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蓬莱三國演義—夙夜廻流列伝—  作者: 狗柳 狼
第一幕 永訣の深淵
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第一章 贰



 暮鷹(ムーイン)が奇妙な塊を目視した直後、光が泥を切り裂く。


「『萬陽(まんよう)寵招(ちょうしょう)』……‼︎」


 白いもやと絡み合いながら暁蕾(シャオレイ)が板に叩きつけられる。もやは瞬く間に消え、紙切れとなって彼女の手元に落ちた。それには先の霊符よりも古く複雑な字図が、濁った血の色で描かれている。

 これに暮鷹は眉をひくつかせた。


「『有為万象』」

「止まれぃ!」


 暁蕾は驚いて見上げた。その隙に散り散りになった泥が四方八方の闇の中に隠れ、一粒も見えなくなってしまう。


「騒ぎの原因はお主か」


 ものすごい剣幕に慌てて手を前に重ねて礼をする。


「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません藍暮鷹さま」

「貴様何者だ」


 え、と一瞬言葉に詰まる。


叶暁蕾(イェシャオレイ)と申します」

「あの暘谷使者がわざわざこの深淵を荒らしに来おったか。地宵郷も舐められたものよな」

「滅相もございません。正門から入ろうとしたのですが、誤って別の場所から入ってしまい、迷っているうちに尸鬼(しき)の類いに遭遇したため、始末しようとした次第です」

「満足に祓えなかったようだが?」

「……面目ありません」

「父上、叶暁蕾は俺を助けようとして戦ってくれただけだ。わざと暴れてたわけじゃない」


 父上。今父上と言ったのか。ということは彼は。

 (ユェン)が歩み出る。暮鷹は胡乱な目で彼を認めるとかっと目を見開く。


「痴れ者が! いつ表に出ていいと言った。かような大衆の目に触れるほど偉くなったわけでははあるまい」


 不機嫌がそのまま鬼に化けたような怒りようである。立てばそれなりの背丈がある淵よりも暮鷹は一回りも二回りも大きく、筋骨隆々であるため居るだけでかなり迫力がある。怒っているならなおのこと萎縮してしまい誰も逆らう気になれない。

 暁蕾の記憶と今の彼はほとんど別人だ。三國郷の交流が盛んだったあの頃、茶を嗜みながら笑っていた大らかな声は、美化された拙い思い出だったのだろうか。


「ちが、俺は。だからその。彼女と逃げて、」

「誰かこいつを廟に戻せ」

「は」


 そんなことよりも、見逃してはならないことがある。


「お待ちください」


 人々の視線が暁蕾に集まる。


「ご報告があります。しかしここでは……どうか人払いを」

「よかろう。ついて参れ」

「彼も一緒に話を聞いていただきたいのです」


 暮鷹が半目で見下ろす。暁蕾は唾を飲んだ。


「まさか我が愚息のことを言っておるのか」

「左様にございます。彼は虞淵(ぐえん)使者の藍淵(ランユェン)とお見受けいたします」

「残念だがその名誉を授かった者はこの地宵郷にはおらんのだ」

「ですが」

「何をやっている、早く連れて行け。これ以上恥を晒してくれるな」


 暁蕾は振り向いた。武器を持たない女中らしき二人が淵を挟んで歩くよう促す。暁蕾が何か言おうとすると、淵は首を振った。その目は警告を語っていた。

 ──最下層に置かれた部屋。簡素な食事。自由に開けない戸。そして暮鷹の忌避するような態度。これらの状況が何を意味しているのかは考えるまでもないことだ。

 全てを悟った暁蕾は、言葉を失った。



 ◐ ◐ ◐



 玄関に置かれた壁には地帝を表す黒虎が描かれている。石造りの邸宅は全体的に濃い藍色に染められ、柱などには波を表現したような模様が見られる。入口からおそらく奥まで左右対称な構造になっているのは天晨郷と同じらしい。


 門を通ってそのまま客間に通される、というわけにはいかなかった。長旅でそこかしこが汚れていたせいか、まず女中に世話されながら風呂に入ることになった。洗濯するためそれまで着ていたものは回収され、代わりの衣服を着せてもらう。これは地宵郷の伝統的な衣装で、この地ならではの特殊な織り方で作られていると女中が教えてくれた。鱗模様の浮き出る精巧な技術は故郷にはないもので素直に関心した。淵も、擦り切れていたが同じものを着ていたことを思い出した。


「それで、話とは何だ」


 入室して一礼する。入浴を挟んだおかげか頭がすっきりとしてこれまでの出来事も何となく整理がついた。浅く息を吐き、暁蕾は事の経緯を語った。


「半年前、天晨郷で天災が起こりました」

「天災だと」

「はい。ご存じかと思いますが、空中にある我が郷に災害が起こることは滅多になく、けれど、あの日確かに()()()のです。かなり大きく長い揺れで、建物のほとんどは瓦礫と化し、多くの者が死にました。私がいた廟だけは無事だったのですが、そんな混乱の中で急に宣託が下ったのです」

「天帝は、なんと申した」

「厄災が、そう遠くない日に訪れると。きっとあの揺れは、最初の天罰だったのだと思われます」


 建巳月(けんしんげつ)上旬、陽が最も高い位置にある頃に何の前触れもなくそれは訪れた。天晨郷は、地上では見られない色彩豊かな植物や神秘的な生き物が多く存在する。気候は一年中春のような暖かさで、祭りや宴会があちこちで開かれていつどこへ行っても賑やかだ。それは古くから天帝が住まうとされている楽園を再現するために、全土が緻密な設計によって整えられていった結果なのだ。目に見えるもの全てが美しく、洗練されていていれば心は洗われ、誰もが仙人になれると信じられていた。


 それが、半刻もかからぬうちに地獄と化した。


「大事が起こったというのになぜお主は天晨郷に留まらずここにいるのだ」

「……正直、地上に降りたのは事故のようなもので、ですが厄災は我が郷に限ったことではございません。天帝は、気流が大いに乱れていると申しておりました。地宵郷も、羅瓣郷も、近いうちに天災が訪れます。だからどうか、現仙人候補の力をお借りしたいのです」


 暮鷹は目を瞑ってしばらく動かなかった。じっとしていると足の痛みがじわじわとぶり返して来る。軽く足踏みをしていると、暮鷹はゆっくりと髪を掻き上げ、後頭部へ流した。


「どうも信じがたい。その宣託は本当にあったものなのか」

「と、申しますと?」

「地宵郷ではそのような宣託はなかった。厄災が本当に訪れるなら我らが地帝も同じように警告してくれたはずだ。それこそお主が来るまでもなく。だが今日までお告げが下ることはなかった。地帝が無言を貫くのであれば地宵郷の危機はないに等しい」

「私は嘘は申しておりません。戯言を宣うために地の果てへ参るほど天人の足は強くないのです」

「そうだ。なぜ天晨郷の下にある羅瓣郷を無視してここへ来ようと思った。五つのうちどこかの邑にでも入って報告し、使いを送らせればよかったものを、暘谷使者が身を費やしてまでやる事ではなかろう」


 暁蕾は錯乱していたあの時期の記憶を懸命に掘り起こす。


「それは……地上で六日ほど過ごした日の晩に、地帝がこちらへ手招く夢を見たのです。近くにいた易に占ってもらったところ、地宵郷へ行け、そこで待つ者がお前の望むものを授けるだろう。と」

「夢、か」


 暮鷹は肘掛けを指で何度か叩く。こうして見ると彼の顔はどこかやつれていて、酷く疲れているように見える。太陽を浴びた事のない色白な肌よりも爪は青く、髭の生え方もまばらで、長い間整われていないであろう蓬髪は後ろに撫でつけてもあちこちに跳ねてしまっている。


 宗主のことといい、使者のことといい、地宵郷はもしかすると、外で起こっている異変に対処する余裕など残っていないのかも知れなかった。言いようのない不安の原因を暁蕾は敏感に感じ取る。必死の思いで辿り着いたというのに、来るべき時は今で本当によかったのだろうか。


「やはりとてもではないが、信じがたい話よ」


 妙な静けさに包まれる。暁蕾は食い下がった。


「ですが、天災は実際に起こりました。宣託も偽りを申せばどれほど重い罪になるか暮鷹様はご存じのはず。私には使命があるのです。厄災から三國郷を、民を救う使命が!」

「全てを嘘だとは思わん。だが、きっとお主自身もどこからが本当か分からなくなっておるのだろう。地宵郷までの道のりは人間一人が気安く乗り越えられるほど易しいものではない。相当な苦労をして来てくれたからにはそれなりのもてなしを約束しよう。判断すべきは今ではない。部屋を用意するからしばらく休んでおくといい」

「そんな、お言葉ですが。悠長に休んでなどおれません。危機がいつ訪れるかわからない以上、早いうちに対策を打っておかなければ天晨郷の二の舞になりかねません!」


 右目をひくりと痙攣させ、暮鷹は顎を突き出して凄む。


「では当時の状況をもっと詳しく話してみろ。なぜ天災が起き、なぜお主が地上へ降りることになったのかを」

「あ、と、……あの日、……?」


 暁蕾の声は震えた。

 整然とした思考の棚が、次々と足場を無くして崩壊していく。

 足元が柔らかく湾曲し、平衡感覚が失われ、まっすぐ立っていられなくなる。どこかで大地の唸り声が聞こえる。

 戯れに積んだ石のように倒れる家家。子の名前を叫びながら素足で歩く母親、助けを呼ぶ悲痛な声、陽光は雲の裏に隠れ、薄寒い風が瓦礫の屑を巻き上げる。

 人々は狂乱し、血と泥に塗れながら天壇に押し寄せる。


 ──お前が! お前の存在が天帝の怒りに触れたのだ!

 ──恐れ多くもなり損ないの使者が天の霊符を授かるなど!

 ──これはお前の罰なのだ。お前の罪が我々の楽園を壊した!

 ──償え!

 ──償え……‼︎


「お父様!」


 入り口から凛とした声が響き、暁蕾を現実に引き戻した。

 青緑のひだがたっぷりとした衣の上に、尾鰭を模した薄衣を肩掛けした、背の高い女性である。淵が姉上と呼んでいた人だ。


「それ以上はよしてください。災害に遭った方を責めても何も面白くありません」

「立ち聞きとははしたないぞ、流蝶(リウディエ)

「お父様もお人が悪い。敢えて脆い部分をつついて話を誤魔化そうとして、同情すらしないなんて。人の心をお忘れですか」


 流蝶は回り込んで暁蕾の顔を覗き込む。


「可哀想に、顔色がよくないわ。私が連れて行ってあげるから、部屋で休みましょう」


 背中に手を添えられ、暁蕾はふらつきながら客間を出る。扉が閉まるまで暮鷹の暗い(まなこ)は、瞬きひとつせず暁蕾を見つめ続けた。脳が混濁して周りが見えなくなっていた彼女は、そのことに気づいていなかった。


「天人ほど我々は宣託を重視しない。お告げばかりを求めるあまり、天災の予兆にも気づかなかったのだろう」




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