第5話:戦闘メイドの「春の大掃除」
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【視点:リリアン・ヴェール】
3月26日。年度末の締め切りまで残り1週間を切ったこの時期、ギルドにはもうひとつの「嵐」が吹き荒れる。
例年、この日に設定されている「春の大掃除」だ。
窓の外では、ヒザクラが散り始めた花びらを風に乗せて、窓の隙間から執拗に室内に送り込んできている。
春の陽気は心地よいが、同時に冬の間に積もった埃や、乾燥した空気が運ぶ細かな砂が、ギルドの隅々にまで忍び寄っているのだ。
「――リリアン様。そこ、退いてください」
冷徹な声と共に、私の足元を銀色のモップが凄まじい速度で通り過ぎた。
戦闘メイド、ナネット・S・レアンドロス。28歳。
漆黒のストレートヘアを揺らし、一切の無駄がない動きで床を磨き上げる彼女は、今日という日においてはギルドマスター以上の権力を持つ「戦場の支配者」となる。
「ナネットさん。その棚の書類はまだ整理中よ。勝手に廃棄リストに入れないで」
「期限の切れた羊皮紙は、可燃性の埃を呼ぶだけのゴミです。……あ、そこのバルカスさん。足跡がつきました。指を3本、詰めたいのですか?」
入り口付近で立ち尽くしていた戦士のバルカスが、悲鳴を上げて飛び退いた。
ナネットの手に握られたモップは、時折、鈍い銀光を放つ。あれが単なる掃除道具ではなく、特注の合金で作られた重兵装であることを知っている者は少ない。
ギルド内は、ナネットの指揮の下、パニックに近い状態になっていた。
解体所からはハンスさんとトビー君が運び出した巨大な魔獣の骨が並べられ、食堂ではボロス料理長が「掃除の邪魔だ!」とナネットに追い出され、外の広場で「春の炊き出し」を強制されている。
「リリアンさん、助けてください! ナネットさんが私の大事な『恋占いセット』を、不燃ゴミの山に……!」
ウェイトレスのミアが泣きついてくるが、私は彼女を無視して、次々と運び出される備品のリストをチェックし続けた。
ナネットの掃除は、単なる美化活動ではない。
彼女は、このギルドに潜む「淀み」を物理的に排除しているのだ。
それは不衛生な埃であったり、賞味期限の切れたポーションであったり、あるいは、冒険者たちが持ち込む「負の感情」の残り香であったりする。
私は、ナネットがゴミの山へ放り込もうとした古い鉄の箱に目を留めた。
錆びついたその箱には、2階の主任室にあるものと同じ、クラウディア主任の古い紋章が刻まれていた。
「ナネットさん。それはゴミじゃないわ。……主任に届けておきなさい」
ナネットは手を止め、無機質な瞳で私を見た。
彼女は一瞬だけ、その箱を検分するように見つめた後、小さく頷いた。
「……了解しました。リリアン様、あなたのポケット、昨日に比べて15グラムほど軽くなっていますね。無駄なものを処分したようで、何よりです」
ドクン、と心臓が跳ねた。
昨日の「手紙」の件だ。彼女は、私が規約違反をして遺族に手紙を届けたことを、ポケットの重さの変化だけで察知している。
私はアクアマリンのピアスを1回撫で、平静を装った。
「掃除と同じよ。重すぎる荷物は、歩みを鈍らせるだけだから」
「……その通りです。リリアン様」
ナネットはそう言うと、再び戦場――もとい、ホールの清掃へと戻っていった。
◇◆◇◆◇
【視点:ナネット・S・レアンドロス】
掃除は戦闘である。
敵は埃。敵はカビ。敵は秩序を乱す全ての汚れだ。
私は、戦場の最前線でモップを振るう。
この石造りの建物には、毎日何百人という人間が出入りする。彼らが持ち込む砂や泥、そして獣の血。それらを放置すれば、この場所はすぐに腐敗し、ギルドとしての機能を失うだろう。
平和とは、誰かが守り、磨き続けなければ維持できない虚像だ。
かつて私が身を置いていた血生臭い戦場に比べれば、この掃除という戦いは、なんと報われることだろう。磨けば磨くほど、世界は確実に輝きを取り戻す。
「……ナネット、少しは休憩しろ。ほら、ボロスが作った『桜鯛のつみれ汁』だ。外で食ってこい」
ギルドマスターのクリフォード様が、書類の山から顔を出して震える声で仰った。
私は彼を一瞥する。
「マスター。あなたの机の下に、3年前の菓子パンの包み紙が1枚、執念深く潜伏しています。それを殲滅するまで、私の戦闘は終わりません」
「ひっ、すみません!」
マスターを追い出し、私はリリアン様から預かった小さな鉄の箱を手に取った。
クラウディア主任の古い持ち物。
中には、色褪せた1枚の写真と、小さな魔石の欠片が入っていた。
写真は、若き日の主任とマスターだろうか。今よりもずっと尖った目をした主任が、不器用そうに笑っている。
私はそれを主任室の机に置き、再び1階へ降りた。
受付カウンターでは、リリアン様が再び「鉄の女」として冒険者を捌いている。
彼女は、このギルドで最も「綺麗」な人だ。
それは容姿のことではない。彼女の仕事の流儀に、一点の曇りもないことを私は知っている。
昨日の夕方、彼女が市場でユージンという名の書士と接触していたことも、私は影から確認している。
それはギルドの警備対象外の私事だが、彼女がその恋人との時間のために、驚異的な速度で事務処理を終わらせている姿は、一種の武芸に近い。
リリアン様が、時折、地下のアンリと噂されているのは滑稽な話だ。
彼女が本当に心を許している相手は、この不潔なギルドの中にはいない。
だからこそ、彼女はここで誰よりも完璧でいられるのだろう。
「ナネットさん! トビーがまた解体所で大きな骨をひっくり返しました!」
新人のエリスが叫んでいる。
私はモップを構え直し、無表情のまま地を蹴った。
「――殲滅します」
春の風が、開け放たれた扉から吹き込み、磨き上げられたばかりの床に桜の花びらを1枚置いた。
それは今日という日の、唯一許される「汚れ」だった。
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【視点:リリアン・ヴェール】
夕刻。ギルド全体が、ナネットの手によって新築のような輝きを取り戻していた。
空気中の埃は一掃され、石畳は滑りそうなほどに滑らかだ。
外では「掃除お疲れ様会」として、ボロス料理長のつみれ汁が振る舞われ、冒険者たちが春の宵を楽しんでいる。
私はカウンターの引き出しを整理し、自分だけの「大掃除」を終えた。
ナネットが言った「15グラムの軽減」。
それは昨日のカイルの手紙のことだ。
彼女は私の秘密を知っている。けれど、彼女はそれを「汚れ」とは見なさなかった。
プロの仕事場には、時に隠し事も必要だ。
けれど、その隠し事が組織の腐敗に繋がらない限り、私たちは互いの聖域を守り続ける。
それが、この個性豊かな職員たちが集まる「中規模都市支部」が、崩壊せずに機能し続けている理由なのかもしれない。
「リリアン様。裏口の清掃完了。……ユージン様が、いつもの場所で待機しています」
ナネットが通り過ぎざま、誰にも聞こえない声で囁いた。
私はアクアマリンのピアスを整え、完璧な微笑を浮かべる。
「ありがとう、ナネット。……さあ、明日のために、今日は早く帰りましょう」
磨かれた床に、私の靴音が軽やかに響いた。
【リリアンのプロな流儀】
「完璧な秩序とは、一粒の埃も、一分の隠し事も、適切な場所に配置されている状態を指す。それができて初めて、窓口は明日を迎える準備が整うのだ」
(第5話:完)
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