第3話:アンティーク地図と図書室の密会
◇◆◇◆◇
【視点:アンリ・デュプレ】
地上では年度末の喧騒が吹き荒れているようだが、地下の図書室に届くのは、配管を伝ってくる微かな振動と、3月末の冷えた空気だけだ。
私は25歳にして、この墓場のように静かな場所を、誰よりも愛している。
カビた羊皮紙の匂いと、微かな沈丁花の香りが混じり合う。おそらく、2階の窓から入り込んだ春の気配が、階段を伝ってここまで降りてきたのだろう。
「――アンリさん。例のものは?」
重い扉が静かに開き、背筋をピンと伸ばした女性が入ってきた。
受付カウンターでは「鉄の女」と恐れられているリリアン・ヴェールだ。彼女は周囲を警戒するように一度背後を確認すると、素早く鍵をかけた。
他人から見れば、これは「密会の合図」以外の何物でもないだろう。だが。
「こちらです。昨日、中央図書館に勤めている知人が、特別に複写を許可してくれた『北海未踏海域図』の断片ですよ。彼も稀覯本には目がなくてね。この写しを手に入れるのに、最新の魔導書目録の情報と引き換えにさせられました」
私が机の上に広げた古い地図の写しを見た瞬間、リリアンの目がアクアマリンの宝石のように輝いた。
彼女はプロの受付嬢としての「仮面」を、床に投げ捨てんばかりの勢いで剥ぎ取る。
「……っ、これ、これよ! この海岸線の曲線を見て! 当時の測量士は間違いなく、『霧の岩礁』を避けるために北回りの航路を選択しているわ。ああ、この空白地帯! ここにはきっと、古代の交易路が眠っているに違いないわ……!」
リリアンは鼻息を荒くし、地図に顔を擦り付けんばかりにして見入っている。
彼女と私は、地図オタクとしての「同志」だ。
図書館の知人は「僕の恋人は本当に穏やかで、おしとやかで、地図を眺めるのが好きな可愛い女性なんだ」とデレデレしながらノロけていたが、目の前で地図の等高線に対して猛獣のような興奮を見せているこの女性を見ていると、世の中には色んな「地図好き」がいるものだと思う。
知人の彼女がこれほど過激でないことを願うばかりだ。
「アンリさん、ここ! この座標にある『名もなき島』の記載、昨日の古文書と照合すると……」
「ええ、一致しますね。おそらくは……」
二人の声が重なり、狭い図書室に異常な熱気が満ちる。
外では春の嵐が桜を散らしているだろうが、私たちの心には、未踏の地の激しい嵐が吹き荒れていた。
◇◆◇◆◇
【視点:サーシャ・ヴォルコフ】
1階の酒場『銀の匙』は、年度末の打ち上げで盛り上がる冒険者たちの怒号と、ジョッキの触れ合う音で溢れかえっている。
私――サーシャ・ヴォルコフ、21歳。ウェイトレス歴3年。
注文された「春の山菜エール」を運びながら、私は人差し指で銀縁眼鏡をクイッと押し上げた。
「……ねえ、ハンスさん。今日もリリアンさん、定時になった瞬間に地下に消えていったわよ」
解体主任のハンスさんは、カウンターの端で、まかないの「ジャガイモのバター煮」を黙々と食べている。ハンスさんはリリアンの母、ルネさんが送ってきたジャガイモを「この粘り気がいい」と絶賛している。
「それがどうした。あの嬢ちゃんは仕事熱心だからな。記録の整理でもしてるんだろ」
「甘いわね、ハンスさん。地下には、あの色白で病弱そうなアンリさんがいるのよ。二人は鍵をかけて、もう1時間も出てこないんだから。……あれは絶対に、地下室での禁断の社内恋愛よ!」
私はトレーを胸に抱き、自分の妄想に酔いしれた。
あの完璧で冷徹なリリアンさんが、事務仕事の合間に地下へ逃げ込み、アンリさんと狭い図書室で密やかに愛を育んでいる……。
ああ、なんて不謹慎で素敵な響きなのかしら!
「トビー君なんて、リリアンさんのこと『仕事と結婚してる』なんて信じてるけど。教えてあげたいわ、春の嵐は外だけじゃない、地下室でも社内恋愛の熱風が吹き荒れてるのよ、って」
「サーシャ、妄想はほどほどにしろ。客が呼んでるぞ」
ハンスさんに呆れ顔で言われ、私は慌ててテーブルへと向かった。
でも、確信している。
リリアンさんがときどき見せる、あの頬の紅潮と輝くような瞳。
あれは仕事への情熱なんかじゃない。恋を知る女性の顔だ。
……相手が、あのモヤシみたいなアンリさんだっていうのが、私の妄想の唯一の難点だけど。
◇◆◇◆◇
【視点:リリアン・ヴェール】
図書室から1階へ戻ると、酒場の熱気に押し流されそうになった。
私は階段の踊り場で立ち止まり、深く呼吸をして、剥ぎ取っていた「プロの仮面」を再び装着する。
酒場の入り口で、サーシャが私を見て眼鏡をクイッと上げた。
その視線には、隠しきれない好奇心と「分かってますよ、社内恋愛中なんでしょ」というニヤつきが混じっている。
……どうやら、今回も上手くいったようだ。
私がアンリと地下で密会しているという噂は、もはやギルドの公認だ。
正直に言えば、誤解されるのは本意ではない。
だが、この「地下室での社内恋愛」という誤解があるおかげで、しつこい冒険者の誘いや、トビー君の熱すぎる視線を適度にシャットアウトできている。
本命のユージンとの穏やかな関係を守るには、これほど都合のいい「盾」はない。
アンリも、静かな環境を守るためにこの噂を放置しているのだから、まさにウィンウィンの関係だ。
仕事を終え、夜の市場でユージンと合流した。
鞄の中には、アンリが「図書館の知人」から手に入れたという地図の写しが入っている。
今夜、これを見せれば、彼もきっと驚くだろう。
「リリアン、今日は君にプレゼントがあるんだ。中央図書館の蔵書整理で見つけた、珍しい『春の植物図譜』の写本だよ。地図もいいけど、たまには花の話でもしようか」
「……あ、ありがとう。素敵ね」
ユージンが差し出した美しい図譜に目を奪われているうちに、鞄の中の地図を出すタイミングを逃してしまった。
ユージンが図書館で仕事をしているからこそ、私の秘密の趣味もこうして理解してもらえる。
本当に、彼は私の「仕事」の世界とは無縁の、かけがえのない理解者だ。
アンリの「知人」がどんな人物かは知らないが、おかげで私の地図収集は捗り、その趣味をユージンが支えてくれる。
職場と、私生活。
二つの世界が完璧に分離されているからこそ、私は明日も完璧な受付嬢としてカウンターに立てるのだ。
――春の夜風は、どこまでも心地よかった。
自分の足元で、複雑に絡み合った人間関係の糸が、一本の太い綱になっていることなど、私は露ほども知らずに。
【リリアンのプロな流儀】
「プロの受付嬢は、情報を隠匿するだけでなく、時に『正しい誤解』を流布することで、真に守るべき聖域を死守するものである」
(第3話:完)




