第一章 叁
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暁蕾は寝台の上で目を覚ました。
時刻はわからない。ここは地帝の箱庭であり、陽の傾きによって刻限を知る手段はない。
具合が悪そうな暁蕾を流蝶はかなり心配して、食事を持ち寄ったり医師を呼んで看てもらったりとできる限り尽くしてくれた。苦い薬湯を飲みながら地宵郷についての話も聞かせてもらったが、ぼんやりとしていたせいか、寝て起きた時には何も覚えていなかった。ただ薬湯の効果があったのか、体が少し楽になっていた。腐った豆のような匂いが印象的だったが、どんな調合をしたのだろう。
医師の診断では過労ということで、眠りに効くというお香を焚きながら、さらに一日部屋に閉じこもり、食っては寝を繰り返した。そうしているうちに、二日も経ってしまっていた。
指を組んで腕を上に伸ばし、左右に体を傾けて筋肉を伸ばす。足をそれぞれ両手を使って丁寧にほぐし、立ち上がって軽く屈伸する。繋ぎ目に痛みがないか確かめて、深呼吸をした。安静に過ごすうちに息苦しさはなくなった。気流の流れが読めるようになったからだ。
この地には陰の氣が流れている。気流は三國郷を囲む一つの輪となって流れているもので、上への引力を持つ陽の氣と下への引力を持つ陰の氣、そして二つの流れを結ぶ五つの氣によって生命の消長は起こっている。
真反対の場所で生きていた暁蕾に地宵郷の引力が合わないのは当然だ。
「早いのね。まだ寝ているかと思っていたのに」
髪を整えていると、流蝶が訪ねて来た。後ろには女中が数人控えていて、朝食が運ばれて来る。小さな机いっぱいに料理が並べられ、流蝶は向かいに座った。
「さ、一緒に食べましょう」
暁蕾は短い時間で親身に接してくれた彼女とすっかり打ち解けた。
聞きたいことはあるだろうに余計な詮索をせず、何でもない話をして、ただ体を気遣ってくれたのが純粋に嬉しかった。どんな贅沢なもてなしよりも心が休まった。
川魚の蒸し焼きと少し硬い黄色の米を交互にほおばり、地下植物の和物、貝の汁物などにも手をつける。知らない食材に知らない味付けばかりだが、くどくないからいくらでも食べられてしまう。食事量は以前の量に戻っていた。
「驚いたわ。暁蕾がこんなに食いしん坊だったなんて。淵もお腹を空かせると大皿を三枚も食べてしまうのよ」
「私の故郷の料理はどれも味が濃くて、いつも大皿一枚半で満足してしまうんですけど、ここのは薄味で味わいがいがあるからつい止まらなくなっちゃって。魚がこんなに美味しいものだと知っていれば旅でも喜んで掴み取りしたのに」
「ふふ、お転婆な子。天空には魚がいないというのは本当みたいね。でもそこらの川から採っても骨が多かったり臭みが強かったりするでしょう」
「はい。なので最初は食べられるものだとも思いませんでした」
「うちは漁業に力を入れているから珍しい品種がたくさんあるの。骨ごと食べられるものや透明なもの、あと光る魚だったり」
「光る魚?」
「天井を見てみて」
言われた通りにして暁蕾は喉が詰まりかけた。天井には一面に網目の粗い布が張られており、それは長く天井を見つめていたから知ってはいたのだが、改めて見ると、何やら顔らしきものと目があった。
平べったい体を布の上にのっぺりと広げ、特に動くことなく柔らかい光を部屋に注いでいる。それが何十匹もいる。
「太陽の光がない代わりに、微量の光でも体内に溜める魚を灯りの代わりにしているの。ああ、安心して。ほとんど動かないから落ちて来ることはないわ。頭に落ちたとしても首が折れるほど重くはないから」
暁蕾は精一杯の苦笑いで返した。
「聞くまでもないでしょうけど、今日の体調はどう?」
「おかげさまでこの通り元気ですよ。あたしが未熟なせいで流蝶様にはご迷惑をかけてしまいましたが」
「そんなに恐縮することはないわ。先に失礼なことをしたのはこっちの方。父は、少しおかしいから。代わりに私から謝罪させて」
暁蕾は慌てて器を置いて手を振った。
「頭を上げてください。あたしもあの時いっぱいいっぱいで、何が何だか、よくわかっていないんです。まともに術も使えずに、敵らしきものも逃してしまいましたし」
「あの黒い泥の正体は不明のままね。念のため門衛や衛兵に頼んで周りを警戒してもらっているけど、怪しい物体は見つかっていないわ」
「ええ。でも、それ以外でも……」
口ごもる暁蕾に、流蝶は頷いて見せる。
「構わないわ。何でも聞いて。できる限り答えるから」
暁蕾はほっとした。頭の中にはいくつもの質問が浮かんでいたが、踏み込んだ質問になるのは承知していたから訊くに訊けなかった。関係のない立場で尋ねても誤魔化されてしまうと思ったのだ。
暁蕾は居住まいを正す。
「藍淵のことですが、彼は虞淵使者で間違いないんですよね」
「そうよ。同じ時期に宣託が下り、使者が生まれるという預言通り、あなたと同じ日に生まれた。正真正銘の虞淵使者」
胸の内に、重たい石が積まれる。
「それがどうして、あのような……廟の地下に、閉じ込めるようにして」
彼は本来、粗末な扱いを受けるような立場ではない。仙人を目指し道士になる人は多くあれど、郷の祖に認められ霊符を授かる者は一世代にたった七人だけだ。祖が吐き出す氣の守護と管理は、祖が作ったとされる特別な札一枚に託されている。氣を操るということは、郷の運命を背負うに等しい。そのため元々やんごとなき地位にありながら、使者は宗主よりも優遇されることがしばしばある。
それが普通だというのに、淵は全く逆の扱いをされている。優遇どころか、人の目を憚るように奥へと押し込められている。
「生まれた時からこうだったんですか」
「いいえ。七つになるまでは、私たちと同じ屋根の下で暮らしてた。でも、理由はあなたが知っている通りよ」
推測するまでもない。その普通を味わえなかった当事者が暁蕾なのだ。
「私と彼は、取り違えて生まれてしまったのだと、誕生してしばらくの間世間を騒がせていたそうですね」
最初の使者が選ばれてから先代まで、虞淵使者は女の道士、暘谷使者は男の道士が代々その任を任されてきた。人々はそれを陰の氣は女が、陽の氣は男が最も強く共鳴するものだからだと解釈していた。
それ故に今代で法則が覆された衝撃はいかなるものであったかは想像に難くない。
民は今代の使者に不安を覚え、あらゆる憶測を並べた。災いが起こる凶兆なのではないか、天帝が、地帝が我々を試そうとしている、何者かが呪ったのだ、この子どもに果たして使者が務まるのか、仙人にすらなれないのではないか。
物心ついた頃から祭祀などの行事で大衆の前に出る度、あらぬ噂や批判が耳に入った。幼い頃には意味を理解できなかったが、皆は郷の行く末を案じていたのだ。予想外の事が起こると、人はどうしても原因があって然るべきとしてそれを求めてしまう。
「幽鬼が頻繁に出るようになった時も、使者の力不足を疑われて門前で大規模な抗議がありました。前から人前に気安く出ないよう言われていたので、修行場所を山に変えて、正式に霊符を授かるまで、ずっと篭っていました」
けれど、淵の境遇はそれと似ていたとは思えない。
「彼は札を一枚作るのも大変だと言ってました。使者なのに、修行をしていないんですか」
「していたわ。途中までは」
流蝶の儚げな相貌に曇りが差す。香色の髪が頬にかかった。
「でも、そうね。色んなことがあったのよ。色んなことがありすぎて、どう話たらいいのか」
彼女の心情は当時の背景を思うと察するに余りある。批判の目を向けられるのは当事者だけでなく、その家族にもかかる負担は大きい。
「ごめんなさい、無理してお話しなくてもいいんです。お互い大変だったのは事実ですから」
「いいえ。きっと話せるのは今しかないから。聞いて欲しいの。ずっと、誰かに話せたらと思ってた。あなたにしか、言えないことなの」
やがて空になった皿を女中が片付け、甘い花の蜜でできたお茶も一滴残さず飲み干す。思案を巡らせていた時間は終わり、そうだわ、と流蝶は静かに立ち上がった。
「見せたいものがあるの。私の部屋に来て」
廊下には窓が一つもない。空気を入れ替えるための小窓が高いところにいくつかあるだけで、壁には直接絵画が描かれている。地宵郷で見られる美しい景色が絵巻物のように連なっていて、特に水面に映る月と張り出した舞台で踊る天女の絵は、目を惹くものがあった。
流蝶の部屋は随分と広く、軟玉を加工した飾りがあちこちにぶら下がっていた。悪いものを寄せ付けないようにする効果があるのだそうだ。棚には縁起物と思わしき焼き物や人形が並び、鏡台には化粧道具がきちんと端に片付けられている。
充実していて不足ないがどこか使用感がなく、何でもありすぎて持て余しているようにも思える。厳しい修行の中、娯楽に耽る暇もなかったからそう感じるのだろうか。
暁蕾が一通り部屋を観察し終えると、流蝶はある冊子を目の前に置いた。
暁蕾は、絶句した。
「これ……どうして、流蝶様が持っているんですか」
藍色の表紙にこの世に存在しない字──この場合地帝の生み出した冥界の字──が刻まれた、符籙が当然のように彼女の手元から差し出された。
この符籙は、使者に任命されて初めて与えられる、形ない称号を唯一証明できる代物だ。
使者以外は中を見ることも許されず、使者は肌身離さず持ち歩き、使命を果たすためだけに役立てることを誓う。仙人候補どころか、資格すらない人が手にするのは地帝への侮辱になる。
「まさか流蝶様が、虞淵使者に任命されたなんてこと」
苦渋の色を浮かべ、流蝶は重々しく頷いた。
「そんなはずありません。儀式はできたとしても形だけにすぎません。陰の氣を操れるようになるのは地帝の加護があってこそです」
「うちは外からだけでなく身内からの圧もあった。これまでの形式を変えるのをお祖母様たちが嫌って、お母様は淵を産んだことをずっと責められていたわ。健勝なお母様が寝込んでしまった時には、父上も大いに荒れて、ついには折れて儀式は私が出ることになった」
こんなことがありえるのだろうか。あっていいはずがない。
「民や身内を納得させるにはこうするしかなかった。それは私も何となくわかっていたけれど、それこそ地帝の怒りを買うのではないかと思って、怖くて、一度もこれを開けていないの。そもそも宣託に逆らうなんて、それこそ異例の事態だったのに、皆、皆、そんなことどうでもいいかのように」
流蝶は眉間を押さえながら、寝台の端に座る。
「当然だけど私に霊力なんて、そこらの道士となんら変わらない。術もまともに扱えない虞淵使者が、幽鬼に対抗できなかったらすぐに偽りだと知られてしまう。だから必死に仙術を学んで、戦って、人の前に立って、地宵郷は安泰だと示して来た。でも、もう限界に近づいている。どんどん取り返しのつかないことになって、」
「地帝の思し召しがあるはずです。いくら慣例に習おうとしても、地帝からのお言葉には誰にも逆らえないはず……で」
言いながら、暁蕾は思い至る。宣託は、そのお言葉を訊けるのは、先代か現虞淵使者しかいない。然るべき修行を受け、霊力を高めてこそ通じることが出来るのだから。
「藍淵も修行をしていないのに、誰が宣託を。月娟様もその時からずっと伏せているんですか?」
「お母様は、あれから目を覚まさなくなった。お父様に面会を禁じられて、長い間会えていないの。正直、生きているのかすら……」
「会えていないって、ただの病気ではないんですか」
「そのはずだったけれど、どうしてかしら。どうして何も知らないまま過ごしていたのか、私にもわからなくて。ごめんなさい。変なことを言ってしまったわ。お父様が恐ろしくて、あの部屋にはどうしても行けないの」
流蝶の言葉はまとまりを無くしていく。暁蕾はさらに混乱した。
何があろうと、絶対的な存在である地帝を無視するなんてことが、そんなことがあってしまえば、郷の守護が揺らいで、薄れて、そして。
我々の天敵である幽鬼が、侵攻して来る。
「もう十年も、新しい宣託は降りていないの」
何かが、おかしい。
「そこまでして藍淵を遠ざける意味はあったんですか。郷の未来がかかっているのに」
「誰も、淵を見てなかった。何もしようとしなかったの」
脳の奥が冷えていく。
「みんな家のことばかりで、私も期待に答えるのに必死だったから。まともに向き合おうとしないまま、時が経ってしまった。可哀想なことをしたと思ってるわ」
語尾が震えていた。
役目を奪われ、地下に放り込まれた挙句、道士として育てられることもなく、何年もただ無為に放置されていたというのか。
彼のところにあった大量の本を思い出す。ひたむきに筆を執る姿。暁蕾が使者だと知った時の、堪らなく嬉しそうな顔。
手のひらに爪が食い込む。苦しかった。怒りと悔しさがないまぜになって胸を引っ掻いた。
わかってしまう。どうしても。今までどんな思いで過ごしてきたのか、何を望んで生きてきたのか。彼の胸の内が手に取るように。
淵はまるで、自分と同じなのだ。
気づけば流蝶の真白な肌に一筋の濡れた跡がある。彼女は袖でそっと隠した。




