第15話:市場の密会、ユージンの眼鏡の奥
◇◆◇◆◇
【視点:リリアン・ヴェール】
4月の第3日曜日。
ギルドの制服を脱ぎ、亜麻色の髪をほどいて柔らかなシフォンブラウスに身を包む。鏡の中の私は、どこからどう見ても「地図が好きなだけの、少し地味な事務員」だ。
窓の外、春の陽光が石畳を温め、市場からは活気ある売り声が聞こえてくる。
今日はユージンとの貴重な休日デート。1分1秒の無駄も許されない。私はアクアマリンのピアスを揺らし、愛用の革鞄を手に取った。
「お待たせ、リリアン。今日も素敵だね」
噴水広場で待っていたユージンが、いつもの穏やかな微笑みで私を迎えてくれる。
この瞬間、私の脳内にある『冒険者カタログ』は一時停止し、代わりに『ユージンとの幸福指数最大化プラン』が起動する。
「ううん、私も今来たところよ。さあ、行きましょう」
私たちは手を繋ぎ、賑わう市場へと足を踏み入れた。
焼きたてのパンの香り、色鮮やかな春野菜、そして人々の笑い声。平和そのものの風景。
だが、その平穏は、私の「軍師としての本能」が告げる警告音によって一瞬で引き裂かれた。
(前方30メートル、八百屋の角――。あの巨大な質量と、騒々しい声。間違いない、料理長ボロスと解体見習いのトビー君だ!)
私の身体が、思考より先に反応した。
(事象:同僚との予期せぬ遭遇。深刻度:特A。原因:ボロスの気まぐれな仕入れルート変更。解決策:……隠密行動による完全回避)
「リリアン? どうしたんだい、急に立ち止まって」
「あ、ユージン。……あっちの路地裏にあるアンティークショップ、昨日新しい地図が入ったって聞いたの。急ぎましょう!」
私はユージンの手を引き、絶妙な角度で死角へ滑り込んだ。
人混みの流れを読み、荷馬車の通過タイミングを遮蔽物として利用し、ボロスの視線が反対側の肉屋に向いた刹那に最短経路で路地へ。
かつて魔王軍の斥候網を潜り抜けた時と同じ、ミリ単位の無駄もない歩法。
息を切らすこともなく、私は「平和な恋人」の顔を維持したまま、追っ手を……ではなく、同僚を振り切った。
◇◆◇◆◇
【視点:ユージン・ラクロワ】
リリアンに引かれるまま、私たちは迷路のような路地裏を抜けていた。
彼女は「地図が見たい」と言ったけれど、今の彼女の動きは、単なる散歩のそれではない。
人混みのわずかな隙間を縫うように歩き、角を曲がる時は必ず一度だけ視線を走らせる。その身のこなしは、驚くほど効率的で、無駄がない。
まるで、目に見えない「敵の視線」をすべて把握しているかのような……。
「……ふぅ。ここなら大丈夫ね」
辿り着いた静かなカフェのテラス席で、リリアンは小さく息を吐いた。
彼女は「偶然見つけたお店だけど、素敵ね」と微笑んでいる。
だが、私は気づいてしまった。
先ほど市場を全速力で横切る際、彼女は一度も足元を見ていなかった。それなのに、凸凹した石畳や飛び出した看板、急に駆け出してきた子供を、すべて「予見」していたかのように、流れるような動作で避けていたのだ。
アンリが言っていた「うちの受付の化け物じみた有能さ」という言葉が、不意に脳裏をよぎる。
(まさか。リリアンはただの事務員だ。……でも、今の「隠密移動」は、熟練のスカウト(斥候)でもこれほど鮮やかにはできないだろうな)
彼女は今、楽しそうにメニューを眺めている。
そのアクアマリンの瞳に宿っているのは、冷徹な戦略ではなく、純粋な好奇心だ……そう信じたい。
「ユージン? 私の顔に、何かついてる?」
「……いや。リリアンは本当に、不思議な人だなと思ってね。地図が好きだからかな、道に迷わないどころか、一番いいルートを直感で選べるんだね」
私はあえて深く追求せず、眼鏡の奥で微笑んだ。
愛とは、知っていることを隠すこと。
彼女が隠したがっている「何か」があるのなら、私はそれを暴くのではなく、彼女が「ただのリリアン」でいられる時間を、全力で守ってあげたいと思う。
「そうよ、ユージン。私はいつだって、あなたへの最短ルートを選んでいるつもりだわ」
リリアンは少しだけ顔を赤らめて言った。
その言葉に嘘はないのだろう。ただ、その「最短ルート」の選び方が、戦場を支配する軍師のそれであることには、気づかないふりをしておこう。
【リリアンのプロな流儀】
「プロのプライベートは聖域である。たとえ同僚であっても、その境界線を越えさせるわけにはいかない。愛する人の前で『平凡な自分』であり続けるためには、持てるスキルの全てを駆使して、日常という名の戦線を維持しなければならないのだ」
(第15話:完)
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