第5話 道化の仮面
トランプ連邦。
四つの家が支配する、商人たちの国。
スペード、ハート、ダイヤ、クラブ。それぞれの家が議席を持ち、合議制で国を治めている。表向きは民主的だが、実態は利権と陰謀が渦巻く世界だった。
その首都、シャッフル・シティの裏路地を、一人の男が歩いていた。
派手な衣装。白塗りの顔。口元に描かれた、歪んだ笑み。
ジョーカー。
トランプ連邦において、どのスートにも属さない異端の存在。
その手は、返り血で濡れていた。
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「仕事は終わったか」
スペード家の屋敷。その最奥の部屋で、スペードのキングは玉座に座っていた。
「ええ、綺麗さっぱり」
ジョーカーは大げさに一礼した。道化らしい、芝居がかった仕草。
「ダイヤ家の商人、三人。川で溺死、馬車の転落事故、食あたり。バラエティ豊かに仕上げておきました」
「手際がいいな」
キングは書類に目を落としたまま言った。
「で、報酬の話なんですがね」
ジョーカーは指を三本立てた。
「三人分ですから、銀貨三百でどうです?一人百、お買い得ですよ」
「百五十だ」
「おいおい、キング様。命の値段をそんなに値切るんですか?死んだ商人たちが草葉の陰で泣いてますよ」
「お前が殺したんだろう」
「それはそうですけど」
ジョーカーは肩をすくめた。
「まあいいでしょう。百五十で手を打ちます。道化は気前がいいんでね」
キングは従者に目配せした。革袋が投げ渡される。
「次の仕事だ」
「おや、もう次ですか。人使いが荒いなあ」
「クラブ家に内通者がいる。始末しろ」
「内通者退治ね。了解しました」
ジョーカーは革袋を受け取りながら、わざとらしく溜息をついた。
「しかしキング様、たまには休暇をくれませんかね。道化だって疲れるんですよ。温泉にでも行きたい気分です」
「道具に休暇はない」
キングの声が、急に冷たくなった。
「お前は道具だ。私の命令に従い、汚れ仕事をこなす。それがお前の存在意義だ」
ジョーカーの笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
だが、すぐに道化の顔に戻る。
「おっと、これは手厳しい。道具扱いとは、傷つくなあ」
「傷つく心があるのか?」
「さあ、どうでしょうね」
ジョーカーは両手を広げた。
「俺は道化ですから。心なんて、あるんだかないんだか」
「ふん。三日以内に終わらせろ。行け」
「はいはい、了解しました」
ジョーカーは背を向けた。
扉に手をかけた時、キングの声が背中を刺した。
「ああ、一つ言っておく」
「なんです?」
「お前の代わりなど、いくらでもいる。使えなくなったら、捨てる。それだけのことだ」
ジョーカーは振り返った。
満面の笑みを浮かべて。
「ご心配なく。俺は丈夫だけが取り柄なんで。そう簡単には壊れませんよ」
扉を開け、出ていく。
扉が閉まった瞬間——
ジョーカーの笑みが、消えた。
廊下に一人残されたジョーカーは、壁にもたれかかった。
「道具、か」
呟きは、誰にも届かなかった。
革袋を見下ろす。百五十枚の銀貨。三人の命の値段。
「安いもんだな、人の命ってのは」
その目には、何の感情も浮かんでいなかった。
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ジョーカーの住処は、シャッフル・シティの外れにある廃墟だった。
かつては孤児院だった建物。ジョーカーが幼い頃を過ごした場所。今は誰も住んでいない。壁は崩れ、床は腐り、屋根には穴が開いている。
「ただいま」
誰もいない部屋に、ジョーカーは声をかけた。
返事はない。当たり前だ。
ジョーカーは床に座り込み、天井を見上げた。穴から星が見える。
仮面を外すように、道化の笑みが消えていく。
そこにいたのは、ただ疲れ切った一人の男だった。
「今日も生き延びた」
それだけが、ジョーカーの日常だった。
誰かのために生きているわけではない。何かを成し遂げたいわけでもない。ただ、死ぬ理由がないから生きている。それだけだ。
「なあ」
誰にともなく、ジョーカーは呟いた。
「俺は何のために生まれてきたんだろうな」
返事はない。
ジョーカーは目を閉じた。
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翌日、ジョーカーは街を歩いていた。
クラブ家の内通者を探すため、情報を集めている。酒場を回り、娼館を覗き、路地裏の情報屋に金を握らせる。いつもの仕事だ。
「ジョーカー」
声をかけられて振り返ると、赤い衣装の若者が立っていた。ハートのジャック。
「おや、これはジャック様。わざわざこんな汚い路地裏まで、どんな風の吹き回しで?」
ジョーカーは大げさにお辞儀した。
「靴が汚れますよ。坊ちゃんの足には不釣り合いだ」
「坊ちゃんはやめろ」
ジャックは眉をひそめた。
「お前を探してたんだ。昨日、ダイヤ家の商人が三人死んだって聞いた」
「ああ、悲しい事故でしたねえ」
ジョーカーは空を見上げて、わざとらしく嘆いた。
「一人は川で溺れ、一人は馬車で崖から落ち、一人は晩飯に当たった。なんとも不運な方々だ。俺は涙が止まりませんよ」
「お前の仕業だろう」
「人聞きが悪いなあ。俺はただの道化ですよ。人殺しなんて、できるわけがない」
ジョーカーは両手を広げて見せた。
「ほら、この手を見てください。こんな細い手で、人が殺せると思います?」
「嘘つけ。その手で何人殺した」
ジャックの声が鋭くなった。
「お前、スペードのキングに何をやらされてる。暗殺か?諜報か?」
ジョーカーは笑みを消さなかった。
だが、その目だけが、冷たく光った。
「全部だよ」
声のトーンが変わった。
「暗殺、諜報、脅迫、拷問。何でもやる。それが俺の仕事だ」
「なぜそんな...」
「なぜ?」
ジョーカーは首を傾げた。道化の仕草。だが、目は笑っていなかった。
「他に何ができる?俺はどの家にも属してない。スペードでもハートでもダイヤでもクラブでもない。どこにも居場所がない人間に、まともな仕事なんかあるわけないだろ」
ジャックは言葉を失った。
「同情するなよ、ジャック」
ジョーカーは再び笑みを浮かべた。今度は、どこか自嘲的な笑みだった。
「お前はハートの家に生まれた。俺は何も持たずに生まれた。それだけの違いだ。お前が悪いわけじゃない」
「俺は——」
「お前は何も分かっちゃいない」
ジョーカーの声が、静かに、だが確実に冷たくなった。
「生まれた時から何も持ってない奴の気持ちなんか、お前には分からない。分かろうとするな。不愉快だ」
ジャックは黙り込んだ。
「じゃあな。俺は仕事がある」
ジョーカーは背を向けて歩き出した。数歩進んで、ふと振り返る。
「ああ、そうだ。一つ忠告しておくよ」
「なんだ」
「俺に関わるな。俺と親しくしてると、お前まで汚れる。ハートの家の坊ちゃんには、もっと清潔な友人がお似合いだ」
軽い口調だった。冗談めかした言い方だった。
だが、その目は笑っていなかった。
「ジョーカー——」
「じゃあね、ジャック様。ご機嫌よう」
ジョーカーは大げさに帽子を取って一礼し、路地の闇に消えていった。
ジャックは、その背中を見送った。
「同情なんかじゃない...」
呟いたが、その言葉はジョーカーには届かなかった。
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数日後、ジョーカーは新たな任務を受けた。
「将棋国とチェス帝国の戦場を偵察しろ」
スペードのキングの命令だった。
「戦況を把握したい。両国の戦力、士気、弱点。全て報告しろ」
「へえ、戦場見物ですか。物騒な観光だなあ」
ジョーカーは肩をすくめた。
「流れ矢に当たったら労災出ます?」
「出ない」
「ですよねえ」
ジョーカーは溜息をついた。
「で、報酬は」
「成功すれば銀貨百枚」
「安い安い。命がけの仕事なのに」
「嫌なら断れ」
「断りませんよ。道化は仕事を選ばないんでね」
ジョーカーは立ち上がった。
「武器を売るためですか。戦況を見て、どっちに売りつけるか決めると」
「察しがいいな」
「まあ、分かりやすい話ですから」
ジョーカーは扉に向かった。
「両方に売れば、両方から金が取れる。いい商売ですね、戦争って」
「皮肉か?」
「まさか。感心してるんですよ」
ジョーカーは振り返らずに言った。
「人の命で金を稼ぐ。実に合理的だ。俺には真似できない」
扉が閉まった。
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将棋国とチェス帝国の国境地帯。
ジョーカーは丘の上から、戦場を見下ろしていた。
地獄だった。
平原一面に、死体が転がっている。将棋国の鎧、チェス帝国の甲冑。入り乱れて倒れている。
まだ戦闘は続いていた。
怒号が響く。剣戟の音が響く。悲鳴が響く。
「突撃だ!押し込め!」
将棋国の飛車隊が突進する。
「陣形を保て!押し返せ!」
チェス帝国のルーク隊が迎え撃つ。
ぶつかり合う。斬り合う。殺し合う。
ジョーカーは、その光景を見つめていた。
道化の笑みが、いつの間にか消えていた。
「...なんだ、これは」
呟いた。
戦場では、兵士たちが必死で戦っていた。国のために。仲間のために。守りたいもののために。
一人の若い兵士が斬られた。将棋国の歩兵だ。
「がっ...!」
血を吐いて倒れる。
「歩七!畜生、歩七がやられた!」
仲間の兵士が駆け寄る。
「しっかりしろ!死ぬな!」
「...すまない...。先に...行く...」
歩七と呼ばれた兵士は、仲間の腕の中で息絶えた。
「歩七...!歩七...!」
仲間の兵士は泣いていた。敵の攻撃を受けながら、死んだ仲間を抱きしめて泣いていた。
「畜生...!畜生...!帝国の奴ら...!絶対に許さねえ...!」
憎しみ。怒り。悲しみ。
全てが混じり合って、戦場を覆っていた。
ジョーカーは、それを見ていた。
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日が傾き、戦闘が終わった頃、平原は完全に死体で埋め尽くされていた。
将棋国の兵士たちが、仲間の死体を回収している。
「あいつは俺の友達だったんだ...」
「畜生、なんでお前が死ぬんだよ...」
「必ず仇を取るからな...絶対に...」
悲しみの声。怒りの声。憎しみの声。
チェス帝国の陣地からも、同じような声が聞こえてくる。
「弟の仇...必ず取る...」
「将棋国の蛮族ども...皆殺しにしてやる...」
ジョーカーは立ち上がった。
「仇を取る、か」
呟いた。
「仇を取って、また殺して、また仇を取られて、また殺して」
笑みはなかった。
「終わりがないな」
ジョーカーは戦場に背を向けた。
「みんな同じだ」
歩き出しながら、呟いた。
「殺し合って、憎み合って、それでも終わらない。将棋もチェスもトランプも、みんな同じだ」
その目に、暗い光が宿った。
「こんな世界」
足を止めた。
「一回全部消えちまえばいい」
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トランプ連邦に戻ったジョーカーは、スペードのキングに報告を行った。
「お帰りなさい、キング様。お土産は戦場の空気です。血の匂いが染み付いてますよ」
「ふざけるな。報告しろ」
「はいはい」
ジョーカーは肩をすくめた。
「将棋国とチェス帝国、両軍ともに疲弊しています。長期戦になれば、どちらも持たないでしょう」
「どちらが有利だ」
「五分五分ですね。ただ、帝国の方が兵力は多い。将棋国は物資が不足しています」
「なるほど。なら、将棋国に武器を売りつけるか。足元を見れば、高く売れる」
「さすがキング様。商売上手だ」
ジョーカーは皮肉っぽく笑った。
「戦争が長引けば長引くほど、儲かりますもんね」
「当然だ」
キングは満足げに頷いた。
「報酬だ」
革袋が投げ渡された。
「銀貨百枚。約束通りだ」
「毎度あり」
ジョーカーは革袋を受け取った。
「他に何か任務は?」
「今はない。下がっていい」
「了解しました。じゃあ、しばらく休暇をいただきますよ。道化にも休息は必要なんで」
「好きにしろ」
ジョーカーは一礼して部屋を出た。
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廊下で、ジャックが待っていた。
「おや、ジャック様。こんなところで何を?俺を待ってたんですか?嬉しいなあ、モテ期到来かな」
「茶化すな」
ジャックは真剣な顔だった。
「お前、大丈夫か」
「大丈夫?何が?」
「顔色が悪い。何かあったのか」
「いやあ、旅の疲れですよ。戦場見物は体に堪える。やっぱり観光は温泉がいいですね」
ジョーカーはへらへらと笑った。
だが、ジャックは笑わなかった。
「...ジョーカー」
「なんです?」
「お前、本当のことを言えよ。俺には」
ジョーカーは足を止めた。
しばらく、沈黙が流れた。
「...ジャック」
「なんだ」
「お前は、この世界を変えたいと思うか」
「急に何だよ」
「いいから答えろ」
ジャックは少し考えて答えた。
「変えたいさ。この国のやり方は間違ってる。戦争で金を稼いで、人の命を食い物にして。そんなのは間違ってる」
「そうか」
ジョーカーは歩き出した。
「ジョーカー、お前——」
「俺も変えたいと思ってるよ」
振り返らずに言った。
「ただ、お前とは方法が違うかもしれないがな」
「どういう意味だ」
ジョーカーは答えなかった。
代わりに、軽く手を振った。
「じゃあね、ジャック様。また会おう。次に会う時は、もっと楽しい話をしよう」
道化の口調だった。軽い、飄々とした声だった。
だが、その背中には、何か重いものが張り付いているように見えた。
ジャックは、その背中を見送った。
「何を考えてるんだ、あいつは...」
胸騒ぎがした。
だが、その意味を理解するのは、もっと後のことだった。
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その夜、ジョーカーは廃墟の自室で天井を見つめていた。
戦場の光景が、頭から離れなかった。
死体の山。血の海。憎しみの連鎖。
仲間の死を嘆く兵士。仇を誓う兵士。殺し、殺され、憎み、憎まれ、終わりのない連鎖。
「みんな同じだ」
呟いた。
「将棋もチェスもトランプも、みんな殺し合ってる。憎み合ってる。誰も幸せになんかなれない」
ジョーカーは目を閉じた。
「この世界は腐ってる」
確信だった。
生まれた時から、何も持っていなかった。どこにも属せなかった。誰にも必要とされなかった。
それでも生きてきた。いつか、何かが変わると思っていた。どこかに、自分の居場所があると思っていた。
だが、何も変わらなかった。
世界は相変わらず残酷で、人は相変わらず醜い。金持ちは貧乏人を踏みつけ、強い者は弱い者を虐げる。国同士は殺し合い、憎しみは連鎖する。
スペードのキングは自分を道具と呼んだ。壊れたら捨てると言った。
それが、この世界の真実だ。
誰もが誰かを利用し、誰もが誰かを踏みつけている。
「終わりがない」
ジョーカーは立ち上がった。
「なら、俺が終わらせてやる」
窓の外を見た。
月が出ていた。白い光が、廃墟を照らしている。
「この世界を、一回リセットしてやる」
その決意が、いつ、どのように形になるのか。
ジョーカー自身にも、まだ分からなかった。
だが、種は蒔かれた。
やがてそれは芽を出し、盤上世界全てを飲み込む災厄となる。




