第四章 肆
雪崩れ込む水を前に人々は戦々恐々としていた。彼らにできるのはただ死を待つのみだった。上に登る力のない老人たちは上がっていく水位と奪われていく体温にひたすら耐えている。拷問だった。我々もいずれあのようにして死ぬのだろうと誰もが悟る。地宵郷はまもなく沈むのだ。
──我らが地帝
──輿地を担ぎ 地府を総べ
「あんた何をやっているんだい?」
人々は声の主を探した。誰かがあっと指を指してその先に注目が集まる。
道観の上には仁王立ちをした男の姿があった。腰をそり、高らかに歌い上げている。あの朔邑の胡乱な道士である。人々は訝しんだ。今にも死にそうな人がいるという時に、何と卦体なことを。
「みんなも歌え! このまま死んでもいいのか!」
「馬鹿を言うんじゃないよ、そんな事をしたってもう遅いんだ」
白の周囲にいる人々は勘弁してくれと言わんばかりだが、白は押し通す。
「そうだ。地帝が我々を見捨てたんじゃない。わしらが先に蔑ろにしたんだ。こんな結末になったのも自業自得。今頃冥界で地帝はほくそ笑んでいるに違いない」
「なんて事を!」
「だが最後の最後くらい祈ってやったらどうなんだ! あの若い道士をお前たちも見ただろ。わしらのためにここまでやって来て今も儀式を続けている。危険を犯しても自分にできる事をやり尽くそうと必死になっている。お前たちはこの期に及んで人任せにするのか! 己の安全ばかりを気にして何になる!」
温和だったはずの道士の激昂がびりびりと鼓膜を震わせる。それまで口々に物を言っていた彼らは閉口した。
「そんなつもりは、ない」
「だったら歌うんだ。わしらにできるのは、それだけだ」
──我らが地帝
──輿地を担ぎ 地府を総べ
──数多の魄を その腕に抱く
萎縮していた女は圧倒されて固まっていたが、やがてぽつりぽつりと口ずさむ。
──広大無辺の大慈
──滔々と流れる 大河の如く
──大海の果て 終に尽きることなく
波紋のように広がり、道観の上にいる者たちも音に倣う。
何かをしたところでどうしようもない。だが悲しみに暮れるよりも何かをする方がましだった。
人々は生きたかった。
離れたところで避難する者たちも、反響に耳を傾け口を開く。
──数多の 生命の根を包み
──潭に沈み 腕へ還る
終わっても何度も繰り返し、もはやどこが最初なのかわからなくなる。
暗い洞窟は歌で満たされた。籠から放たれた蛍が舞い、紐が解けて提灯が沈む。
淵には確かに届いていた。
彼は祭文を読み終え、足を組んで心を無にする。
氣は巡りを止めず、それでも何も起こらない。
どうどうと水が湧き出ている。その量は来た時よりも増えていた。池から溢れてしまっている。いよいよ穴に到達して流れ落ちる。
祝詞を中断したのがいけなかったのか。本尊を持って来たのは意味がなかったのか。そもそも持ち出したことも、ここで招こうとするのも間違いだったのか。
使者でなければ、何をしようと無駄なのか。
淵は勘を頼りに動いていたが、単なる勘違いであれば一巻の終わりである。だから焦りがあった。集中しても雑念がまとわりついて離れない。弾ける水が煩わしい。これではいけない。もっと深く潜らねば。
全身が濡れているというのに口内が渇いて仕方なかった。一度切り替えるために、淵は湧き出ているところから水を掬って飲んだ。
そういえば、と手の窪みに残る水を見つめる。
淵は通交の経験が少ない。地帝からしるしがあっても受け取る力がなく、淵の代わりとして暁蕾に接触があったと彼女は言っていた。
預言の時はどうだっただろう。淵は通交のつもりがなくとも霊力を通じて一方的に接触が起こった。つまりあちら側からの動線はできあがっており、やはり淵から線を伸ばしても頼りなく、どれだけ引き伸ばそうとしても千切れてしまうのである。
だったら、動線を作らずに来てもらうしかないのではないか。
池に両手を沈める。深く息を吸い、浅く吐き出す。
水の中にある氣に触れる。
山に降りそそぐ雨。絶えず流れる小川。地に染み込む水は長い時間をかけて地下へと沈み、岩の隙間から溢れ出す。あらゆる生き物が透明な水で喉を潤す。穢れを祓わずとも清らかで神々しい月が水面に揺れる。
水は止まることを知らず循環する。地中に流れた水はどこへ行くのか。下へ沈み続けるのか。岩を穿つまで叩き続けるのか。下に終わりはない。なぜなら我らの下には大いなる深淵と。
地帝が君臨している。
池は突然底を深くする。淵はその身を委ねた。
◐ ◐ ◐
淵には母親の記憶はほとんどない。覚えていないというより忘れたと言うのが正しいが、唯一思い出せるのは胸に抱かれていたことだけだ。
「あの子はやはり元気すぎるな」
「出歩かれては困るねぇ」
幼い淵は祖父に手を引かれて廟に入った。
「ちょっとお義父様。何するつもりです」
息を切らして女性が割り込み、淵を包み込む。
「また石を投げ込まれてはたまらんからな。うっかり飛び出して当たってしまったら危なかろう。この子は落ち着きがない。瞑想もせずに遊び呆けているからここでわからせてやらんとな」
「まだ遊びたい盛りなのでしょう。まだ七つにもなっていないんですよ。それにこういう時こそ一緒にいてあげなくては。きっとこの子にも不安が伝わっているから落ち着けないんです」
「そうは言ってもな、月娟よ。お前も部屋に籠ってちっとも世話をしていなかっただろう。気を病んでいたからというのは理由にならんぞ」
月娟は袖を捌き、凛然とした態度で答える。
「いいえ。言い訳なんて致しません。ずっと考えていたんです。どうすれば民を宥められるのか。ただその場凌ぎに甘い言葉を言っても彼らは満足しないでしょう。藍家の宗主として政策を持って統べなければ。休ませて頂いていた間に計画を練り直しましたので、お二人に是非聞いてもらいたいのです」
淵と一緒に戻ろうとすると、祖父が駄目だとしわを寄せる。
「この不吉な子を産んだのがいけなかったのだ。だから悪い気が流れておる。お前にもこの子にももう少し身を清めてもらわんといかん」
月娟は咄嗟に息子の耳を塞いだ。艶のある黒い目が見開き、細い眉が吊り上がる。
「二度とそんなことを言わないで下さい。この子は地帝をはじめこの世の森羅万象、全ての人間に愛されるために生まれたのです」
月娟はすっと表情を和らげ、片膝をついて息子と視線を合わせる。
「ごめんね。お爺ちゃん機嫌が悪いみたい。用事が終わったら迎えに来るから、少しだけ下で遊んでいてくれる?」
抱きしめて頭を撫でる。子どもは小さな手をもじもじといじり、反抗せず素直に、しかし寂しそうに地下へ降りて行った。
屋敷内で召集がかかる。宗主月娟、夫暮鷹、父方、母方の両親、それから流蝶と子墨の二人が机を囲んで円形に座る。
「お母様。もう大丈夫なの?」
「ええ。心配かけてごめんなさい。でもふと妙案が浮かんで書き留めているうちに頭が冴えたの」
「でも急に動くのはよくないわ。ろくに食べていなかったでしょう」
「気にかけてくれるのはあなただけよ流蝶。ありがとう。でもそろそろ私も働かないと」
女中がお茶を運んで来る。父方の祖母が香りを嗅いでから一言。
「やはり宗主を暮鷹に譲ってはどうかねぇ」
またその話ですか、と月娟は気怠そうに唇を曲げる。
「わたしだってね、あなたを心配しているんだよ。あなたのお母様だってこの間体調を崩されていただろう。やはり悪い気が溜まっておるんだよ。休んでおいた方がいいと思うけどね」
「母が体調を崩したのは、そもそも外出を制限したせいではありませんか。一度でも地宵郷に入れば出てはならないと。しきたりだか何だか知りませんが、私たちは地人とは違うのです。自由に外出できればこんなことにはならなかったでしょう?」
「よくないことがこうも続いては安定するとは思えん」
「もう、あなたからも何か言ってやってよ」
月娟は暮鷹に振るが、彼は机に符を広げ木簡に一心不乱に何かを書き込んでいる。
「会議の時くらい道術のことは忘れなさいよ!」
寡黙な夫にそんな注意をしても聞かないのを月娟は承知している。彼は中途半端に物事を投げ出すのを嫌う。一度始めたら終わるまでやめようとしない。それでも家族を放っておくような不義理な人ではないから会議には一応参加してくれている。だが妻が困っているのに彼はいるだけで加勢もしないのである。小心者め、と月娟は心中罵った。
「お義母様。彼は道士としては私より優れていますが研究ばかりで生活もだらしがないでしょう。とてもじゃないですが任せられません」
「けれどね、この間占ってもらったんだよ」
「占い? 誰にです」
「受宣者さ」
義母が紹介したのは奇妙な装いの男たちだった。背の低い方はぼろの布切れを頭から被り、高い方は炭で塗りつぶしたような黒衣をまとっている。
彼らは山中に隠遁していた方士で、霊力で様々な超常的存在と繋がることができるという。日課の占いにより得た啓示に従い、地宵郷に訪れたのだそうだ。
「どうやって、ここに来たんです?」
舗装された道もなく、入り口も自然によって隠されている地宵郷に人間が外から入る手段は皆無だ。月娟は怪しんだ。
「地帝のお導きがあったんだ。我々は長き修行を経て万物と通じる力を手に入れている。草木がこちらへ来いと囁き、鳥が奇妙な飛び方で方向を指し示した。そうしているうちにここへ辿り着いたんだ」
義母に頼まれ、受宣者は地宵郷の行く末を占った。水を用意してそこに黒曜のような色をした銭を入れる。裏が出るか表がでるかで八卦から万物の動きを読む。布を被った受宣者は意気揚々と語った。
「陰の氣は弱まり、陽の氣が侵食しようとしているねぇ。そこの女は地宵郷の者ではないな? 彼女が氣の流れを歪ませている。邑の者たちの様子に変化があったとすれば、女が陽の氣を吸わせたからに違いない。流れを正常に戻さねば地帝は去り、さらなる不幸に見舞われよう」
「ほら言っただろう。別にあなたの仕事を奪おうというんじゃないよ。うちの息子はこの通り道術しか取り柄のないうつけ者だからね。遠い土地に嫁入りして、宗主として立つだけでも大変なのによく頑張ってくれていると思っているよ。けれどねぇ。やり過ぎたんじゃないだろうかとも思うんだ」
月娟は胸騒ぎがした。
義母がこんな胡散臭い連中に騙されてしまうなんてと呆れていたが、彼女が不安になってなしまった原因、月娟が伏せってからの空白期間が長かったのは事実である。
月娟は子を宿した際に宣託を受けてから、生まれてからもしばらく廟の下にある地下室で過ごしていた。なるべく地帝に近い場所で胎教を行うのが伝統だった。栄養のある食事をとり、適度な運動と雅な音楽を聴かせれば、健康な子が生まれるのである。しかし生まれてからも部屋に居続けたのは、子の存在を否定する者が思った以上に多かったからだ。
代々女が務めたとされる使者の座に男が座るなど、あってはならないことだとして人々は認めなかった。性別が変わるだけで何が問題になるのか月娟はまったく理解できなかった。陰陽五行で言えば陰の氣を扱うのは確かに女が易しいだろう。それは逆は不可能であるのを示しているのではなく、あくまで性質の話であって、陰陽に割り振られた全ては反発し合うことはないのだ。
陰の氣を使いこなす暮鷹が良い例である。彼の実力であれば淵の師となっても不足はない。将来淵も素晴らしい道士に成長し、立派に使者として務めてくれるだろう。
月娟は期待していた。それだけに前例に固執する者たちによる激しい拒絶が胸を抉った。産んだ直後の不安定な心に堪えた。だが産んだことが間違いだとは何があっても思いたくなかった。自分と子どもは何も悪くない。悪くないはずなのに、抗議の声が毎日のように浴びせられ、石を投げられ、神聖な水を門にかけられた。
恐ろしくて息を潜めて地下で過ごすしかなかった。淵の存在は唯一の癒しで、救いだった。愛おしい小さい頭。柔らかな手とこぼれ落ちそうな頬。この子だけいてくれればそれでよかった。月娟は落ち着くまで二人きりで過ごせばいつか収まるだろうと信じていた。
「こんこん、もしもーし」
それは現実逃避に過ぎなかった。
先延ばしにすれば解決する問題などない。自分で蒔いた種でもある。月娟は淵のためにもどうにか立ち上がらねばと氣の流れを整え、地下を出たのだ。
布を被った受宣者が月娟の顔を覗き込んでいた。机には全員分の茶器が置かれている。蓋を取ると、中身は月娟の政策で栽培されたいつもの茶ではなかった。
泥のように濁った、奇妙な色だった。
「これは……」
「安定するんだとさ。わざわざ外に出て光を浴びなくとも、私たちが月の光を浴びた水を飲むのと同じ効果が得られる」
「氣の周りがよくなるとも言っていたな。暮鷹もほら、飲むと良い」
義母と義父はさも美味しそうに飲んでいるが、いかにもな怪しい飲み物に他の皆は困惑気味だった。
「まあまずは一口。効果が出るのは半月後。毎日飲み続けてようやくといったところだ。人の持つ氣が良くなれば気流の動きも変わることだろう。欠かさず、飲むように」
蓬髪の受宣者は笑みを絶やさなかった。
彼らに付け込まれたのはひいては藍家宗主である自分の責任でもあると、月娟は感じた。ここは徹底して取り締まらねばならないと自分を奮い立たせる。起立して彼女は背筋を伸ばした。
「いいですか、みなさん。私の力不足で不安にさせてしまったことは謝ります。私も同じように不安を抱えていました。ろくに地下から上がって来なかったばかりに地帝を祀るのを怠り、宣託もあれから受け取っておりません。その間も民はますます荒れ、政策も滞り、淵ももう七つになろうとしています。このままでは良くないと思ったからこそお義母様も受宣者なるものをお呼びになったのでしょう。
けれどもう、心配する必要はありません。今日から少しずつ変えていきましょう。黒潮の原因を突き止めるため羅瓣郷皁郡の船団と手を組むことになりました。長期的な調査になりますが漁に詳しい方達の話も聞けるので、現状回復は見込めます。それでも無理であれば潔く諦めましょう。他にも開拓の道はあります」
月娟は一人一人の目を見て続ける。
「それに、淵が七つになればいよいよ初めての儀式が行えます。地帝に元気な息子を見せて、上手に氣を伝えられれば、石板はひとりでに文字を刻んで私たちを祝福してくれるかもしれません。これまで辛いことはたくさんあったし、させてしまいましたが、あと少しの辛抱です。まだ終わったわけではありません。落ち込むのは儀式が終わってからにしましょう。では、早速、儀式の詳しい段取りを共有しておきますね」
受宣者たちは部屋の隅で互いに皮肉な笑みを向けた。




