第10話:三月の終わりに、最敬礼を
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【視点:リリアン・ヴェール】
3月31日、16時。
カレンダーの最後の一枚が、春風に捲られようとしている。
ギルドホールは、文字通り「沸騰」していた。4月1日からの新年度を控え、新しい装備を自慢し合う者、遠征の契約を急ぐ者、そして故郷へ帰るための清算を行う者。人々のそわそわとした熱気が、石造りの壁に反射して、私のカウンターまで押し寄せてくる。
今日は特別体制だ。通常4つの受付窓口に加え、特設の5番窓口が設置されている。
そこには、普段は2階で采配を振るっているはずの主任、クラウディアさんが座っていた。
「――はい、次の方。あら、その傷なら冒険者保険の適用内よ。書類の3枚目にチェックを入れて。……はい、お次!」
紅蓮の髪を揺らし、元・金級冒険者の覇気を漂わせながら、クラウディアさんは私以上の速度で書類を捌いていく。エリスも、そして今日が最後となるフィーナも、額に汗を浮かべながら必死にペンを動かしていた。
5つの窓口がフル稼働する光景は、事務方にとっての「最前線」そのものだ。
「――はい、次の方。清算ですね。端数の5銅貨、次回の依頼保証金に充当しておきます」
私は1秒も手を止めず、1枚の羊皮紙を処理した。
この喧騒の中にいると、時折、自分という人間が消失していくような感覚に陥る。私はリリアン・ヴェールという女性ではなく、膨大なデータを処理し、冒険者の生殺与奪を数字で管理する「第一窓口の歯車」そのものになっている。
それでいい。いや、それがいいのだ。
「便利な装置」でいれば、誰かに心を土足で踏み荒らされることもない。かつて、私の熱意や知識がただの「資源」として搾取され、心が摩耗しきったあの頃に比べれば、この鉄の仮面はどれほど私を安らげてくれることか。
「……リリアンさん。今日で、私の研修も終わりです」
隣の窓口で、地方研修生のフィーナが、鼻を真っ赤にして私を見つめていた。
彼女は1ヶ月の研修期間を終え、明日には故郷の小さな分会へと戻る。
「挨拶なら、17時の鐘が鳴ってからにしなさい。今はまだ、あなたの前には3人の冒険者が並んでいます。彼らにとって、あなたの感傷など知ったことではありません。……手を動かして」
「ううっ、最後まで厳しい……。でも、ありがとうございました!」
フィーナは涙を袖で拭い、猛烈な勢いでペンを走らせ始めた。
私はその背中を横目に、自分のデスクの奥に隠した小さな箱を指先で確認した。
研修を終えた彼女への、私なりの餞別だ。
中身は、私が今着けているものと全く同じ、アクアマリンのピアス。
「備品管理のミスで余ったものです。捨てようと思いましたが、あなたの髪色には合うかもしれませんね」という、偽りのメモを添えて。
お揃いの石を身に着けていれば、彼女がいつかまた壁にぶつかった時、この「戦場」で学んだプロの矜持を思い出してくれるだろうか。
(あと、1時間。この地獄を終えれば、私は再び、あの人の隣で『ただのリリアン』になれる)
その期待が、私のペン先をさらに加速させた。
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【視点:ユージン・ラクロワ】
夕暮れの街は、4月を待つ人々の喧騒で溢れていた。
中央図書館での仕事を終えた私は、アンリとの待ち合わせ場所へ向かう途中、ふと足を止めた。
視線の先には、街の象徴とも言える冒険者ギルドの重厚な建物がある。
ちょうどその時、ギルドの正面玄関から1人の冒険者が吐き出されるように出てきた。扉の隙間から、カウンターの奥に座る「彼女」の横顔が、一瞬だけ見えた。
亜麻色の髪。アクアマリンの瞳。そして、特徴的な左耳のピアス。
外見的特徴を並べれば、それは私の恋人、リリアンに他ならない。
「……いや、まさか」
私は自分の考えを即座に打ち消した。
そこにいたのは、5つの窓口が並ぶ戦場の中心で、機械のような精密さで書類を捌き、冒険者を氷のような眼差しで射抜く「冷徹な執行官」だった。その立ち姿からは、慈悲も、迷いも、そして私が愛しているあの柔らかな温もりも、1ミリも感じられない。
リリアンは、休日の朝、地図の上を歩く虫を逃がしてやるような優しい女性だ。
あんな風に、剥き出しの戦場の一部として、感情を殺して笑うことなどできるはずがない。
(やはり、アンリの思い違いか。魂の質が違いすぎる……)
私はそう結論づけ、視線を外した。
明日からは4月だ。リリアンと、新しい季節の訪れを祝う計画を立てている。彼女が「職場のストレス」を口にすることはないけれど、せめて私の前では、あの穏やかな微笑みを絶やさずにいてほしいと願うばかりだ。
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【視点:リリアン・ヴェール】
17時。
3月最後の鐘が鳴り響いた。
「研修終了です。フィーナさん、これはあなたの私物整理の中に紛れ込んでいたものです。二度と忘れ物をしないように」
私は事務的に小さな箱をフィーナに渡し、彼女が箱を開けて「えっ、これ、リリアンさんの……!」と叫び出す前に席を立った。
背後でフィーナが「リリアンさん、大好きですー!」と泣き喚いているのが聞こえたが、私は振り返らない。それが、去りゆく者への私の最敬礼だ。
無人のカウンター。私は静かに深く一礼した。
この1年間、この窓口で守り抜いた命と、処理した膨大な記録。
それらを誇りに思いつつ、私は心の中で「鉄の仮面」の鍵を外した。
17時5分。
私は完璧な姿勢でギルドの扉を開け、夜の街へと踏み出した。
アクアマリンのピアスが、新年度を祝う街の灯火を受けて、誇らしげに揺れている。
「お疲れ様、リリアン。今日も大変だったかい?」
いつもの場所で待っていたユージンが、優しく微笑んで手を差し出した。
私は彼の掌に自分の手を重ね、一人の「恋する女性」としての顔を、ようやく取り戻すことができた。
「ええ、少しだけ。……でも、もう大丈夫。3月は、これでおしまいですから」
明日になれば、また新しい嵐が吹くだろう。
けれど、この温もりがある限り、私はまたあの窓口に座ることができる。
【リリアンのプロな流儀】
「3月は別れの季節ではない。次に来る春の嵐に備え、自分という存在を完璧に整理するための期間である。そして、プロが最後に敬礼を捧げるのは、守り抜いた秩序と、自分を待つ大切な人の笑顔である」
(第10話:完)
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