第二章 贰
布団をひっくり返し、机の下を覗き、部屋にある隙間という隙間を探しても、本は最初からそこになかったかのように出て来なかった。私物ならまだしも、借り物であるからなおさら困った。中身を読み切っていない以前に返す事ができないのでは流蝶に申し開きが立たない。
だいいち置いた場所を覚えているほど記憶ははっきりしているから、奇天烈な術で隠されない限り消失など起こり得ない。掃除をしに来た女中が勘違いで返却したのかとも思ったが、机には新しく五冊積まれている。枕元の本だけ回収するだろうか。入れ違いになっただけだとしたら、こうして考察をしている時間は無意味である。
流蝶は仕事が立て込んでいて今夜は食事で会うことはない。本人に告白する前に確認しておこうと、伝言に訪れた女中に暁蕾は尋ねた。
「あたしが留守の間に誰か部屋を掃除した?」
女中は心当たりがないようだった。他の者にも聞いてみると言って下がってしまったが、結局その女中は就寝の刻限になっても報告に戻って来ることはなかった。
屋敷は静かだ。屋敷だけでなく深淵は水に沈められた都と呼ぶに相応しいしじまに満ちている。絶え間ない静けさに暁蕾は不安になる。一人で夜を過ごした日は数え切れないほどあるが、虫の音も届かない闇には慣れていなかった。
淵の手は震えていた。預言を受けた衝撃は想像を超える深い絶望があったことだろう。抗いようのない脅威によって滅びていく郷を見せつけられて平静でいられる人はいない。暁蕾は身を持って体験している。けれど彼の絶望はきっと彼にしかわからない深みがあるのだろうとも思う。慰めはしなかった。共感で痛みを分けられるなんて幻想だ。
布団を肩までかけなかったせいか、手が微かに震えていた。頭で覆い被さって握り込み、闇の中で丸くなる。
今一度ここにいる理由を考える。自分ができる唯一を証明するために、導き手である天帝に従ってがむしゃらに走って来た。厄災を止めるために、地宵郷の救済から始めて行くと決めた。
成すべきことを成せば、必ず人々は自分をかけがえのない存在として認識してくれる。そう信じて、突き進むしかない。
止まることは許されないのだから。
◐ ◐ ◐
深淵に朝はない。灯籠魚が目覚めて仄かに明るくなった頃が起床の時間となる。水時計によると卯時の時刻らしいが日によって異なるのだそうだ。とにかく明るくなれば起床し、その日のうちにやるべき仕事を成せば多少ずれがあっても気にならない。よって待ち合わせに遅れるのも郷民共通の習慣であるというのを、今日をもって暁蕾は学んだ。
のんびりと門の下を潜り、こちらに向かって手を上げる中肉中背の男がいる。一見するとどこにでもいる邑の住民だが、しっかりとした足取りと後ろで手を組む隙のない立ち姿は、道士の師としての貫禄がある。
「ぼうっとしてどうしたんだ。眠いのか?」
「寝た気がしないし起きた気もしない。太陽を浴びていないから時間の感覚が狂いそう。もう既に外が恋しい」
「そんな際に座ってたら落っこっちまうぞ。廟の周りは特に神聖だからな」
「わかってるよ。触れたら駄目なんでしょ。暇だから花を眺めてただけ。本当に暇すぎて摘んじゃおうかと思った」
「嬢ちゃん、怒ってるのかい」
暁蕾は立ち上がり、顎をつんとあげた。
「そうだよ。丑時の初刻に集まろうって約束したのにもう正刻を過ぎてる! 往復したから時間は把握してるんだよ。郷の危機だっていうのに呑気すぎるんじゃない?」
「おお、おお。すまなかったな。でもいいことを教えてやろう。水時計は常に正確ってわけじゃない。だからわしが今が丑時と思ったら丑時になるんだ」
がはは、と白は豪快に笑う。待ちくたびれて怒る気にもなれない。彼の欠伸する姿を拝む日は一生来ないだろうと悟った。昼を回っているのもあるが顔に浮腫みがなくすっきりとしている。昨夜はよく眠れたようで何よりだ。
「怖くないの。白さんは」
預言については改めて説明をしたため白もこれからどんな禍が降りかかるかは理解している。覚悟していたはずの暁蕾ですら快眠とはいかなかったのに、彼は至って精悍で乱心する素振りもない。昨日もすこぶる驚いて多少の動揺は見られたが、別れ際にはいつもの調子に戻っていた。
白は教え子を諭すように二度頷く。
「あなたたちはともかく預言はわしらがどうこうできる範疇にない。確かに恐ろしいが、この地が終わりを迎えるならわしはそれに従うまでだ。自然に還るのは流転の中にいる生き物の定めよ」
「あなたみたいに落ち着いていられる人、初めて見た」
天空では生を渇望し、泣き叫ぶ声で溢れていた。人はいざ今際の際に立たされると本能的にしぶとくなる。死を恐れて生きようと懸命にもがく。生物としての正しい反応だ。彼も際に追い込まれれば、平常時の研ぎ澄まされた思想は問答無用に剥ぎ取られ、剥き出しの本能が晒されるのだろう。
「なぁに、君子の受け売りだ」
「気流を安定させて郷が完全な守護を受ければ、禍から逃れられる。預言は単なる予知ではなくてあたしたちに向けた警告と啓発なんだと思う。そうじゃなきゃわざわざ干渉してまで知らせてきたりしない。あたしは使者としてあなたたちを絶対救うから」
白は目を細めて笑う。
「嬢ちゃん、いや暁蕾様はとても頼もしいお方だ。淵様も同じくらいの自信を持ってもらいたいんだがな。体を鍛えても根が暗いのは変わらん」
「淵は、声をかけても返事がなくて。行動する気分じゃないだろうし今日はそっとしておいた方がいいのかも」
「そうだと思ったよ。ま、仕方ない」
暁蕾は水面に咲くやや透けた花弁を持つ花を眺める。
「易者はどうしてた?」
「あいつは神出鬼没だからいたりいなかったりするが、昨日は一度も見なかったな。占ってほしそうな人がいたらいつの間にか現れて祠廟の前で商売を始める。やっぱり思い返すほど奇妙なやつだ」
「水そのものにはお清め以上の特別な効能はなさそうだったけど、他のみんなは同じものを飲んでも異変に気づいてないんだよね」
「実は見てもらいたい水が別にあってな」
「え?」
「昨日のあれはもう一つの水と比べてもらうために持って来たんだ。藍氏が利用する水はそれこそ加護の濃度が段違いだろうからな。うちの味を知ってから試してほしかった」
「もう一つの水はどう違うの?」
「易者は占った相手に杯を配る。どこから汲んだかもわからん壺から陰の氣を取り込んだとか言ってな。人を集めて振る舞ったりしていたから邑のもんはほとんどそれを飲んでる」
「見張ってないと持って来るのは難しそうだね。できれば早いうちに淵に見てもらいたいけど」
ちょっと待て、と白が手招くように指を動かす。
「郷の危機だって言っておきながら続ける気かい」
むしろ暁蕾はその気でしかなかった。
「この際怪しいと感じたものは手当たり次第調べておきたいの。ちょうど邑の信仰がどうなっているか気になってたし、気流の流れを観察したら救済の手がかりが見つかるかもしれないから、あたしでよければ邑に行くよ」
「暁蕾様も水を見れるのか」
「陽の氣との相性はよくないからなんとも言えないけど、やれることはやっておかないと」
「なら、案内しよう」
そう言って白は背中を向けた。しかし門に差しかかったところで、わざとらしくため息を吐いて立ち止まる。
「ついて行くのか行かないのか、はっきりせんか」
白につられて振り向くと、香炉の後ろからぬっと人影が伸びた。出て来たのは妖ではなく、辛気臭い顔をした淵だった。
「隠れてたの? こっそりしてないで混ざればよかったのに」
上背のある彼が裏でばれないように縮こまっていたのかと思うと、つい笑ってしまいそうになった暁蕾だったが、語頭の声を上擦らせるだけにとどめた。
駆け寄った暁蕾を前に、淵は猫背気味の姿勢で跳ねた髪を撫で付ける。
「来てくれたのに無視してしまったから……、悪かった。俺も、行かせてくれないか」
「長く空けてたら誰かに気づかれない?」
「夕餉まで人なんて来ない。戻る時に気をつければどうにかなる」
色々と葛藤があったのだろう。けれど決断して自分の意思で出てきてくれたのが、暁蕾は嬉しかった。
じゃあ行こう、と袖を引いて白の元に向かう。呆気なく門を通り抜け、水上に伸びる足場へと歩を進める。
淵は胸を撫で下ろし、小さくも頼もしい後ろ姿に礼を言った。
◐ ◐ ◐
白が普段使いしている小ぶりの舟に三人で乗り込み、行き専用の穴から半刻ほどかけて東に上った。地宵郷には四つの邑があり、それぞれの間にある三本の溝が境界の代わりとなっている。廟と邸宅のある区域とは違い地下水を引いて辺りを満たし、飲み水と分けることで霊水を再現しているという。
穴を抜けて岩に挟まれた門が見えたところで桟橋に舟を寄せ、その後は壁沿いの道を徒歩で移動した。こちらにも舟があるが白の住む朔邑は外回りに入る方が早いのだそうだ。
暁蕾は頭上を仰ぎ見る。低い天井に提灯の飾りが門から連なり邑の奥まで続いている。
「祭りは確か三日後だったかな。姉上が準備があるからしばらく来れないと言ってたし」
「流蝶様とはよく会うの?」
「毎日朝餉を持って来てくれるからその時に、昨日会ったことや仕事の話を聞いてる。ずっと籠っていると周りが変わっても気づけないからな」
「そうなんだ。流蝶様って優しいよね。困った時には味方になって助けてくれるし、地宵郷のために献身しているからいつも忙しくされてて」
淵は困ったような悲しいような、どちらともとれる微妙な笑みを作る。
「優しいとは、思う。でも背負い過ぎてるとも思う。他にまともなやつがいないから自分がしっかりしないといけないって、責任を感じているんだ。勝手に押し付けられたことを何でも真面目にやりすぎる。いつか過労で倒れるだろうな」
「そんな他人事みたいに、」
言いかけて、暁蕾は口を噤んだ。
「他人事として、聞いてるからな」
長らく外との繋がりが途絶えてしまえば、いくら話を聞いても自分のこととして受け止めるのは難しい。淵はそう言いたいのだろう。たとえ家の事情でも、食事を共にして意見を交わす経験をしてこなかった。遠く離れた地で異なる生活をしていたのとそう変わらない環境で、同じ慣習を持った同族として出来事を共有されても、それだけで当事者にはなれない。
「この時期のお祭りってどんな感じなんだろう。羅瓣郷だと地域によってはあるみたいなんだけど、あたしは見たことないんだよね」
「建亥月は陰の氣が強まる始まりの月だから、ここにとっては春節と同じくらい重要な祭事だな。羅瓣郷も北や西の方では陰の氣に属する氣が流れているから地帝に祈りを捧げる檀があるって──確か師匠が言ってたんだよな」
なあ、と淵が前方に声をかけると、返事のついでに「もうすぐ着くぞ」と白が仕草をした。
「死者があの世で寒い思いをしないように魄の数だけ灯籠に火をつけて水に浮かべるんだ。儺のための興も邑を一周して、舟をくっつけてみんなで歌いながら漕ぐ。それが十四日も続くんだってさ。郷全体が賑やかになるな」
「ならあたしたちも参加しなきゃね。そんなに大事なお祭りなら淵が来てくれたら地帝も絶対喜ぶよ。使者こそ祭事に積極的に関わって行くべきなんだから。主役じゃなくても盛り上げに貢献して然るべき!」
「ええ、地帝はそんな単純な性格ではないだろ。会ったことはないけど」
「うちは宴会がたくさんあって御酒を供えると喜んでくれるよ。天にある魂を楽しませるためにあるように、魄を慰めるためにお祭りはあるんでしょ?」
「それもそうだな。行くことに意味がある」
邑に入ると心なしか明るくなった気がして、暁蕾は何となしに目線を上げた。
短い悲鳴を上げ、横にいた淵にぶつかった。
「いって! 何だ?」
「信じらんない大きさの虫がいるんだけど!」
入り口に設置された円錐型の籠の中には蛍火が入っているかと思いきや、それのひと回りもふた回りも、いやそれ以上にとにかく規格外な大きさの虫が腹から光を放っていた。これほどのものは地上ですら遭遇したことがなかった暁蕾は腰を抜かしそうになった。小さな生き物には慣れているが、地上の昆虫は足が気持ち悪くて苦手なのだ。早足で白の側まで逃げると笑って肩を叩かれる。
「あれは提灯蛍っていう蛍の中でも大型でな、小さいやつより強い光を放ってくれる便利なやつだ。足元までよく見えるだろ?」
帰りは直視しないようにしようと暁蕾は心に決めた。だがそんな気持ちは切り開かれた空間に出た途端、波にさらわれるようにして消えた。
闇で覆われていると思われた邑は、そこかしこが青白く浮かび上がり、煌めいていたのだ。




