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第3話 角道を通す

角行は、斜めにしか進めない。


それは制約であり、同時に誇りでもあった。真っ直ぐ進む飛車とは違う。予測しづらい角度から、敵の死角を突く。それが角行の戦い方だ。


「角行殿、偵察隊からの報告です」


部下の声に、角行は地図から目を上げた。


「帝国軍の補給部隊が、渓谷沿いを通過中とのことです。護衛は少数」


「数は」


「補給部隊が約二百。護衛は五十程度かと」


「五十か」


角行は地図に目を戻した。渓谷沿いの道。両側を崖に挟まれた細い道だ。


「待ち伏せには最適だな」


「はい。ただ——」


部下が言い淀んだ。


「なんだ」


「護衛の旗印が、ビショップ隊のものだと」


角行の目が細くなった。


ビショップ。チェス帝国において、角行と同じ「斜め」の動きをする駒。参謀役であり、狙撃手であり、そして——


「俺と同じ、か」


角行は立ち上がった。


「遊撃隊を集めろ。出るぞ」


---


渓谷に到着したのは、翌日の昼過ぎだった。


角行率いる遊撃隊は五十名。少数精鋭だ。正面からぶつかる飛車隊とは違い、角行隊は隠密行動を得意とする。


「配置につけ。俺の合図があるまで動くな」


部下たちが岩陰に散っていく。角行自身は、渓谷を見下ろせる崖の上に陣取った。


やがて、谷底に動きが見えた。


帝国軍の補給部隊だ。荷馬車が列をなして進んでいる。食料、武器、医薬品。前線の帝国軍を支える生命線。


その周囲を、白いローブの兵士たちが守っている。ビショップ隊だ。


角行は目を凝らした。隊列の中央に、ひときわ大きな人影がある。白いローブに、銀の杖。あれが隊長か。


「角行殿、いつでも」


「待て」


角行は敵の動きを観察していた。ビショップ隊の配置。移動の速度。警戒の度合い。


「...なるほど」


角行は小さく呟いた。


敵の隊長は、わざと隙を作っている。


一見すると警戒が緩いように見える。だが、よく見ると要所要所に兵が配置されている。待ち伏せを誘い、逆に包囲する算段だ。


「罠か」


角行は口元を歪めた。


「だが、罠と分かっていれば——」


角行は弓を構えた。


「——逆に利用できる」


---


ビショップ隊長は、崖の上に微かな動きを感じていた。


「来たか」


口元に笑みが浮かぶ。予想通りだ。将棋国の遊撃隊が補給線を狙っている。情報は既に掴んでいた。


「皆、準備はいいな」


小声で部下に確認する。彼らは何気ない顔で荷馬車の周囲を歩いているが、いつでも戦闘態勢に移れる。


待ち伏せを待ち伏せする。それがビショップの策だった。


だが——


「隊長!後方に敵!」


叫び声が上がった瞬間、ビショップは目を見開いた。


後方?崖の上ではなく?


振り返ると、渓谷の入り口から将棋国の兵が突入してきていた。しかも、崖の上からも同時に矢が降り注ぐ。


「二方向からだと...!?」


ビショップは即座に状況を把握した。


敵は罠に気づいていた。そして、罠を逆手に取った。崖の上の部隊は囮。本命は、背後から回り込んだ別動隊。


「全員、戦闘態勢!隊形を——」


命令を言い終える前に、一本の矢がビショップの横を掠めた。


崖の上を見上げる。一人の男が弓を構えていた。将棋国の鎧。そして、「角」の旗印。


「角行...!」


ビショップは杖を構えた。


---


角行は崖から飛び降りた。


斜めに。岩から岩へ、不規則な軌道で降下する。ビショップ隊の兵士たちが矢を放つが、角行の動きは読めない。


「斜めにしか進めないのはお互い様だ」


角行は着地と同時に剣を抜いた。


「だが、斜めの使い方は俺の方が上だ」


ビショップ隊長が杖を振るった。杖の先端から光が放たれる。魔術か。角行は横に跳んで躱した。


「将棋国の角行か」


ビショップの声は、意外にも冷静だった。


「噂は聞いている。斜めの軌道で敵を翻弄する遊撃の名手。飛車と並ぶ将棋国の切り札」


「光栄だな、敵に名を知られているとは」


「私はビショップ。貴公と同じ、斜めにしか進めぬ駒だ」


二人は互いを見据えた。


同じ「斜め」の駒。同じ制約を持ち、同じ角度から世界を見る者同士。


「一つ聞いてもいいか」


角行が口を開いた。


「なぜ帝国は、我が国を侵略する」


「聖戦だ。貴公らは取った駒の魂を奪う。それは呪いだ」


「魂を奪う?」


角行は眉をひそめた。


「俺たちは取った駒を仲間に迎え入れる。奪うのではない。共に戦う同志として」


「詭弁だ」


ビショップの声が硬くなった。


「敵の駒を自軍に加えるなど、正気の沙汰ではない。それは支配であり、隷属だ」


「違う」


角行は剣を構えた。


「俺たちの国では、かつての敵も、仲間になれば対等だ。出自は問わない。将棋国に来た者は、皆、将棋国の民だ」


「...それが真実だと、証明できるのか」


「証明などできん。だが、俺は知っている」


角行の目が、真っ直ぐビショップを見た。


「俺の母は、かつて敵国の民だった」


ビショップが息を呑んだ。


「戦で捕らえられ、将棋国に来た。だが、父は母を妻として迎えた。俺は二つの国の血を引いている。それでも俺は、将棋国の角行だ。誰にも否定させない」


沈黙が流れた。


ビショップは、目の前の男を見つめた。この男は嘘を言っていない。その目を見れば分かる。


だが——


「それでも」


ビショップは杖を構え直した。


「私には私の使命がある。帝国の民として、聖戦を遂行する。それが私の役目だ」


「そうか」


角行も剣を構えた。


「ならば、これ以上の言葉は無意味だな」


「ああ」


二人が同時に動いた。


---


斜めの軌道が交錯する。


角行の剣とビショップの杖が、何度もぶつかり合った。二人の動きは似ていた。直線ではなく、斜め。予測しづらい角度からの攻撃。


「やはり、同じだな」


角行が呟いた。


「我々は」


ビショップも認めざるを得なかった。


国は違う。立場は違う。だが、この男と自分は、どこか通じるものがある。同じ制約を持ち、同じ角度から世界を見る者同士。


だからこそ——


「だからこそ、負けられん」


ビショップが杖を振り下ろした。光の刃が角行に迫る。


角行は横に跳んで躱したが、着地の瞬間、足元の岩が崩れた。


「しまっ——」


体勢を崩した角行に、ビショップの追撃が迫る。


角行は咄嗟に剣で受けたが、衝撃で吹き飛ばされた。岩壁に叩きつけられ、口から血が溢れる。


「終わりだ」


ビショップが杖を向けた。


「貴公は強かった。だが、ここまでだ」


角行は岩壁に背をつけたまま、ビショップを見上げた。


「...一つ、頼みがある」


「何だ」


「俺を殺した後、補給物資を届けたら、撤退してくれ」


ビショップは眉をひそめた。


「何を言っている」


「俺の部下たちは、俺が死んでも戦い続ける。だが、お前が撤退すれば、追撃はしない。無駄な血を流す必要はない」


「...敵に情けをかけろと?」


「情けじゃない」


角行は小さく笑った。


「お前とは、もう一度戦いたいと思っただけだ。ここで部下を皆殺しにされたら、次はない」


ビショップは角行を見つめた。


この男は、死を覚悟しながら、なおも次を見ている。敵である自分との再戦を望んでいる。


「...変わった男だ」


ビショップは杖を下ろした。


「何のつもりだ」


「今日は見逃してやる」


「は?」


角行は目を見開いた。


「補給物資は既に半分以上が破壊された。これ以上戦っても、得るものは少ない」


ビショップは背を向けた。


「それに——」


振り返らずに言った。


「——私も、もう一度貴公と戦いたいと思った。だから、今日は生かしておく」


角行は呆然とビショップの背中を見つめた。


「...変わった奴だな」


「お互い様だ」


ビショップは部下たちに撤退を命じた。


「次に会う時は、容赦しない」


「ああ、俺もだ」


帝国軍が撤退していく。角行はその場に座り込んだ。全身が痛む。骨が何本か折れているかもしれない。


だが、不思議と悪い気分ではなかった。


「角行殿!」


部下たちが駆け寄ってきた。


「ご無事ですか!」


「ああ、何とかな」


角行は空を見上げた。


「補給線は叩けたか」


「はい、荷馬車の大半を破壊しました」


「そうか。なら、任務は成功だ」


角行は目を閉じた。


ビショップ。あの男のことを、しばらく忘れられないだろう。


敵だ。殺し合う相手だ。だが——


「...通じるものを感じた」


それは認めざるを得なかった。


---


将棋国の首都に、角行隊の帰還の報が届いたのは、数日後だった。


「補給線の破壊に成功。帝国軍は一時撤退を余儀なくされた」


報告を聞いた王将は、静かに頷いた。


「角行の怪我は」


「重傷ですが、命に別状はないとのことです」


「そうか」


王将は窓の外を見た。


「飛車といい角行といい、俺の代わりに傷ついていく」


「王将」


傍らに立つ金将が口を開いた。


「それが我々の役目です。王を守り、国を守る。そのために我々は存在する」


「分かっている」


王将は拳を握った。


「だが、いつまでも守られているだけではいられない。俺も——」


「なりません」


金将が即座に遮った。


「王将が前線に出ることは許されません。貴方が倒れれば、国が終わります」


「...ああ、分かっている」


王将は溜息をついた。


それが王の宿命だ。最も守られ、最も動けない駒。前線で戦う仲間たちを見送り、ただ待つことしかできない。


だが、それでも——


「俺にできることをする」


王将は振り返った。


「金将、全軍に通達しろ。角行隊の功績を称え、負傷者には最高の治療を。そして——」


王将の目に、決意が宿った。


「——次の作戦を立案する。帝国を、押し返す」


---


一方、角行は医務室のベッドで天井を見つめていた。


全身に包帯が巻かれ、動くこともままならない。しかし、頭は冴えていた。


「角行殿」


入ってきたのは、飛車だった。


「見舞いか」


「ああ。死にかけたと聞いてな」


飛車は乱暴に椅子を引き、ベッドの横に座った。


「で、どうだった。帝国のビショップとやらは」


「...強かった」


角行は正直に答えた。


「そして、どこか通じるものを感じた」


「通じるもの?敵にか?」


「ああ」


角行は目を閉じた。


「あいつも斜めにしか動けない。俺と同じ制約を持っている。だからこそ、分かることがある」


「例えば?」


「斜めからしか世界を見られない者の孤独、とでも言うか」


飛車は黙って角行の言葉を聞いていた。


「真っ直ぐ進むお前には分からんかもしれんが」


角行は薄く笑った。


「斜めにしか進めない俺たちは、常に中心から外れている。正面からぶつかれない。いつも横から、陰から、斜めから見ている」


「...それが嫌か」


「いや」


角行は首を振った。


「嫌ではない。それが俺だ。だが、同じ制約を持つ者と出会って——」


角行はビショップの顔を思い出した。


「——少し、救われた気がした」


飛車は何も言わなかった。ただ、友の言葉を静かに受け止めていた。


「次に会ったら、殺し合うことになる」


角行は目を開けた。


「それでも、あいつのことは忘れない」


「...そうか」


飛車は立ち上がった。


「お前の気持ちは分からんでもない。俺にもいる。殺し合う相手だが、忘れられない奴が」


「ナイトか」


「ああ」


飛車は窓の外を見た。


「弟を殺した。あいつは俺を憎んでいる。次に会ったら、どちらかが死ぬまで戦うことになる」


「...そうか」


「だが、それでも」


飛車は振り返った。


「あいつのことは認めている。強い男だ。敵として、申し分ない」


二人は顔を見合わせた。


「俺たちは」


角行が呟いた。


「敵を憎みきれないのかもしれんな」


「かもな」


飛車は肩をすくめた。


「だが、それでも戦う。国のために。仲間のために。それが俺たちの役目だ」


「ああ」


角行は頷いた。


「それが、俺たちの戦い方だ」


---


歩一は、訓練場で素振りを続けていた。


日が暮れても、月が昇っても、剣を振り続ける。筋肉が悲鳴を上げても、手の皮が剥けても、止まらない。


「おい、歩一」


声をかけてきたのは、同じ歩兵の仲間だった。歩三。歩一より少し年下の、気のいい少年だ。


「いつまでやってんだよ。もう夜だぜ」


「まだだ」


歩一は剣を振り続けた。


「まだ足りない」


「足りないって、何が」


「全部だ」


歩一の目は、真っ直ぐ前を見ていた。


「飛車殿は、次の戦いに俺を連れていくと言った。だが、今の俺では足手まといになる」


「そんなことないだろ」


「ある」


歩一は剣を止めた。


「俺は、あの日、何もできなかった」


歩三は黙った。歩一の過去は、皆が知っていた。


「家族を殺された。妹を目の前で殺された。俺は何もできなかった。ただ、立っていただけだ」


剣を握る手が、震えていた。


「もう、あんな思いはしたくない。誰かが殺されるのを、ただ見ているだけなんて」


「歩一...」


「だから、強くなる」


歩一は再び剣を構えた。


「成るんだ。敵陣の奥深くまで進んで、『と金』に成る。そうすれば、もっと強くなれる。もっと、誰かを守れるようになる」


歩一は剣を振り下ろした。


「だから、今は——」


振り上げる。


「——止まらない」


振り下ろす。


歩三は、友の姿をしばらく見つめていた。そして、自分も木剣を手に取った。


「俺も付き合うよ」


「歩三...」


「お前だけに格好つけさせるかよ。俺だって、成りたいんだ」


歩三は歩一の隣に立った。


「一緒に強くなろうぜ。一緒に、前に進もう」


歩一は、初めて笑った。


「...ああ」


二人の素振りの音が、夜の訓練場に響いた。


---


月が、静かに二人を照らしていた。


戦争は続く。


将棋国とチェス帝国。二つの国の間の溝は、まだ深い。


だが、戦場では、敵同士でも通じ合うものがあった。


角行とビショップ。飛車とナイト。


そして、歩兵たちは、一歩ずつ前に進み続ける。


いつか「成る」日を夢見て。


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