第1話:桜舞う窓口、戦場へようこそ
◇◆◇◆◇
【視点:リリアン・ヴェール】
石造りのギルドホールの重い扉が開くたび、春の陽気に温められた風が、淡い桜の花びらを連れて舞い込んでくる。
この街を彩る「ヒザクラ」は、その名の通り陽光を浴びると火が灯ったような鮮やかなピンクに染まる。風流だ、と詩人なら歌うところだろう。
だが、受付カウンターの内側に座る私にとって、それは「掃除担当の戦闘メイド、ナネットさんの手間を増やす不法侵入者」でしかなかった。
「――はい、次の方。ライセンスの更新ですね」
私は淡々と事務用ペンを走らせ、カウンター越しの男を冷徹に見据えた。
男の名はバルカス。31歳。中堅のCランク戦士だが、腕っぷし以上に酒癖の悪さとルーズな金銭感覚で知られている。
「バルカスさん。去年、あなたはゴブリンの群れから逃げる際にギルド備品の盾を3枚紛失し、その補填費が未精算のままです。規定に基づき、1年間の延滞利息5パーセントを加算します。元本400ゴールドに利息20ゴールド、計420ゴールド。今ここで払いますか? それとも地下の解体所で主任のハンスさんの手伝いをして、肉体労働で返済しますか?」
「……げぇっ、利子なんて聞いてねえぞ! 頼むよリリアンちゃん、そこをなんとか……」
「『ちゃん』ではありません。リリアン・ヴェール受付嬢です」
私は予備の羊皮紙を1枚、音を立てて机に広げた。
「逃げられると思うほど、私はお人好しではありません。3日後の『春の芽吹き祭』の正午までに全額を現金で納入するか、あるいは今この場で、今後1ヶ月間の報酬の3割をギルドが直接差し押さえるという特約条項付きの契約更新書類にサインしてください。……どちらにしますか?」
バルカスは「ううっ……」と喉の奥で唸り、逃げ場を失った獣のような目で書類と私を交互に見た。数秒の葛藤の末、彼は震える手で羽ペンを取り、乱暴に署名し、重い溜息と共にカウンターに突っ伏した。
「……はい、受理しました。3ヶ月後の再審査まで、酒場でのツケは禁止です。次の方」
絶望に打ちひしがれる彼を流し、次の事務処理へと移る。
3月後半から4月にかけて、冒険者ギルドは1年のうちで最も殺気立つ。
気温は20度近くまで上がり、ホール内は人の熱気と、どこか春特有の埃っぽさが混じり合っている。
私は完璧にアイロンをかけた制服の襟元を正し、アクアマリンのピアスを指先で1回撫でた。これは、私の集中力を切り替えるための儀式だ。
「リリアンさん、流石の捌きですね……。バルカスさんが蛇に睨まれたカエルのようでした」
隣の窓口で、新人の受付嬢エリスが目を丸くしている。22歳の彼女は規則至上主義の優等生だが、まだ「現場」の泥臭い交渉術を知らない。
「あ、そうだ。リリアンさん。ボロス料理長が、先ほど春限定の『ルミネ草の塩マフィン』を焼き始めたそうですよ。すごくいい匂いが食堂から漂ってきてて……。私たちも休憩時間に……」
「エリスさん」
私は彼女の言葉を、冷ややかな視線で遮った。
「勤務中に菓子パンの話を持ち込むのはおやめなさい。ここは戦場であり、あなたのその不用意な発言1つが、並んでいる冒険者たちの規律を乱すきっかけになります。お腹が空いている暇があったら手を動かして。あなたの前に並んでいる3人の新人登録を3分以内に終わらせなさい。終わらないなら、あなたのマフィンは没収です」
「ひっ、はい! 申し訳ありません! 3分ですね!」
エリスが慌てて羊皮紙を広げる。
私は小さく溜息を吐いた。……本当は、私だってそのマフィンが食べたい。
ルミネ草の若芽はこの時期しか採れない。恋人のユージンが言っていた。「春の苦みは、冬の間に鈍った思考を叩き起こしてくれる」と。
今夜、彼と市場で待ち合わせている。
定時までにこの山積みの書類を「正確」かつ「迅速」に片付ける。
それが、1人の女性としての私を勝ち取るための、受付嬢としての戦いだ。
◇◆◇◆◇
【視点:トビー・ピックフォード】
ギルドの奥にある解体所は、表の華やかさとは無縁の場所だ。
血の匂い、獣の脂の匂い、あるいは鉄の匂い。
俺――トビー・ピックフォード、18歳。解体師見習いになって3ヶ月。
今日も俺は、解体主任のハンスさんの横で、春先に活発になったワイルドボアの皮を剥いでいる。
「ハンスさん、外はもう桜が満開らしいっすよ。市場じゃ桜鯛のムニエルが始まったって、食堂のミアさんが言ってました」
「トビー、手が止まってるぞ。脂を傷つけるな。……それと、外を見る暇があるなら、窓口の方でも見てろ。あっちの方がよっぽど見応えがあるぞ」
ハンスさんがスキンヘッドを光らせながら、無骨な指先で受付カウンターの方を指差した。34歳のハンスさんは元冒険者で、その腕の太さは俺の腰くらいある。
解体所の入り口からは、ちょうどリリアンさんの横顔が見える。
「……うわぁ、また誰かを追い詰めてる」
思わず、俺の動きが止まった。
リリアンさんは、まさに「戦う女神」だった。
春の柔らかな日差しが、受付窓口のステンドグラスを透かして、彼女の亜麻色の髪を虹色に縁取っている。
バルカスさんのような荒くれ者が、1枚の紙きれを前に唸り声を上げて降参している。そして、新人のエリスさんに何か厳しい指導をしているようだ。エリスさんは泣きそうな顔で震えながら、猛烈な速さでペンを動かしている。
乱れ1つない夜会巻きの髪、そして完璧な姿勢。
彼女がアクアマリンの瞳で書類を睨むたび、俺の胸はオークに殴られたみたいに熱くなる。
「リリアンさん、今日も格好いいなぁ。あんなに完璧に仕事をこなす人、他にいませんよ。新人にまで一切の妥協を許さない。きっと、あの方は俺たちみたいなガキが恋だの愛だの浮かれてる間も、世界の秩序を守るために戦ってるんだ……」
「まあ、そう見えるわな」
ハンスさんが鼻で笑った。
俺は本気だ。
あんなに気高く、仕事に殉じている人が、誰か特定の人間に甘える姿なんて想像もできない。
噂じゃ、地下の図書管理のアンリさんとデキてるとか言われてるけど、ありえねえ。アンリさんはただのオタク仲間だ。リリアンさんのような「プロの極み」に、そんな俗っぽいスキャンダルは似合わない。
「よし! 俺もいつか、リリアンさんに認められるくらいの解体師になってやる! そして、『今日の納品書、完璧よトビーくん』って、あの冷たい唇で言わせてみせる!」
俺は鼻の下をごしごしと擦り、気合を入れて包丁を研ぎ直した。
外の桜がどれだけ綺麗だろうと、俺には関係ない。
俺にとっての春は、あのカウンターで完璧な事務処理をこなす、リリアンさんの姿そのものなのだから。
◇◆◇◆◇
【視点:リリアン・ヴェール】
夕刻、最後の1人を送り出し、私は静かにペンを置いた。
ギルドホールの喧騒が、食堂から漂う「桜エビのアヒージョ」の香ばしい匂いに取って代わられる。
「リリアン様、お疲れ様です。……お耳のアクアマリン、少し斜めになっています」
いつの間にか背後にいた戦闘メイドのナネットが、無表情に指摘した。28歳の彼女はギルドの警備と清掃を1人でこなす「最強のメイド」だ。
私は慌ててピアスを直す。
「……ありがとう、ナネット。集中しすぎていたわ」
「ボロス料理長の塩マフィン、1袋、リリアン様の机の引き出しに入れておきました。クラウディア主任の指示です」
「……っ」
私は声にならない声を上げ、思わず引き出しを少しだけ開けた。そこには紙袋に包まれた、まだ温かな春の香りが詰まっていた。
ナネットは無表情のまま、1つだけ頷き、去っていった。
窓の外、夜の帳が下りる街に、昼間よりもずっと鮮やかなヒザクラが夜目に浮かび上がっている。
私は引き出しから大切にマフィンを取り出し、鞄にしまった。それから、恋人ユージンへの贈り物――中央図書館の書士である彼が欲しがっていた、春限定発行の『新装版・植物誌』を取り出した。
さあ、仕事は終わりだ。
ここからは、誰の目も、どんなカタログのデータも届かない私の時間。
私はもう一度、受付嬢としての「鉄の微笑み」を鏡で確認し、ギルドの扉を開けた。
【リリアンのプロな流儀】
「プロの受付嬢は、春の浮ついた風に流されない。だが、その風が運ぶ1瞬の『変化』を見逃さない者だけが、冒険者の命を守ることができる」
(第1話:完)
あとがき
第1話ご覧いただきありがとうございました!
複数の一人称で描くという独特な描き方にチャレンジしてみました。
一見地味な冒険者ギルドという裏方の世界ですが、冒険者たちを支えるプロフェッショナルたちの視点から異世界ファンタジーを見つめたら、というコンセプトから生まれたファンタジーです。
この世界観が好き、という方はぜひブクマと★で応援お願いします!
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