第一章 肆
「姉上、少しいいか」
突然の珍客が重い沈黙を破った。
流蝶と同じ髪色の長髪をひとつにまとめ、神経質そうに撫で付ける細身の男が部屋に入る。無言で振り返った暁蕾たちを不気味がってか、少し身を引いた。
しかし流蝶を二度見した途端顔色を変える。
「お前、姉上に何を言った? 泣いているじゃないか」
急に睨め付けられた暁蕾は仰け反る。
「ええと、あの。ぎゃ⁉︎」
「気丈な姉上が人前で泣くなんてよっぽどだ。姉上の前にまずお前と話をしなければね。さあ立て。外に出るんだ」
「誤解なんですけど!」
暁蕾は腕をむんずと掴まれる。初対面だというのに無遠慮である。
「助けて流蝶様〜!」
「やめなさい。大切なお客様よ。態度を慎みなさい」
男は素直に手を離すが、皮肉げな口調で言う。
「今日新顔が来るなんて聞いてないけれどね。いつ側仕えを雇ったんだ」
「子墨」
「叶暁蕾です」
さすがにむっとした暁蕾は、背筋を伸ばして堂々と立ち上がった。
「天帝を祖とする天晨郷から参りました」
「──暘谷使者とは、驚いた。これはすまない。ここの服を着ているからわからなかったよ。その目は確かに、馴染みのない色彩だ。そんな偉大なる暘谷使者が遠路はるばる参ったわけを、説明してくれるかな、姉上」
「申し訳ないけれど、後にしてもらえる? 今大事な話をしているの」
「まさか、うちの事情を漏らしてるんじゃないだろうね」
子墨は強かに細めた目を横に流す。目線の先は符籙である。
「使者だろうと何だろうと部外者に話すのはよくないな。彼女が外で言いふらせばこの家は大恥をかくどころじゃない。一家もろとも取り潰しだ」
「使者だからこそよ。私にはできなかったことをこの子ならできる」
「は。天から今更代わりを連れて来てどうにかなるとでも? もう遅いさ。地帝は私たちから離れてしまった」
「子墨、いいから出て行って」
不服そうに鼻を鳴らし、扉に手をかける。
「祭りの日までそう遠くない。ご自分の役割をお忘れなく」
再び二人きりになり、それぞれ困った顔のまま見合わせた。
「弟が失礼したわ。あの子も昔構ってやれなかったから、あの通りひねくれて育ってしまって。私にも憎まれ口しか叩かないのよ」
すれ違いざまに「使者風情が」と罵られた気がするが、暁蕾はあえて言うまいとした。
「お祭りがあるんですね」
「そうなのよ。まったく。休んでいる暇がないわ。でも暗い地中を明るくするには郷が賑やかでないといけないから、ここは毎日のようにお祭りをやっているの」
「どこも静かですから、行事があれば民も元気になりますし、何より地帝も喜ばれるはずです」
「そうだといいんだけど」
流蝶は憂いを帯びた息を吐く。
「お疲れではありませんか。最近お忙しいんですよね。休んだ方がいいんじゃ」
「大丈夫よ。まだあなたに伝えたいことがあるから。もう少しだけ付き合ってくれる?」
「使者だからこそできること、ですか」
「ええ。ここからは私個人のお願いとして聞いて」
符籙を持ち上げ、流蝶は改めて暁蕾に差し出す。
「私の代わりに、地帝のご意志を汲み取ってもらいたいの」
「あたしがですか」
暁蕾は反射的に受け取ってしまう。気軽に受け渡しができるようなものではないのだが、突き返してしまうのもそれはそれで失礼な気がして、それと流蝶を交互に見ることでしか抵抗を示せなかった。
「宣託がなくなってから信仰は明らかに廃れてしまった。さっき話したことも含めて、地帝はかなりお怒りのはず。皆の心を取り戻すにはもう一度、祖の声を届けないといけないわ」
「あくまであたしは天帝の使者です。地帝の文字も読めないのに声が聞けるかどうか」
「試してくれるだけでもいいの。廟へ通って、霊符を使ったり占いをしてみたりしてもいい。私は結局、気流を読めるほどの高みには来られなかったから。あなたなら私には感じられなかったものも感じ取れるはず」
暁蕾が迷っていると、心情を察してか流蝶は続けて言う。
「あなたにもやることがあるのはもちろんわかっているわ。だから私もあなたに協力する。欲しい情報があれば何でも言って。厄災のことも、一緒に考えましょう」
あと、と流蝶は胸の前で手を握る。
「それを淵に渡して、同じように試してもらって」
「これ、あなたが渡さなくていいんですか」
「あの子の立場を奪ってしまったのに、なんて事ないかのように返してしまうのも違うから。元々それは、淵のものよ。大変な目にあって来たあなたに頼ってしまって申し訳ないと思ってる。でも、あなたしかいないの」
自分よりも背が高く、年上の大人びた彼女の中に、暁蕾は初めて幼さを感じた。机を挟み、縋るように小首を傾げて前のめりになる流蝶の哀れなほどの孤独感。期待の眼差しは淵のそれとは少し色の異なるものだが、満更でもない気持ちになってくるのが不思議だった。
「わかりました。ならさっそく、一ついいですか」
「もちろん」
「二帝五麟に関する神話と、厄災について記述のあるものをできる限り集めて欲しいんです」
流蝶は了承し、ようやく安心しきったように微笑んだ。
◐ ◐ ◐
浅い水色の衣の上に桃色の上衣を重ね、冴えた天色の腰巻き、膝から下を柔らかな絹で覆い、小さな靴を履く。
流行りと伝統を組み合わせた着こなしで、暁蕾は綺麗になった衣装を鏡越しに眺める。
こびりついた土や血の汚れ、食べ物のしみなど、取れないだろうと思っていたものがすっかりなくなって新品同様の仕上がりになっている。ついでにほつれや裂け目も縫い合わせてくれたらしく、これも跡がわからないくらいだ。ここの女中たちは素晴らしい技術を持っているようである。
暁蕾は屋敷を出て、廟へと伸びる道を歩く。
女中曰く、地宵郷の水は特別な水質をしているそうだ。郷全体に張る水は、人間が生まれるよりも遥か昔に起こった大洪水の後に、濁らず洞窟に溜まったものが今日まで残されているという。地帝の霊気が濃く浸透しており、如何なる穢れも洗い流し、邪を祓うのだ。
地下水も霊気の効果で聖水と化すため、民は日常的に利用して恩恵を得ている。
けれど廟の下──地帝廟の最深部から溜まり広がる、常に人々の足元にある水は、決して触れてはならない。
古くからある禁忌だ。
急勾配の階段は長かった。よく駆け上がれたものだと暁蕾は思う。
小さな戸の前で腰を屈め、手で探る。灯りを持って来なかったのは失敗だった。まだ暁蕾はここの暗さに慣れていない。
金具で引っ掛けて施錠されている。まずは軽く叩いてみた。
「誰だ」
「あたし。遅くなってごめん」
「暁蕾!」
声が近づく。
「大丈夫だったのか?」
「流蝶様に会って色々とお世話になったの。それでちょっと話したいことがあるんだけど、入ってもいい?」
「いや、やめたほうがいい」
「駄目なの?」
「父上に知られたらまずい。会ったならわかるだろ」
「こんなところで喋ってると声が響いちゃうからそっちの方がまずいよ。渡したいものもあるのに」
「え、何だ」
「あまり大きな声では言えないなぁ、でも許可がないと開けられないし、見てくれないと説明もできないんだよねー」
無言の駆け引きの間、四滴の雫が落ちた。
「……開けてくれ」
絞り出した声は何とも不服そうだった。
戸を引くと、予想と一寸も違わない顔があった。思わず吹き出してしまう。
「藍淵が出なければいいんでしょ。あたしが勝手に入ったことにすれば問題ないよ」
「あるだろ。お前が怒られるんだぞ。そもそも俺の部屋にいる時点で……ああいや、それを省いても父上は身内だろうと容赦がない人だ。どんな罰を受けるか考えただけでも恐ろしい」
暁蕾は狭い入り口に体を滑り込ませ、短い階段を一息で降りる。相変わらずの質素な内装だったが、本の山は元通りに整頓されていた。
「その時は飛んで逃げるよ。藍淵も見たでしょ。あたしは結構身軽なの」
「なんか、前より元気になってないか?」
「たくさん寝て食べさせてもらったしね。やるべきこと何も果たせていないから急がないといけないの。それで、」
さっそく本題に入ろうとした暁蕾だったが、淵が何か言いたそうに視線を彷徨わせている。
「あの、さ」
「うん?」
「藍淵じゃなくてさ。淵て呼んでくれよ」
「藍氏の子息だってあの時は知らなくて」
「あえて言わなかったんだ。俺はただの淵だから。別に不都合はないだろ」
彼の言わんとすることはわかる。氏名で人を呼ぶのは基本だが、本人が望むのならこだわる必要はないだろう。
「わかった。流蝶様から聞いたんだけど、淵は虞淵使者なんだよね」
「……姉上が、そう言ったのか?」
淵の緩みかけた眉頭に力が入る。
暁蕾は懐から符籙を出した。
「なんだ、それ」
「符籙。使者の証明書みたいなもの」
淵は恐る恐る受け取り、日記を見返すように躊躇いなく紙を捲る。
「字図ばっかりだな。いや、文字もあるけどこれは霊言か何かか? 暁蕾は読めるか」
「わあ! こっちに見せないで。それは持ち主にしか閲覧権限ないから!」
「あ、悪い。忘れてくれ」
鍛えられた反応速度で直視は免れた。受けるはずだった教えを受けられていないのだから、きちんと教えてから渡すべきだった。
「今日から肌身離さず持ち歩いてね。本当は第三者が触るのも穢れがつくからよくないんだけど。中の字図は地帝が生み出したもので、陰の氣を使った仙術が二十四種載ってる。あたしのと同じならね。そこに書かれてる霊符を作る時は、人に見られたら効果がなくなるから気をつけて」
淵は複雑な面持ちで冊子を閉じる。過去の遺物を扱うように指先だけでつまむ。
「何で今になってこんなもの。姉上は俺が霊符を作れないのをわかってるくせに」
「元々返したいと思ってたみたいだったよ。表向きの虞淵使者を名乗っていたから、簡単に手放せなかったんじゃないかな」
「どう、だろうな。罪悪感か、最後の頼みで奇跡を起こすのを待ってるのかもしれない。この間の近況報告で幽鬼の浄化に骨が折れたって言ってたんだ。地帝の力が弱まってるんだろうな」
「淵は、地帝の声を聞いたことはある?」
床を見つめながら、ゆるゆると首を振る。
「ない。あるわけがない。俺は虞淵使者なんかじゃないんだ。俺の存在はなかったことになってる。だから霊力を養う機会が得られなかった。使者に相応しい力は十年以上の修行でやっと届くかってくらいだ。でもさ、まだ三年なんだ。仙術の基礎だけでこれだけかけたのに霊符も満足に書写できなくて。たぶん俺は、才能がないと見破られていたんだ。だから早いうちに隠蔽された」
「それは違う。地帝が選んだのはあなただよ。人が何を言おうと関係なく虞淵使者は唯一無二。簡単に代替できるものじゃない」
「でも、皆姉上で満足してる。だから父上も俺を出そうとしないんだ」
淵はすり足で机に向かい、背中を丸めて座る。なるべく小さくなるように縮こまる。自分は無用の長物だと言わんばかりに。
「あたしは必要だと思ってる。使者なくして郷は栄えない。地帝によって受け継がれてきたものが人によって変えられてしまうなら、そもそも宣託であなたが選ばれる意味がない。あなたが受け継いでいる以上は地帝に逆らっても誰も郷を守れない」
「父上たちは道を外れた。俺にできることはない」
暁蕾は物悲しそうな背中に投げかける。
「淵は、悔しくないの。本来なら敬われて大切にされるはずだったのに蔑ろにされて。理不尽だって思わないの」
「どうだろうな。そう思ったこともあったかもしれない。昔はよく脱出して母上に会いに行こうとして叱られていたし、退屈すぎて戸を何度も壊して誰かが来るのを待ってた。父上はその度に怒り狂って、殴ったり飯を抜いたりでかなり辛いやり方で罰したんだ。いたずらするほど損をするから、だんだん抵抗する気もなくなった。そのうちどれだけ泣いても喚いても人が来なくなって、無駄なんだってわかってから、一気に冷めた」
淵は書き写しの途中だった紙の端を掬う。ささやかな積み重ねの痕跡を他人事のように眺める。
「今は、そうだな。ただ虚しいんだ。ここで息を吸っていることに何の価値があるのか。この空間で完結する人生に何かを成す意味はあるのか。存在するべき理由がどこにもない死人みたいだなって、思うんだ。まるで幽鬼だな。外に出てもすぐに食われるだろうけど。そこらの人間とそう変わらないから」
「ならもし、あたしが外に出してあげるって言ったらどうする」
振り返った淵は、唖然としていた。
「何言ってるんだ?」
「あたしなら幽鬼を一人で相手にできるよ。上にある森で散々な目に遭ったんだから。意識も朦朧として体力も底をついていたけど生き残った。あなたを連れて行くくらいなんてことない。死ぬまでここに留まりたいの?」
淡々とした喋りで淵は気づかなかったが、見上げた暁蕾の面には、怒りが浮かんでいた。
「出して、くれるのか」
「符籙が返って来たのは好機だよ。地帝の声が届くようになれば陰の氣を操る術が見つかるかもしれない。あなたが足りないのは霊力じゃなくて通交。儀式をして来なかったから繋がりがほとんどない状態になってる。符籙にある霊符を扱うには結びつきを強くしないといけないの。地帝の加護さえ取り戻せば、あなたは自由だよ」
「俺が無能だとしても、賭けられるか」
暁蕾の真っ直ぐな瞳が淵に突き刺さる。
「あたしは暘谷使者。あなたの存在意義はあたしで補完する」
天色の天幕が、暗雲を薙ぎ払った。




