅前の白い明かりを指さした。


「イートインのカウンターがあったはずです。始発まであそこで温まりましょう」


 コンビニの自動ドアが開くと、暖房の風と、揚げ物とおでんの匂いがいっぺんに押し寄せてきた。咲良は思わず目を閉じた。体の芯まで冷えていたのが、ほどけていく。


 レジ横の保温ケースに、肉まんが二つだけ残っていた。


「肉まん、食べます?」


 咲良が訊くと、七瀬さんは財布を取り出しかけた。咲良はその手をそっと押さえた。


「わたしが買います」


「え、いや」


「缶コーヒーと、飴のお返しです。……それに」


 咲良はレジに肉まんを二つ置いた。財布から、なけなしの千円札を出す。


「わたし、いつも、誰かにしてもらってばっかりで。拓海と付き合ってたときも、ご飯もプレゼントも、全部向こうが決めて、わたしはありがとうって言うだけで。それで、咲良は自分のやりたいことがないよね、って言われたんです」


 店員さんが肉まんを紙に包んで渡してくれた。湯気が白く立ちのぼった。


「だから、今日は、わたしが買いたいんです」


 七瀬さんはしばらく咲良を見ていた。それから、財布をポケットに戻した。


「じゃあ、ごちそうになります」


 イートインのカウンターに並んで座ると、窓ガラスの向こうに、さっきまで座っていたベンチが見えた。街灯の下で、誰もいないベンチが、ぽつんと光っている。


 肉まんを半分に割ると、湯気と一緒に、生姜と醤油の匂いが立ちのぼった。一口かじると、熱い肉汁が舌を焼いた。


「あつっ」


「急いで食べるから」


「だってお腹すいてたんです」


 咲良ははふはふと息を吐きながら、もう一口かじった。七瀬さんが隣で小さく笑っている。


「……おいしいです」


「よかった」


「七瀬さんは、植木屋さんの息子なのに、どうして東京に?」


 七瀬さんは肉まんを持ったまま、窓の外を見た。


「父の剪定、見たら分かると思うんですけど。すごいんですよ。一本の松を、何十年もかけて一つの形にしていく。僕はそれが、こわかった」


「こわい?」


「一本の木に、一生かける覚悟が、なかったんです。だから、東京で、ビルの上に、すぐにできあがる庭を作ってる。……でも、最近、それもちょっと違う気がしてて」


 七瀬さんは窓の向こうのロータリーの花壇を指さした。


「ああいう、誰も気にしない花壇とか、見ちゃうんですよね。ここに、あの花を植えたら、毎朝通る人が、ちょっとだけ顔を上げるかもしれないなって」


 咲良は肉まんをかじるのを忘れて七瀬さんの横顔を見ていた。


「……それ、すてきですね」


「そうですか?」


「わたし、毎朝、駅まで下ばっかり見て歩いてるから。顔を上げたくなる花壇、あったらいいなって思います」


 七瀬さんがこちらを向いた。前髪の下の目が少しだけ見開かれていた。


「……蒼井さん、今の、秘密にカウントしていいですか」


「だめです。負けてないもん」


「ずるいなあ」


 二人で笑った。コンビニの店員さんが、レジの向こうであくびを噛み殺していた。


 三時少し前、二人はコンビニを出てベンチに戻った。体が温まったからではなかった。窓ガラス越しではなく、あの花壇の前で、しりとりの続きがしたかった。




 三時を過ぎると、ロータリーはしんと静まり返った。


 タクシーの列はもう誰もいない。車も来ない。駅前のコンビニの明かりだけが、白く光っている。遠くで、新聞配達のバイクの音がした。


 しりとりはまだ続いていた。


 咲良は二回負けて七瀬さんは一回負けた。


 七瀬さんの秘密は、「実家の植木屋を継がずに東京に出てきたこと」だった。父親とはそれきり三年、口をきいていない。今は造園の会社で、ビルの屋上庭園を作っている。


「父の剪定は、すごくきれいなんです。僕はまだ父の半分もできない。だから、帰れない」


 ぽつりと言って七瀬さんは黙った。


 咲良の二回目の秘密は、「本当は、デザイナーになりたかった」ことだった。美大に行きたかったのに、親に反対されて、普通の大学に行って、普通の会社の経理をしている。拓海に「咲良は、自分のやりたいことがないよね」と言われたとき、何も言い返せなかった。


「……あります、よね」


 七瀬さんが言った。


「やりたいこと。蒼井さん、ずっと、ロータリーの花壇を見てた」


 咲良は息をのんだ。


 見ていた。ロータリーの真ん中の、小さな花壇。コスモスと、マリーゴールドと、名前の分からない紫の花。色の組み合わせが、少しだけ惜しいと思っていた。紫の花をもう少し手前に寄せれば、オレンジがもっと映えるのに、と。


「どうして分かったんですか」


「僕も、見てたから。あの紫、サルビアなんですけど、置く場所が悪いなって」


 咲良は七瀬さんを見た。


 七瀬さんも、咲良を見た。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 それから、二人同時に吹き出した。


 ポケットの中でスマホが震えた。


 咲良は画面を見た。着信。表示された名前に、指先が凍った。


 拓海。


 午前三時十二分。別れてから一年半、一度もかかってこなかった番号。


 手が震えた。


 出なきゃいけない気がした。何かあったのかもしれない。酔っているのかもしれない。結婚の前に、何か言いたいことがあるのかもしれない。


 ――咲良といると、自分がだめに思える。


 震えるスマホを、咲良は握りしめた。


 隣で、七瀬さんが、ベンチから少し身を引いた。見ないように、聞かないように、顔をコンビニのほうへ向けている。


 その気づかいが咲良の背中を押した。


 咲良は通話ボタンを押した。


『……あ、咲良? ごめん、夜中に。今、飲んでてさ。みんなから聞いた? 俺、結婚すんだよ。なんか、咲良にだけは、ちゃんと言っとかなきゃと思って』


 酔った声だった。少し呂律が回っていない。


『咲良、怒ってる? 怒ってないよな。咲良はそういうの、平気な人だもんな。俺さ、咲良に、ほんとは……』


「拓海」


 咲良は遮った。


 自分の声が思っていたよりずっと落ち着いていた。


「結婚、おめでとう。でも、それはわたしじゃなくて、奥さんになる人に、ちゃんと言ってあげて」


『え、いや、咲良……』


「それから、わたし、平気な人じゃないよ。今日、トイレで二十分泣いた。でも、もう泣かない。……じゃあね」


 通話を切った。


 画面が暗くなる。暗い画面に、ロータリーの街灯が映っている。


 咲良は大きく息を吐いた。


 指先がまだ震えている。でも、胸の奥が、すうっと軽くなっていた。一年半、ずっと乗っていた重い石が、どこかへ転がり落ちていった。


「……すみません。お待たせしました」


 七瀬さんはコンビニのほうを向いたまま、言った。


「しりとり、どこまでいきましたっけ」


 咲良は笑った。目の端に、少しだけ涙がにじんだ。これはさっきとは違う涙だった。


「サルビア、です。七瀬さんが言いました」


 言いながら、咲良は肩を震わせた。寒さなのか、さっきの電話のせいなのか、自分でも分からなかった。


 ふわりと、首元が温かくなった。


 七瀬さんのグレーのマフラーが、咲良の首に巻かれていた。七瀬さんはもう前を向いている。何でもないことをしたという横顔で。


「……七瀬さんが、寒くなります」


「僕はさっき肉まんで温まったから」


「わたしも食べました」


「蒼井さんは、半分しか食べてなかったでしょう。残りの半分、僕にくれたじゃないですか」


 咲良はマフラーに顔をうずめた。


 ほんのりと、柔軟剤と、土の匂いがした。植木屋の息子の、匂い。


 ――気づいてたんだ。


 肉まんを半分残して七瀬さんに渡したこと。「お腹いっぱいで」と言ったけれど、本当は、七瀬さんが自分の分を急いで食べ終えて、物足りなそうに窓の外を見ていたからだった。


 この人は何でも気づく。花壇のサルビアの位置も、咲良の赤い目も、震える手も。


「マフラー、始発までお借りします」


「どうぞ。……あ、ちゃんと返してくださいね。お気に入りなんです」


「返します」


 咲良はマフラーの端を指でぎゅっと握った。


 返すためには、もう一度、会わなくてはいけない。そのことに、七瀬さんは気づいているのだろうか。


「じゃあ、蒼井さん。『あ』」


「あ……明日」


「た……竹とんぼ」


「ぼ、ぼ……星空」


「ら……ラベンダー」


 言葉がまた一つずつ、明け方前のロータリーに落ちていく。




 四時を過ぎると、東の空が、ほんの少しだけ藍色に薄まってきた。


 駅のシャッターの向こうで駅員さんが動きはじめた。明かりが一つずつ点いていく。始発まであと四十分。


 そのころには、咲良は、一つのことに気づいていた。


 七瀬さんが「ん」で終わる言葉を、わざと避けている。


 「み」で回ってきたとき、七瀬さんは少し考えて「みかん」ではなく「三日月」と言った。「ら」で回ってきたとき、「ラーメン」ではなく「ランドセル」と言った。簡単に終われるところで、いつも、少しだけ遠回りの言葉を選ぶ。


 終わらせたくないのだ。


 しりとりを。この夜を。


 咲良の胸の奥で、何かが、どくん、と大きく鳴った。


 ――わたしも。


 咲良も、さっきから、「ん」の言葉を避けていた。


 気づいてしまうと、胸の奥がそわそわして落ち着かなかった。


 始発が来たら、終わる。改札を通って、電車に乗って別々の駅で降りる。七瀬さんの連絡先を、咲良は知らない。七瀬さんも、咲良の下の名前さえ知らない。この四時間はロータリーの夜の中に置いていかれてそれきりになる。


 それで、いいのだろうか。


 拓海と付き合っていた三年間、咲良は、何かを自分から言い出したことがほとんどなかった。デートの場所も、旅行の行き先も、別れることさえ、拓海が決めた。咲良はいつも「いいよ」と言った。いいよ、と言っていれば、誰も困らない。誰も怒らない。


 でも、その「いいよ」の積み重ねで、咲良は、自分が何を好きなのか、分からなくなっていた。


 ――咲良は、自分のやりたいことがないよね。


 あった。本当はあった。言わなかっただけで。


 咲良はロータリーの花壇を見た。紫のサルビア。オレンジのマリーゴールド。夜明け前の青い光の中で、色が少しずつ戻ってきている。


 やりたいこと。今、この瞬間の、やりたいこと。


 この人と、もう少し話していたい。


 サルビアをどこに植えればよかったか、二人で言い合いたい。たこ焼きと肉じゃがと卵焼きの話をしたい。植木屋のお父さんの、松の話をもっと聞きたい。


 喉がきゅっと詰まった。いつもの、声が出なくなる感じ。断ったら相手が怒るかもしれない、ではなくて、言ったら相手が困るかもしれない、の詰まり方。


 咲良は膝の上の手をぎゅっと握った。


 だから、「ん」を避けた。言えないかわりに、終わらせないことだけは、選べた。


「……七瀬さん」


「はい」


「る、です。七瀬さんの番」


「る……」


 七瀬さんは黙った。


 駅のシャッターが、がらがらと音を立てて上がりはじめた。始発を待つ人がぽつぽつと集まってくる。


 七瀬さんはベンチから立ち上がった。咲良の前に立つ。マフラーのない首元が寒そうで、ジャケットの襟を立てていた。


「る……ルール違反なんですけど」


「え?」


「僕、今から負けます」


 咲良はまばたきをした。


 七瀬さんは前髪の下で少しだけ目を泳がせた。それから、まっすぐに咲良を見た。


「る……ルージュ、じゃなくて。……留守番電話、じゃなくて」


 言葉が出てこない。七瀬さんの手がジャケットの裾を握っている。


「……ルビーの、指輪。……違う。すみません。うまく『ん』で終わる言葉が出てこない」


 咲良は思わず笑ってしまった。


「七瀬さん、負けるの、下手ですね」


「ずっと、負けないようにしてたから」


 七瀬さんは一度、深く息を吸った。


「る、で始まって、ん、で終わる言葉。……やめます。言葉じゃなくて秘密のほうを先に言います」


 始発を待つ人たちの足音が、二人の横を通り過ぎていく。


「蒼井さんの、連絡先を知りたいです」


 朝の、冷たい空気の中で、七瀬さんの耳が真っ赤だった。


「ロータリーの花壇の話の続きが、したいです。サルビアを、どこに置けばよかったか。蒼井さんの意見が聞きたい。……あと、たこ焼きと肉じゃがと卵焼きの、おいしい店を知ってます」


 咲良はベンチに座ったまま、七瀬さんを見上げた。


 胸がうるさい。顔が熱い。四時間前、ここに座ったときは、世界でいちばんみじめな女だと思っていた。


 今は違う。


 咲良は立ち上がった。


 コートのポケットからスマホを出して七瀬さんの前に差し出した。画面に、自分のLINEのQRコードを表示して。


「しりとりの続き」


 咲良は言った。


「七瀬さん、『る』で止まってますよ」


 七瀬さんが目を見開いた。


「始発で帰ってちゃんと寝て。それから、次に会ったとき、続きをしてください。……ん、で終わる言葉は、禁止で」


 七瀬さんはしばらく咲良を見ていた。


 それから、自分のスマホを取り出して咲良の画面に向けた。ぴろん、と小さな音がした。


 咲良のスマホに、通知が一つ届いた。


〈七瀬奏多です。る、の続きは、考えておきます。マフラーは、そのときに〉


 駅のホームに、始発電車が滑りこんでくる音がした。


 東の空が薄い桃色に染まりはじめていた。ロータリーの花壇の紫のサルビアに、最初の朝日が当たった。


 咲良は改札へ向かって歩きながら、振り返った。


 七瀬さんがまだベンチの前に立っていた。手を上げかけて、下ろしてもう一度上げた。


 咲良も、手を振った。


 電車に乗ってから、スマホが、もう一度震えた。


〈ルール違反じゃなければ、る、の答えは「ルームシェア」にしようと思っていました。まだ早いから、取っておきます〉


 咲良は電車の窓に額をつけて声を殺して笑った。


 窓の外を、朝の街が流れていく。


 次の言葉は「あ」から始めようと思った。




(完)


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