第8話 虚無への招待
色が消えていく。
空の青も、大地の茶色も、草の緑も。全ての色が薄れ、灰色になり、やがて——
白と黒だけになった。
「着いた」
ジョーカーは足を止めた。
虚無の地。
盤上世界の最果て。古文書に記された、伝説の場所。
そこは、静寂に満ちていた。風の音もない。生き物の気配もない。ただ、白と黒の市松模様が、果てしなく広がっているだけだった。
「へえ」
ジョーカーは周囲を見回した。
「本当にあったんだな、こんな場所が」
足元を見る。白いマス目と黒いマス目が、規則正しく並んでいる。まるで巨大な盤のようだ。
その中央に、何かがあった。
「あれは...」
ジョーカーは目を細めた。
白と黒のマス目の中心。そこに、巨大な石碑が立っていた。
古びた石碑。表面には、見たことのない文字が刻まれている。
「封印、か」
古文書に書いてあった。反転の軍勢は、太古の時代に封印されたと。彼らはかつて盤上世界を一色に染めようとし、全ての国が協力して、ようやく封じ込めたのだと。
ジョーカーは石碑に近づいた。
「随分古いな。何千年前だ?」
石碑に手を触れる。
冷たい。氷のように冷たい。
文字を読もうとするが、読めない。だが、一箇所だけ、理解できる部分があった。
『この封印を解く者、世界を終焉に導く』
「終焉、ねえ」
ジョーカーは笑った。
「いいじゃないか」
---
古文書には、封印の解き方も書いてあった。
『封印を解くには、血が必要である。盤上世界の住人の血を、石碑に捧げよ』
「血、か。簡単だな」
ジョーカーは懐から短剣を取り出した。
刃を手のひらに当てる。
「お前らを解放してやるよ」
躊躇いはなかった。
刃が肌を裂く。赤い血が滴り落ちる。
「反転の軍勢とやら、出てこい」
血が石碑に触れた瞬間——
世界が震えた。
「おっと」
ジョーカーは後ろに飛び退いた。
石碑に亀裂が走る。光が漏れ出す。白い光と黒い光が、交互に明滅している。
亀裂が広がっていく。石碑全体に、蜘蛛の巣のようなひび割れが広がっていく。
そして——
石碑が、砕け散った。
轟音と共に、白と黒の光が天に向かって噴き上がる。
「おいおい...」
ジョーカーは目を見開いた。
光の中から、何かが現れた。
白い影。黒い影。
人の形をしているようで、していない。顔があるようで、ない。ただ、白と黒の輪郭だけが、そこにあった。
『ああ...』
声が響いた。どこから聞こえるのか分からない。
『ようやく...目覚めた...』
白い影が言った。
『長い眠りだった...』
黒い影が言った。
二つの影が、ゆっくりとジョーカーの方を向いた。
『お前が、封印を解いた者か』
「ああ、俺だよ」
ジョーカーは血の滴る手を掲げた。
「ジョーカー。トランプ連邦の道化さ。よろしくな」
沈黙が流れた。
白い影と黒い影が、ジョーカーを見つめている。
『なぜ封印を解いた』
白い影——白縁が問うた。
『我らが何者か、知らぬわけではあるまい』
「ああ、知ってるよ」
ジョーカーは肩をすくめた。
「お前たちは反転の軍勢。世界を一色に染めようとした奴ら。太古の時代に封印された化け物だ」
『それを知っていて、封印を解いたのか』
「ああ」
ジョーカーは笑った。
「解きたかったからな」
---
白縁と黒縁は、しばらく黙っていた。
やがて、黒縁が口を開いた。
『理由を聞こう』
『なぜ我らを解放した』
「理由?」
ジョーカーは空を見上げた。白と黒だけの空。
「この世界は腐ってるんだよ」
呟いた。
「将棋もチェスもトランプも、みんな殺し合ってる。憎み合ってる。奪い合ってる。終わりがない」
『それは我らには関係のないことだ』
「関係なくていいさ。俺はただ、お前たちに頼みたいだけだ」
ジョーカーは白縁と黒縁を見た。
「全部塗り替えてくれ。将棋もチェスもトランプも、くだらない争いを続ける連中を全員。白でも黒でも構わない。全部同じ色にしちまえ」
沈黙。
『我らに頼む、だと』
白縁が言った。
『勘違いするな、人間』
黒縁が言った。
『我らはお前の道具ではない』
「分かってるよ」
ジョーカーは肩をすくめた。
「頼みっていうのは言い方が悪かったな。正確には——」
ジョーカーは笑った。
「お前たちは、俺が頼まなくてもやるだろ?」
白縁と黒縁は、動きを止めた。
『何を言っている』
「だってそうだろ?お前たちは封印される前、世界を一色に染めようとしてた。今、封印が解けた。なら、またやるんじゃないのか?」
沈黙が流れた。
やがて——
『ふ...』
白縁が笑った。笑ったように見えた。
『ふふふ...』
黒縁も笑った。
『面白い人間だ』
『実に面白い』
「そうかい。褒め言葉として受け取っておくよ」
『お前の言う通りだ』
白縁が言った。
『我らは止まらない。封印が解けた以上、使命を果たすまで止まらない』
『全てを一色に染める。それが我らの存在意義だ』
黒縁が言った。
『お前が解放しようがしまいが、いずれこの時は来た』
『お前は、その時を少し早めただけだ』
ジョーカーは笑った。
「そうかい。なら、せいぜい頑張ってくれ」
『だが』
白縁が言った。
『一つ聞いておこう』
『お前自身はどうする』
黒縁が問うた。
『我らは全てを塗り替える。お前も例外ではない』
「ああ、分かってるよ」
ジョーカーは自分の手を見た。血がまだ滴っている。
「俺も染めてくれ。白でも黒でも構わない」
『なぜだ』
『なぜ自らを差し出す』
「だって」
ジョーカーは笑った。だが、その目は笑っていなかった。
「俺はどこにも属せないんだ。スペードでもハートでもダイヤでもクラブでもない。どこにも居場所がない」
『...』
「でもな、お前たちの世界なら違うだろ?白か黒か、どっちかに染まれば、俺も仲間に入れてもらえる。平等になれる」
沈黙が流れた。
『愚かな』
白縁が言った。
『だが、その愚かさは嫌いではない』
黒縁が言った。
『いいだろう。お前も塗り替えてやる』
『だが、最後にだ』
『まずは、他の全てを塗り替える』
『お前は、それを見届けろ』
ジョーカーは頷いた。
「ああ、見届けてやるよ。この腐った世界が終わるところを」
---
白縁と黒縁が、腕を広げた。
いや、腕があるのかどうかも分からない。ただ、二つの影が大きく膨れ上がった。
『目覚めよ、我が同胞たちよ』
白縁の声が響く。
『長き眠りから覚めよ』
黒縁の声が響く。
地面が揺れた。
白と黒のマス目から、無数の影が立ち上がってくる。顔のない、人型の影。白い影と黒い影が、次々と。
「おいおい...」
ジョーカーは目を見開いた。
「こんなにいるのかよ」
影は増え続けた。十、百、千、万。数えきれないほどの影が、虚無の地を埋め尽くしていく。
『これが我らだ』
白縁が言った。
『反転の軍勢』
黒縁が言った。
『触れた者は、白か黒に染まる』
『抵抗は無意味だ』
『全ては一色になる』
影の軍勢が、一斉に動き出した。
盤上世界に向かって。
ジョーカーは、その光景を見つめていた。
「始まった」
呟いた。
「終わりの始まりだ」
---
同じ頃、将棋国では——
歩一は訓練場で汗を流していた。
「もう一本!」
木剣を振り下ろす。藁人形の首が飛ぶ。
「よし、次!」
隣で歩三も訓練していた。二人は毎日、夜明け前から日没まで、剣を振り続けていた。
「歩一、休憩しろよ。倒れるぞ」
「まだだ。まだ足りない」
歩一は剣を振り続けた。
帝国との戦争は続いている。いつ召集がかかるか分からない。その時のために、少しでも強くなっておかなければ。
「次の戦いでは、俺も前線に出る」
「俺もだ」
歩三が隣に並んだ。
「飛車殿の隊に配属されるらしい。お前もだろ?」
「ああ」
歩一は藁人形を見据えた。
「帝国の奴らを、一人でも多く倒す」
剣を振り下ろす。藁人形が真っ二つになる。
「強くなる。もっと強く。そして——」
歩一は空を見上げた。
「いつか、『成って』みせる」
---
訓練が終わり、歩一は兵舎に戻った。
「おう、歩一」
声をかけてきたのは、銀次郎だった。
「銀次郎殿」
「明日、作戦会議があるらしい。帝国への反撃作戦だとか」
「反撃...」
「ああ。そろそろ押し返す時だってさ」
銀次郎は拳を握りしめた。
「俺も参加する。銀三郎の分まで、戦う」
歩一は頷いた。
「俺も、家族の分まで」
二人は並んで歩いた。
「なあ、歩一」
「なんだ」
「この戦争、いつ終わると思う?」
歩一は考えた。
「分からない。でも、終わらせなきゃいけない。帝国を倒して、平和を取り戻す」
「そうだな」
銀次郎は空を見上げた。
「早く終わらせて、平和な世界を見たいもんだ」
「ああ」
二人は兵舎に入っていった。
---
医務室では、桂馬が松葉杖をついて歩く練習をしていた。
「くそ...」
右脚が言うことを聞かない。一歩進むたびに、激痛が走る。
「桂馬殿、無理をなさらないでください」
医師が制止するが、桂馬は止まらなかった。
「無理をしないと、何も変わらない」
一歩。また一歩。
窓の外を見た。
訓練場で、若い兵士たちが剣を振っている。歩一の姿も見えた。
「あいつらは、帝国との戦いに備えている」
桂馬は呟いた。
「だが...」
ジョーカーの言葉が、頭から離れなかった。
「俺は新しいカードを切るだけさ」
あの男は、北西の果てへ向かった。何をしに行ったのか。
「嫌な予感がする」
桂馬は北西の空を見つめた。
何も見えない。いつもと同じ空。
だが、胸騒ぎが止まらなかった。
---
その夜、歩一は夢を見た。
白い世界。
どこまでも続く、白い世界。
その中を、歩いている。
「ここは...どこだ」
声が響かない。音がない。何もない。
ただ、白いだけ。
『お前は何色だ』
声が聞こえた。
どこから聞こえるのか分からない。
「何色...?」
『答えろ。お前は何色だ』
「俺は...」
答えようとして、気づいた。
自分の体が、白く染まっていく。
「なっ...!?」
足元から、白い色が這い上がってくる。
「やめろ...!」
叫んだ瞬間——
目が覚めた。
「はあっ...!はあっ...!」
汗だくで、ベッドから飛び起きた。
「夢...か...」
心臓が激しく鳴っている。
「何だったんだ、今の...」
窓の外を見た。
まだ夜明け前。空は暗い。
だが、北西の方角だけ、妙に白く見えた気がした。
「気のせい、か...」
歩一は首を振り、再びベッドに横たわった。
眠れなかった。
---
虚無の地では——
白と黒の軍勢が、進軍を開始していた。
無数の影が、盤上世界に向かって進んでいく。静かに。だが、確実に。
ジョーカーは、その後ろ姿を見つめていた。
「行ったか」
呟いた。
白縁と黒縁は、軍勢の先頭にいた。二つの影が、世界を導いていく。
「さて、俺も行くか」
ジョーカーは歩き出した。
「見届けてやるよ。この腐った世界が終わるところを」




