第四章 叁
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青銅の盃で霊水を呷る。淵は再び祝詞を読み上げていく。
道士が獣の形をした祭器を傾ける。盃を満たして淵の前に置き、脇に控える。もう一人は綴られた木簡を少しずつ広げて読み上げを滞りなくする。どちらも顔を伏せている。首が痛くなろうとも上げることはない。本尊を直視するなど畏れ多いからだ。
地下に物音は滅多に届かないが、どれだけ騒がしくなったとしても、虫が手足を這って、人が肩を叩いたとしても、淵は動じない。体内の氣が手伝って彼は自身の言葉すらも届かない深いところへ潜っていた。
火が消える前に新しい蝋燭へと移される。慣れない読み上げに淵は最初早口になってしまったが、ようやく落ち着きを取り戻した頃になると、祝詞は中盤に差し掛かろうとしていた。難しい字も詰まらず思うように言えばいいと流蝶に教わっていた。拝礼し霊水を飲む時以外、途切れずに果たすことが重要なのだ。
ある時意識が浮上して、淵の視野が広がった。口は祝詞を読み続ける。
なぜ浮上したかは淵の知るところではない。外側にある有相無相は何ら問題にはならない。内側の氣が秩序を持って巡っていれば、言の葉は陰の気流に乗ってさらなる深みへと沈み、偉大なる地帝へと贈られる。
静止していた道士たちが、無言で目を合わせた。
膝の下が振動している。これは、と思っているうちに、横に大きく揺れた。
道士たちは驚いて近くの壁に縋り付く。生涯で初めての現象に彼らは儀式も忘れて取り乱した。大地が怒りに震えて咆哮を放っている。そんな風に受け取れた。岩があちこちで動いて怒りに呼応している。我々を地獄へ落とそうというのか。
お互いを抱きしめて震えているうちに、揺れは鎮まった。
周囲を見渡す余裕が生まれた道士らは、淵の様子を見て驚愕した。
淵は手ずから木簡を広げて祝詞を読んでいた。道士らは気づかなかったが、揺れている中でも文字を凝視し、読み飛ばさないよう、音に負けないよう声まで張っていたのである。今は元の声量に戻り粛々と言葉を紡いでいる。
「淵様。何だか不吉な気が渦巻いているようでございます。今すぐここを離れましょう」
反応がない。うんともすんとも言わない代わりにその口からは古い言葉しか生まれない。
先に階段を登っていた道士が顔面蒼白で降りてきた。
「出口が! 塞がってる!」
「何だと」
二人の道士は絶望した。奉仕するために儀式で役目を担ったというのに、神の怒りに触れ、挙げ句の果て閉じ込められてしまうとは。こんな最期はあんまりである。
所詮付け焼き刃の信心でいい加減な生活をしていたしがない道士。報われない一生を送っても致し方ないと諦められるが、生き埋めだけは嫌だった。
湿気た空気がじっとりと汗に絡む。
不安で萎縮してか呼吸がしづらい。何とか、何とかして脱出しなければ。でも、どうすれば。
焦燥感と恐怖に縛られる。冷や汗が止まらない。本来なら気が狂ってしまいそうなところである。しかしどちらも血迷った行為には出なかった。正確には、出られなかったのだ。
狭い空間には朗々として祝詞が響いていた。澱みのない初々しさと場違いなほど厳かな祈りがどうしようもなく緊張をほぐしてくる。一周回って気味が悪いくらいだった。
道士たちは思った。淵は正気の沙汰ではない。命が危ういという時になっても身じろぎもしないなど。鬼にでも取り憑かれたのではなかろうか。それともとっくに気が触れてしまったのか。
「淵様……淵様!」
髭のはえた道士が肩を引こうとして、淵は振り向かずに止めた。彼の汗でじっとりと濡れた手が強く道士を制する。
その手で次は盃を持ち上げ、叩きつけるように地面に置いた。倒れたせいで中身は空になっていた。淵は注げと言っているのだ。
こんな時までこの方は何を。道士は呆れ果てた。
淵のこめかみを伝う汗を見る。掴まれた手の湿った跡が冷えていく。見比べているうちに、道士の脳が訴えた。
彼は、まだ諦めてはいない。
たっぷりと入った獣形の祭器にはまだ水が残っている。盃に注いで、ずれた蝋燭の器を直す。
「お前までどうしたんだ!」
「静かに! お前も心を鎮めて祈りを捧げろ」
「しかし出口が」
「どのみち終わる命ならこの身を捧げるまで。そうすれば地帝も我々の魄を歓迎してくれるだろう」
髭を生やした道士は座って目を閉じた。初老の道士は固唾を呑む。
ややあって彼も正座をして、膝の上で拳を握った。目尻には涙が滲んでいた。
彼らの覚悟が決まってしばらく、虚しくもさらなる試練を課せられることになった。
水である。湧水のように細く流れて階段を濡らし、やがてお堂に広がっていたが、道士らは足先にかかったところでようやく事態に気づいた。
「み、水だ! 入ってきているぞ。これはまずい、いよいよ死んでしまう!」
爪先立ちで壁にしがみつく仲間を尻目に、髭を生やした道士は淵の様子を窺う。
淵にも水の滴る音が聞こえているはずだ。声が掠れてきているが、空気が足りないのかもしれない。それでも止まる気配はない。
蝋燭の火を移し、道士はまた瞼を閉じた。
次に目覚めた時、水は腰まで浸かっていた。
思わず立ち上がる。初老の道士は先と同じ位置で泣きべそをかいている。自分は気絶していたのだろうかと道士は髭を撫でる。
「お願いだ、もうやめてくれ。こっちまでおかしくなってくる。これに何の意味があるんだ。お終いだ! 何もかも!」
嘆きも飛沫の中へと吸い込まれた。
淵が盃を掴む。
「もういいんだ! やめてくれ!」
飲み干してから揺さぶられ、淵は喉につまりかける。
咳き込んで、彼ははっとした。立ち上がってその場を回る。
冷たい感触、濡れた衣。流れ込む大量の水。
淵の意識は完全に浮上した。
「おい、逃げるぞ」
「だから出口がないんだ!」
「階段は登れるんだよな?」
「は?」
淵は傍らに浮いた別の木簡を懐に入れ、さらに本尊を鷲掴みにした。
「何をやっているんです? やっぱり気が触れてしまったんだ!」
「まだ全部じゃない。やめてたまるかよ」
淵の首から骨盤まであるそれなりの大きさの像を抱え、階段を登る。
途中で腰を曲げ、右下を探ると穴の縁に当たる。暗視でも見つけづらい場所だ。
冠を捨て、衣を数枚脱ぎ捨て、長い腰巻きも外して足から穴に入る。
着地すると、そこは淵の地下室だった。閉ざされているせいか水はそこまで来ていない。
「像を投げてくれ」
恐る恐る落とされた像を難なく受け取る。道士たちにも降りるよう言うが、怯えているのかなかなか来ない。穴の位置は淵の背より高く、溝を使って登るほどであるため、素人では下手をすれば足にひびが入ってしまう。
「上衣を脱いで、足からゆっくり下ろすんだ。俺が受け止めてやるから、ほら」
勇気を出したのは髭を生やした方だった。お尻から落ちてくるのを抱き止めて立たせる。
「お前も、早く来い!」
「あああ怖い! 怖い! 無理だっ、どうしてこんな目に遭わなきゃならないんだ、ちくしょう!」
「落ち着け。大丈夫だって、ほら」
「躊躇ったやつから死ぬぞ」
涙と鼻水で濡れた彼は脱いだ衣を捨て、淵様ぁ! と叫びながら落ちた。
上手く腕の中に収めて、淵は初老の道士を励ます。
「よし、あとは出るだけだ。もう少しだからな」
「淵様ぁあん」
「歳上だろう、しっかりせい。情けない」
淵は戸を押した。開きそうにない。肘打ちで割って剥がすと、どっと水が入ってきた。
脱出はこうやってするものだ。像を入れてから淵は廟の外まで走った。
廟は崩れていたが、どうにか隙間を通って外へ出られた。上は足首まで浸かっている。周りは嘘のように静かだ。誰もいない。屋敷の方が騒がしいが、淵は目先の目的に囚われ、舟を探していた。
「これ、どこへ行く!」
「邑の方へ!」
舟があった。門に引っかかっている。一直線に向かって飛び乗った。
「危険だ、ここにいろ」
「もう無理するな、一緒に逃げましょう!」
淵が道士たちを振り返ることはなかった。
彼は自分のしていること、起こっている出来事にまるで現実味を感じていなかった。子どもの頃に見た夢のように、いつまでも抜け出せない箱の中にいる気分でいた。何度も扉を開けても出られず、一点の光もない密室に残される夢だ。目眩がしそうだった。
淵は櫂で力強く水を掻く。体内の氣は乱れていない。正気になど簡単に戻るものかと流れに逆らって進む。
呼んでいる。意識が浮上したのは、集中を欠いただけではない。
何かと通じたからだ。
周りの氣の流れが邑を指し示していた。
穴はある地点から急に天井が低くなっていた。頭をぶつけそうになりながら漕ぐ。
入り口付近で舟を縛り、像を抱えて朔村に向かう。
邑のある土地の方が少し高く、屋敷の方向へ流れているせいか水位は低い。
「淵様! どうして来たんだ」
橋を渡ると、横穴に建てられた家の屋根から白が顔を出す。人々はなるべく高いところへ逃れようとおおわらわだった。
「師匠、太陰元君はどこにいる!」
「そんなことより逃げるんだ」
「師匠たちこそ洞窟の中は危ない。いつ崩れるかわからない。屋敷を目指した方がいい」
「どこに行ったって洞窟は洞窟だ。危険なのに変わりはない。それにな、舟がたくさん流されて全員が移動するのは無理だ。どのくらい深いかもわからん、泳げる人も少ない。おそらくさっきの揺れで邑からの出口が波や岩で塞がれた。八方塞がりだ」
「どうにか耐えてくれ。俺がなんとかする。だから場所を教えてくれ!」
お前さんというやつは、と白が苛立ったように梯子を使って降りる。
「あそこも崩れているかもしれないぞ」
「教えてくれないならいい。虎穴邑にあるのはわかってる」
「やめなさい。わしが許さん」
白は修行の時とは違う恐ろしい形相をして言った。
淵は、思わず気を緩めかける。
「死ぬのは、怖くないんだ。冥界が近いと還る場所があるんだと思って安心してしまうんだろうな」
「馬鹿なことを言うな」
「もう待たなくても、誰かにに何かを言われなくても、俺は自分で考えて動くよ。死ぬのはやることをやってからだ」
淵は像を抱え直して去ろうとする。
「舟を探してやる」
白は宛てがあったようで、そう長くかからず探し当てた。ある家の裏で逆さまになっていた舟を起こし、流れの速い溝の上に浮かべる。
片側で乗り上げないよう櫂で押さえながら、反対側で漕いで行く。
水の出所は望邑にある外に繋がる出口からだろう、と白は推測した。海に近い場所に出るため割れた隙間から勢いよく流れ込んだのだ。
出口を避けて右回りに虎穴邑に着く。朔邑と同じように人々が横穴や家屋の上に逃げてひしめいている。まだ家の中で大事なものを持ち出そうと奔走している人もいる。水位は膝まで来ていた。
「いいか。また揺れでも起きれば挟まれて死ぬぞ。それでもいいというんだな」
「師匠。俺が通交する間歌を歌ってくれないか」
意外なお願いに白は面食らった。
「予定ではそうなっていただろ。ここは少し遠いから地帝に届くかどうか怪しい。だから招いて欲しいんだ。頼まれてくれないか」
淵の意識は洞窟の隙間に吸い込まれている。白と再会した時も彼は白を見ているようで実際はまるで視線が合っていなかった。
彼の意識は現実から遠ざかっている。それは体内の氣を乱してはならないというある種の強迫観念や衝撃的な出来事からの逃避も作用しているだろう。淵が尋常ではない事を白は薄々感じ取っていたようだった。
だが淵は返事を聞く前に穴へ入ってしまった。散りばめられた細かな宝石が煌めき、湿った長い髪と衣を翻して。天の梯子を渡る仙人と見紛う儚さで、暗闇に消える。
白は、少し泣いた。
道幅が以前より狭まっていることを淵は知らない。像を上に上げながら無理やり体を通してどうにか辿り着くが、話に聞いたような切り裂かれた天井は見えず、池には何も映っていなかった。裂け目も揺れで閉ざされてしまったのだ。
太陰元君の像が倒れている。立たせてから隣に本尊を並べ、浅い池の真ん中で木簡を広げる。
地帝よ。どうか応え給へ。




