第4話 金銀の盾
帝国軍が動いた。
補給線を叩かれた痛手から立ち直り、今度は大軍を率いての正面突破。その数、五千。将棋国がこれまで相手にした中で、最大の規模だった。
「目標は首都か」
王将は地図を睨んでいた。
「このまま進めば、三日で城壁に届く」
「迎撃しますか」
金将が問う。王将の側近を務める双子の兄、金左衛門。その隣には弟の金右衛門が控えている。
「飛車と角行は負傷中だ。正面からぶつかるのは厳しい」
「ならば、防衛戦ですな」
金右衛門が地図を指さした。
「ここ、鶴翼の丘。首都の手前にある要所です。ここで敵を食い止めれば——」
「時間は稼げる」
王将は頷いた。
「だが、誰が守る」
「我々が」
金左衛門が一歩前に出た。
「金将の役目は王を守ること。ならば、王のいる首都を守るのも、我々の務めです」
「俺もお供します」
声を上げたのは、銀将だった。若き実力者、銀次郎。その隣には、同じく銀将の銀三郎が立っている。
「銀将隊も防衛に加わります。金将殿だけに任せてはおけません」
「銀次郎...」
金左衛門が振り返った。
「お前たちはまだ若い。無理をするな」
「無理ではありません」
銀次郎の目は真剣だった。
「俺たちだって、国を守りたいんです」
王将は二組の将を見つめた。
金将と銀将。王を守る盾であり、将棋国の守備の要。彼らがいなければ、王は裸同然だ。
「...分かった」
王将は決断した。
「金将、銀将、両隊で鶴翼の丘を守れ。援軍が届くまで、三日持ちこたえろ」
「御意」
四人が同時に頭を下げた。
「必ず、守り抜きます」
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鶴翼の丘は、首都から半日の距離にある小高い丘だった。
両側を森に囲まれ、正面は緩やかな斜面。守るには適しているが、敵の数が多ければ包囲される危険もある。
「陣を敷け!」
金左衛門の号令で、兵士たちが動き始めた。柵を立て、堀を掘り、弓の射線を確保する。
「金将殿」
銀次郎が駆け寄ってきた。
「斥候からの報告です。帝国軍は明朝には到着するとのこと」
「思ったより早いな」
金左衛門は丘の上から平野を見渡した。
「準備を急げ。夜通しになるぞ」
「はい」
銀次郎が去ろうとした時、金左衛門が呼び止めた。
「銀次郎」
「はい」
「お前、『成る』ことに焦っていないか」
銀次郎は足を止めた。
「...何のことですか」
「隠すな。お前の目を見れば分かる」
金左衛門は振り返らずに言った。
「銀将は『成れば』金将になれる。お前はそれを望んでいる」
沈黙が流れた。
「...はい」
銀次郎は認めた。
「俺は、早く強くなりたい。金将殿のように、王を守れる存在になりたい。だから——」
「焦るな」
金左衛門の声は厳しかった。
「『成る』ことは、敵陣深くまで進んだ証だ。だが、そこに至るまでに死んでは意味がない」
「分かっています。でも——」
「分かっていない」
金左衛門は振り返った。
「俺も若い頃はお前と同じだった。早く強くなりたい。早く認められたい。そう思って、無茶をした」
金左衛門は自分の左腕を見た。肘から先がない。
「この腕は、その時に失った」
銀次郎は息を呑んだ。金左衛門の左腕がないことは知っていた。しかし、その理由を聞いたのは初めてだった。
「俺は生き残った。だが、一緒にいた仲間は死んだ。俺の無茶に巻き込まれて」
金左衛門の目が、遠くを見ていた。
「それ以来、俺は誓った。二度と焦らない。二度と、仲間を無駄死にさせないと」
「金将殿...」
「お前は才能がある。いずれ必ず『成る』時が来る。だが、今はまだその時ではない」
金左衛門は銀次郎の肩に手を置いた。
「今は、生き残ることを考えろ。生きていれば、いくらでも機会はある」
銀次郎は、しばらく黙っていた。
「...はい」
やがて、小さく頷いた。
「肝に銘じます」
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夜が更けても、陣地の構築は続いた。
歩一は、他の歩兵たちと共に柵を立てていた。
「おい、歩一」
声をかけてきたのは歩三だった。
「お前、怖くないのか」
「怖い?」
「明日、帝国軍が来るんだぞ。五千だぞ。俺たちは千もいないのに」
歩三の声は震えていた。無理もない。初めての大規模戦闘だ。
「怖いさ」
歩一は正直に答えた。
「怖くないわけがない」
「じゃあ、なんでそんな平気な顔してんだよ」
「平気じゃない。ただ——」
歩一は柵を打ち付けながら言った。
「——怖がっていても、やることは変わらないだろ」
歩三は黙った。
「逃げるわけにはいかない。戦うしかない。なら、怖がっている暇があったら、一本でも多く柵を立てた方がいい」
「...お前、変わったな」
歩三が呟いた。
「前は、もっと普通だったのに」
「普通じゃいられなくなっただけだ」
歩一は空を見上げた。星が瞬いている。あの日、家族を失った夜と同じ星。
「俺は、もう何も失いたくない。だから、やれることを全部やる」
歩一は柵を打ち付けた。
「お前も手を動かせ、歩三。朝までに終わらせるぞ」
「...ああ」
歩三も柵に手をかけた。
二人は黙々と作業を続けた。
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夜明けと共に、帝国軍が姿を現した。
地平線を埋め尽くす白銀の軍勢。その数、五千。将棋国の防衛隊の五倍以上だ。
「来たか」
金左衛門は丘の上に立ち、敵軍を見下ろしていた。
「金将殿、敵の先頭にルーク隊の旗印が見えます」
「ルークか...」
ルーク。チェス帝国において、飛車と同じ「直線」の動きをする駒。巨大な体躯と圧倒的な突進力を持つ、攻城の要だ。
「正面突破で来る気だな」
金左衛門は剣を抜いた。
「全軍、迎撃準備!」
号令と共に、兵士たちが配置についた。弓兵が矢を番え、槍兵が柵の後ろに並ぶ。
帝国軍が動き出した。
「弓隊、構え!」
金左衛門が手を上げる。
敵が射程に入る。
「放て!」
矢の雨が降り注いだ。
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最初の波は、何とか押し返した。
だが、敵の数は圧倒的だった。一つ波を退けても、すぐに次が来る。柵は破られ、堀は埋められ、防衛線は徐々に後退していった。
「くそっ...!」
銀次郎は剣を振るいながら歯噛みした。
敵が多すぎる。斬っても斬っても、次から次へと湧いてくる。
「銀次郎、無理をするな!」
金右衛門が叫んだ。
「陣形を維持しろ!突出するな!」
「分かっています!でも——」
その時、轟音と共に柵が吹き飛んだ。
ルーク隊だ。
巨大な体躯の兵士たちが、力任せに防衛線を突破してきた。その先頭に、ひときわ大きな影。ルーク隊長だ。
「退け、小物ども」
ルーク隊長の声は、地鳴りのように低かった。
「我らの前に立つな。踏み潰されたくなければ」
「誰が退くか!」
銀次郎が斬りかかった。
しかし、ルーク隊長は剣を片手で受け止めた。
「銀将か。若いな」
「っ...!」
銀次郎は力で押し返された。体格差がありすぎる。
「若さは美徳だが、戦場では弱さだ」
ルーク隊長が剣を振り上げた。
「ここで死ね」
銀次郎は動けなかった。足が竦んでいた。死が、目の前に迫っている。
これまでか——
「させるか!」
叫び声と共に、誰かが銀次郎を突き飛ばした。
銀三郎だった。
ルーク隊長の剣が、銀三郎の体を貫いた。
「銀三郎...!?」
銀次郎は地面に倒れたまま、信じられない光景を見た。
銀三郎の胸から、剣が生えている。
「なん...で...」
「お前は...死ぬな...」
銀三郎は血を吐きながら、それでも笑っていた。
「お前は...『成る』んだろ...。金将に...なるんだろ...」
「銀三郎!」
「俺は...お前みたいに...才能がなかったから...」
銀三郎の目から、涙が溢れた。
「せめて...お前を...守りたかった...」
「馬鹿野郎!そんなことのために——」
「馬鹿野郎は...お前だ...」
銀三郎の手が、銀次郎の頬に触れた。
「生きろ...。『成って』...俺の分まで...」
手が、力を失って落ちた。
「銀三郎...?銀三郎!」
返事はなかった。
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「おのれェェェ!」
銀次郎の絶叫が、戦場に響いた。
立ち上がり、剣を握りしめる。全身が怒りで震えていた。
「殺す...!殺してやる...!」
銀次郎はルーク隊長に斬りかかった。
「愚かな」
ルーク隊長が剣を振るう。銀次郎は吹き飛ばされたが、すぐに立ち上がって再び斬りかかる。
「死ね!死ね!死ねェェェ!」
もはや剣術ではなかった。ただの暴力。ただの怒り。
「哀れだな」
ルーク隊長が剣を振り上げた。
「仲間の後を追え」
その時——
「銀次郎!」
金右衛門が飛び込んできた。
ルーク隊長の剣を、自らの盾で受け止める。
「金右衛門殿...!」
「下がれ、銀次郎!」
金右衛門は銀次郎を庇いながら、ルーク隊長と対峙した。
「ほう、金将か」
「お前の相手は俺だ」
金右衛門は盾を構えた。
「銀次郎、兄上のところへ行け。俺がここは持たせる」
「でも——」
「行け!」
金右衛門の叫びに、銀次郎は弾かれたように走り出した。
「逃がすか」
ルーク隊長が追おうとするのを、金右衛門が阻む。
「俺が相手だと言っただろう」
「邪魔だ」
ルーク隊長の剣が唸った。金右衛門は盾で受けるが、衝撃で後ろに下がる。
「金将は守りの駒だ。攻撃力では俺に勝てん」
「ああ、その通りだ」
金右衛門は血を拭いながら笑った。
「だが、守ることなら負けん」
---
銀次郎は、金左衛門のもとへ走った。
「金将殿!」
「銀次郎か。銀三郎は——」
銀次郎の顔を見て、金左衛門は全てを悟った。
「...そうか」
金左衛門は目を閉じた。
「金右衛門は」
「俺を逃がすために、ルーク隊長と」
「そうか」
金左衛門は剣を握り直した。
「銀次郎、お前はここで指揮を執れ」
「え...?」
「俺は弟を助けに行く」
「待ってください!俺も——」
「駄目だ」
金左衛門は銀次郎の肩を掴んだ。
「お前は生き残れ。銀三郎の分まで」
「でも——」
「これは命令だ」
金左衛門の目は、厳しく、そして優しかった。
「お前は才能がある。いずれ必ず『成る』。その時まで、生き延びろ」
銀次郎は唇を噛んだ。
「...はい」
「よし」
金左衛門は走り出した。
「兄上!」
銀次郎の叫びが、背中を追った。
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金左衛門が戦場に戻った時、金右衛門は満身創痍だった。
盾は割れ、鎧は砕け、全身から血が流れている。それでも、ルーク隊長の前に立ち続けていた。
「しぶとい奴だ」
ルーク隊長が呆れたように言った。
「なぜそこまで抵抗する。勝ち目はないのに」
「勝ち目がなくても...守るものがある...」
金右衛門は膝をついた。もう立っていられない。
「俺は...金将だ...。王を...仲間を...守るのが...俺の...」
「もういい」
ルーク隊長が剣を振り上げた。
「楽にしてやる」
「させるか!」
金左衛門が飛び込んだ。
ルーク隊長の剣を、自らの剣で受け止める。
「兄上...」
「遅くなった」
金左衛門は弟を背に庇った。
「まだ動けるか」
「...なんとか」
「なら、俺に続け」
金左衛門はルーク隊長に向き直った。
「二人がかりか。卑怯だな」
「卑怯で結構」
金左衛門は剣を構えた。
「俺たちは勝つために戦っているんじゃない。守るために戦っている。手段は選ばん」
二人の金将が、ルーク隊長に向かって走った。
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戦いは壮絶を極めた。
金将の二人は、連携してルーク隊長を追い詰めていく。一人が攻撃を受け止め、もう一人が斬りかかる。金将ならではの、鉄壁の守りを活かした戦法だった。
「小賢しい...!」
ルーク隊長が吠えた。
「だが、守りだけでは俺は倒せん!」
ルーク隊長の剣が唸る。金左衛門が受け止めるが、衝撃で吹き飛ばされた。
「兄上!」
金右衛門が斬りかかるが、ルーク隊長は片手で剣を弾いた。
「所詮、金将は守りの駒だ。攻撃力が足りん」
「...ああ、その通りだ」
金左衛門は立ち上がった。
「俺たちは攻撃力では勝てん。だが——」
金左衛門は剣を捨て、盾を構えた。
「——守り続けることならできる」
金右衛門も剣を捨て、盾を構えた。
「俺たちは金将だ。王を守る盾。どんな攻撃も、俺たちは受け止める」
二人は並んで立った。
「来い、ルーク。お前の攻撃を、全て受け止めてやる」
ルーク隊長は、二人を見つめた。
満身創痍。もう立っているのがやっと。それでも、目だけは死んでいない。
「...面白い」
ルーク隊長は剣を下ろした。
「今日はここまでにしてやる」
「何...?」
「お前たちを殺しても、俺の得にはならん。それに——」
ルーク隊長は背を向けた。
「——お前たちの目は、嫌いではない」
帝国軍に撤退の角笛が響いた。
「次に会う時は、容赦しない」
ルーク隊長が去っていく。
金左衛門と金右衛門は、その場に崩れ落ちた。
「...勝った、のか...?」
「分からん...。だが、生き残った...」
二人は空を見上げた。
陽が傾き始めていた。
---
日が暮れる頃、援軍が到着した。
飛車が、包帯だらけの体で馬を駆ってきた。
「遅くなった」
飛車は戦場を見渡した。
死体が散乱している。柵は破壊され、堀は埋まり、丘は血で染まっていた。
「...酷いな」
「ああ」
金左衛門は担架に横たわりながら答えた。
「だが、守り抜いた」
「銀三郎は」
金左衛門は目を閉じた。
「...死んだ」
飛車は何も言わなかった。ただ、拳を握りしめた。
「銀次郎は」
「生きている。だが、心の傷は深い」
「そうか」
飛車は銀次郎のいる方向を見た。
一人で座り込み、動かない。誰が声をかけても、反応しない。
「...俺が話す」
飛車は銀次郎のもとへ歩いていった。
---
「銀次郎」
飛車が隣に座った。
銀次郎は反応しなかった。ただ、血まみれの手を見つめていた。
「銀三郎のこと、聞いた」
「...」
「辛いだろう」
「...俺のせいです」
銀次郎の声は、枯れていた。
「俺が焦らなければ。俺が突出しなければ。銀三郎は死ななかった」
「そうかもな」
飛車は否定しなかった。
「お前のせいかもしれない。お前が未熟だったから、銀三郎は死んだのかもしれない」
銀次郎は顔を歪めた。
「だが、それでも」
飛車は銀次郎の肩に手を置いた。
「銀三郎は、お前を守って死んだ。それはお前の命に、銀三郎の命の分の価値があるということだ」
「俺に、そんな価値は——」
「ある」
飛車の声は、力強かった。
「銀三郎がそう判断した。それを否定するな」
銀次郎は俯いた。
「お前がすべきことは、自分を責めることじゃない。銀三郎の分まで生きて、銀三郎の分まで強くなることだ」
「...」
「泣けるなら泣け。悲しいなら悲しめ。だが、明日からは前を向け。銀三郎のために」
銀次郎の目から、涙が溢れた。
声を上げて泣いた。子供のように、恥も外聞もなく。
飛車は黙ってその隣にいた。
日が沈むまで、ずっと。
---
その夜、歩一は焚き火の前で歩三と並んで座っていた。
「俺たち、生き残ったな」
歩三が呟いた。
「ああ」
「銀三郎殿、死んじゃったな」
「...ああ」
歩一は火を見つめた。
「俺たちも、いつかああなるのかな」
「分からん」
歩一は正直に答えた。
「だが、今日は生き残った。明日も生き残る。それを繰り返すしかない」
「...お前、本当に変わったな」
「変わらざるを得なかったんだ」
歩一は空を見上げた。
星が瞬いている。あの日と同じ星。これからも変わらず、瞬き続ける星。
「なあ、歩三」
「なんだ」
「俺は『成る』よ」
歩三は歩一を見た。
「絶対に生き残って、敵陣まで進んで、『と金』になる。そして、誰かを守れる存在になる」
「...そうか」
歩三は小さく笑った。
「じゃあ、俺も『成る』よ。お前だけに格好つけさせないからな」
「ああ、一緒に『成ろう』」
二人は拳を突き合わせた。
遠くで、銀次郎の泣き声がまだ聞こえていた。
戦争は続く。仲間は死ぬ。それでも、残された者は生きていかなければならない。
歩一は、燃える薪を見つめた。
火は何かを奪い、何かを照らす。
あの日、村を焼いた炎は全てを奪った。だが今、目の前の炎は仲間たちの顔を照らしている。
同じ火なのに、こうも違う。
きっと、強さもそうなのだろう。
誰かを傷つける強さと、誰かを守る強さ。
銀三郎は、守る強さを持っていた。
「俺も、ああなれるかな」
歩一の呟きは、夜の闘に溶けて消えた。




