第2話 飛車の咆哮
訓練が始まって、二週間が経った。
歩一の体は悲鳴を上げていた。毎日夜明け前から日没まで、走り、剣を振り、陣形を組み、また走る。村での農作業も楽ではなかったが、比べ物にならない。
「遅い!死にたいのか!」
飛車の怒号が訓練場に響く。歩一を含む新兵たちは、もはや返事をする余裕もなく走り続けた。
「戦場では一瞬の遅れが命取りになる!敵は待ってくれんぞ!」
飛車は自らも先頭を走りながら叫ぶ。この男は部下に厳しいが、自分にはもっと厳しい。誰よりも早く起き、誰よりも遅く眠る。それが飛車という男だった。
「歩一!お前はまだ動ける!前に出ろ!」
名指しされた歩一は、歯を食いしばって足を速めた。肺が焼けるように熱い。視界が霞む。それでも止まらなかった。止まったら、あの日の自分に戻ってしまう気がした。何もできず、ただ立ち尽くしていたあの日に。
訓練が終わる頃には、新兵の半数が地面に倒れ込んでいた。歩一も膝をついて荒い息を吐いていた。
「今日はここまでだ」
飛車が水筒を投げてよこした。
「飲め。脱水で死なれても困る」
歩一は震える手で水筒を受け取り、一気に飲み干した。冷たい水が喉を通り、干からびた体に染み渡る。
「お前、筋はいいな」
飛車が歩一の隣にしゃがみ込んだ。
「村で何かやっていたか」
「...畑仕事くらいです」
「そうか。鍬を振る動きと剣を振る動きは似ている。体が覚えているんだろう」
飛車は立ち上がり、西の空を見た。
「明日、俺は前線に出る」
歩一は顔を上げた。
「帝国が動いた。沿岸部を制圧した連中が、内陸に進軍を始めた。このままでは中央の穀倉地帯が落ちる」
「俺も——」
「お前はまだ早い」
飛車は振り返らずに言った。
「死ににいくだけだ。もう少し鍛えてから来い」
「でも——」
「これは命令だ」
飛車の声に、有無を言わさぬ響きがあった。歩一は唇を噛んで黙り込んだ。
「...焦るな」
飛車は少しだけ声を和らげた。
「お前が死んだら、お前の村の連中は誰が弔う。生き残ることも、戦いのうちだ」
歩一は何も言えなかった。
---
翌朝、飛車率いる突撃隊が出陣した。
歩一は城門の前で、その背中を見送った。飛車を先頭に、精鋭たちが隊列を組んで進んでいく。彼らの背には「飛」の一字が刻まれた旗が翻っていた。
「行っちまったな」
声をかけてきたのは、桂馬だった。軽装に身を包んだ偵察部隊の長。飄々とした顔立ちに、どこか食えない笑みを浮かべている。
「お前、歩一だっけ。飛車の隊の新入り」
「...はい」
「そう気を落とすなって。飛車が『まだ早い』って言うなら、本当にまだ早いんだよ。あの人、そういうとこの見立ては確かだから」
桂馬は歩一の肩を叩いた。
「俺も出るけどな。偵察だから、正面からぶつかる飛車たちとは別行動だ」
「偵察...」
「そ。敵の動きを探って、味方に伝える。地味だけど大事な仕事だぜ」
桂馬は軽く跳ねるような足取りで歩き出した。
「じゃあな、新入り。生き残れよ」
歩一は桂馬の背中を見送った。跳ねるように、不規則に、予測できない動き。桂馬という駒の特性そのものだった。
---
飛車隊が前線に到着したのは、三日後の夕刻だった。
戦場となる平原には、既に帝国軍が陣を敷いていた。白銀の甲冑が夕陽を受けて鈍く光る。その数、およそ三千。将棋国軍の倍以上だ。
「多いな」
副官の一人が呟いた。
「多かろうが少なかろうが、やることは変わらん」
飛車は馬上から敵陣を睨んだ。
「俺たちは真っ直ぐ進む。それだけだ」
飛車の視線が、敵陣の一角で止まった。
ひときわ大きな旗が翻っている。馬の頭を象った紋章。ナイト部隊の旗だ。
「あれが指揮官か」
白銀の甲冑に身を包んだ騎士が、馬上で静かに佇んでいる。跳躍を得意とするナイトは、戦場を縦横無尽に駆け、敵陣を撹乱する厄介な相手だ。
「飛車殿」
伝令が駆けてきた。
「角行殿より伝言です。『無理をするな。俺が側面から補給線を叩く。それまで持ちこたえろ』と」
「あいつらしい」
飛車は鼻で笑った。
「だが、持ちこたえるだけでは勝てん」
飛車は剣を抜いた。
「全軍、聞け!」
声が平原に響き渡る。
「俺たちは飛車だ!真っ直ぐにしか進めん!だが、真っ直ぐ進む者を、誰が止められる!」
兵士たちの目に、火が灯った。
「敵は倍以上いる!だが数で負けても、気迫で負けるな!一人が二人分、三人分働けば、数など関係ない!」
飛車は剣を掲げた。
「続け!俺が道を切り開く!」
咆哮が上がった。飛車を先頭に、突撃隊が動き出す。
大地が揺れた。
---
帝国軍のナイト隊長は、その光景を冷静に見つめていた。
「来たか」
白銀の鎧の下、鋭い目が敵を捉える。将棋国の飛車隊。真っ直ぐにしか進めない、単純な駒。しかしその突進力は侮れない。
「隊長、迎撃しますか」
「いや、待て」
ナイト隊長は部下を制した。
「飛車は直線でしか動けん。正面から受ければ被害が出る。我らは側面から跳ぶ」
ナイトの強みは、その不規則な動きにある。直線的な敵を翻弄し、予測不能な角度から急所を突く。それがナイトの戦い方だった。
「弟よ」
隊長は隣の若い騎士に声をかけた。
「お前は後方で待機しろ」
「兄上、私も戦います」
「駄目だ。お前はまだ——」
「私はもう子供ではありません」
若い騎士は兄を真っ直ぐに見た。
「私もナイトです。跳ぶことしかできませんが、跳ぶことなら誰にも負けません」
隊長は弟の目を見つめ、やがて小さく頷いた。
「...分かった。だが、俺のそばを離れるな」
「はい、兄上」
二人は馬首を巡らせた。
「ナイト隊、跳躍用意!」
号令と共に、白銀の騎士たちが動き出した。
---
戦場の中央で、飛車隊と帝国歩兵が激突した。
「押し通れ!」
飛車の剣が閃く。一太刀で帝国兵を二人薙ぎ払い、さらに前へ進む。飛車の周囲では、精鋭たちが主の背中を守りながら敵を蹴散らしていく。
「強い...!」
帝国兵たちが怯む。飛車の突進は、まさに名の通りだった。真っ直ぐに、止まることなく、敵陣を切り裂いていく。
しかし、その時だった。
「横だ!」
誰かが叫んだ瞬間、側面から白銀の影が飛び込んできた。
ナイト隊だ。
不規則な軌道で跳躍し、飛車隊の側面を突く。直線的な動きしかできない飛車隊にとって、最も厄介な攻撃だった。
「くそっ...!」
飛車は舌打ちした。分かっていた。ナイトが正面から来るはずがないことくらい。だが、分かっていても対処が難しい。
「隊形を維持しろ!横に気を取られるな!」
飛車は叫びながら、自ら側面のナイトに斬りかかった。しかしナイトは軽やかに跳躍し、攻撃を躱す。
「やはり飛車は直線だな」
冷たい声が響いた。白銀の甲冑に包まれたナイト隊長が、飛車の前に降り立つ。
「真っ直ぐにしか進めん者が、我らに勝てると思うか」
「やってみなければ分からんだろう」
飛車は剣を構えた。
「それに、真っ直ぐ進むことの何が悪い。曲がりくねった道より、よほど潔い」
「潔さで戦は勝てん」
ナイト隊長が跳んだ。
---
二人の戦いは、周囲の兵士たちの目を釘付けにした。
ナイト隊長は縦横無尽に跳躍し、あらゆる角度から飛車を攻める。飛車は直線的な動きでそれを捌くが、徐々に傷が増えていく。
「どうした、飛車。真っ直ぐ進めんのか」
「うるさい」
飛車の剣が空を切る。ナイト隊長は軽やかに躱し、カウンターを放つ。飛車の肩が裂けた。
「兄上!」
若い騎士が叫んだ。ナイト隊長の弟だ。兄の優勢を見て、興奮していた。
「俺が止めを——」
「待て!お前は下がって——」
ナイト隊長の制止は、間に合わなかった。
若い騎士は兄を援護しようと、飛車の背後に回り込んだ。だがその動きは、飛車には筒抜けだった。
「甘い」
飛車が振り向きざまに剣を振るう。
若い騎士は、自分の胸から剣が生えているのを、信じられないような目で見下ろした。
「あ...兄、上...」
「——っ!」
ナイト隊長の絶叫が、戦場に響いた。
飛車は剣を引き抜いた。若い騎士の体が崩れ落ちる。飛車は一瞬だけ、倒れた騎士を見下ろした。自分と同じくらいの年齢だった。
「...戦場だ」
飛車は呟いた。
「恨むなら、お前をここに連れてきた奴を恨め」
「貴様ァァァァ!」
ナイト隊長が跳んだ。先ほどまでの冷静さはどこにもなかった。ただ怒りだけが、その剣を振るわせていた。
飛車は冷静にそれを見切った。
「感情に任せた剣は——」
飛車の剣がナイト隊長の剣を弾く。
「——読みやすい」
返す刃でナイト隊長の腕を斬った。剣が手から離れ、地面に落ちる。
「これで終わりだ」
飛車が止めを刺そうとした、その時。
「隊長!撤退命令です!」
帝国軍の伝令が叫んだ。角行の別動隊が補給線を叩いたのだ。このままでは帝国軍は孤立する。
「...撤退だと」
ナイト隊長は片腕を押さえながら、飛車を睨んだ。
「貴様、名は」
「将棋国が飛車だ」
「覚えたぞ、飛車」
ナイト隊長は弟の亡骸を部下に託し、馬に跨った。
「次に会う時は、必ず貴様を殺す」
「いつでも来い」
飛車は剣を下ろした。
「俺は逃げも隠れもせん。真っ直ぐ、ここにいる」
ナイト隊長は何も言わず、馬首を返した。帝国軍が撤退していく。
飛車はその背中を見送りながら、ふと、倒れた若い騎士を見た。
あどけなさの残る顔。歩一と、同じくらいの年齢。
「...戦場だ」
飛車はもう一度、自分に言い聞かせるように呟いた。
---
陽が落ちる頃、戦場の片付けが始まった。
将棋国の勝利だった。しかし犠牲も大きい。飛車隊だけで百名以上が命を落とした。
「飛車殿」
角行が馬を寄せてきた。
「補給線は叩いた。しばらくは敵も動けんだろう」
「助かった」
「礼を言われることではない。これが俺の役目だ」
角行は戦場を見渡した。
「...酷いものだな」
「ああ」
「お前、怪我は」
「大したことはない」
飛車は肩の傷を押さえた。血は止まっているが、痛みは残っている。
「ナイト隊長と戦った」
「聞いた。弟を討ったとか」
「ああ」
飛車は空を見上げた。
「若い騎士だった。俺たちの新兵と、同じくらいの年だ」
「...そうか」
「戦場だ。殺さなければ殺される。それは分かっている。だが——」
飛車は言葉を切った。
「——あの目は、しばらく忘れられんだろうな」
角行は何も言わなかった。ただ、友の隣に馬を並べた。
二人は黙って、沈む夕陽を見つめていた。
---
首都に戦勝の報が届いたのは、五日後だった。
歩一は他の新兵たちと共に、城門で凱旋する飛車隊を迎えた。
しかし、その隊列は出発時よりも明らかに短かった。空の馬が何頭も引かれている。戻らなかった者たちの馬だ。
飛車が歩一の前で馬を止めた。
「生きていたか」
「はい。飛車殿も」
「ああ、何とかな」
飛車は馬から降りた。その体には包帯が巻かれ、動きにもどこか固さがある。
「訓練は続けていたか」
「はい。毎日」
「そうか」
飛車は歩一の目を見た。
「次の戦いには、お前も連れていく」
歩一は息を呑んだ。
「まだ足りない部分は多い。だが、いつまでも後ろにいても成長せん。戦場でしか学べないこともある」
「...はい」
「死ぬなよ」
飛車は歩一の肩を叩いた。
「死んだら、俺の訓練が無駄になる」
「死にません」
歩一は真っ直ぐに飛車を見た。
「俺は、真っ直ぐ進みます。飛車殿のように」
飛車は一瞬、目を見開いた。そして、小さく笑った。
「...生意気だな」
飛車は歩一の横を通り過ぎた。
「だが、悪くない」
歩一は飛車の背中を見送った。
その背中には、新たな傷が刻まれていた。戦場で得た傷。仲間を失った傷。敵を殺した傷。
それでも飛車は、真っ直ぐ前を向いて歩いていた。
歩一は拳を握った。
いつか、自分もあの背中に追いつく。追いついて、並んで、共に戦う。
その日のために、今は走り続ける。
---
一方、帝国軍の陣営では——
ナイト隊長は、弟の墓標の前に跪いていた。
簡素な木の十字架。その下に、弟の剣が埋められている。
「...すまなかった」
声が震えていた。
「俺が止めていれば。お前を戦場に連れてこなければ」
返事はない。当たり前だ。死者は何も語らない。
「飛車...」
ナイト隊長は立ち上がった。
その目には、復讐の炎が燃えていた。
「必ず殺す。お前だけは、必ず」
背後で足音がした。
「隊長」
振り返ると、ビショップが立っていた。斜めにしか動けない、参謀役の駒。
「本陣から命令です。一時撤退し、態勢を立て直せと」
「分かっている」
「それと...お悔やみ申し上げます」
「...ああ」
ナイト隊長は墓標に背を向けた。
「ビショップ、お前は将棋国の駒と戦ったか」
「角行という者と。斜めにしか動けない、私と似た駒です」
「どうだった」
ビショップは少し考えてから答えた。
「...強かった。そして、どこか通じるものを感じました」
「通じるもの、だと」
ナイト隊長の声が冷たくなった。
「奴らは蛮族だ。取った駒の魂を奪い、自軍に加える呪われた民だ。通じるものなどあるはずがない」
「...はい。失言でした」
ビショップは頭を下げた。しかしその目には、わずかな疑念が浮かんでいた。
本当に、将棋国の者たちは蛮族なのだろうか。戦場で見た角行の目には、自分と同じ信念の光があった。それは蛮族の目ではなかった。
だが、今はそれを口にする時ではない。
「撤退の準備を進めます」
「ああ、頼む」
ビショップが去った後、ナイト隊長は再び弟の墓標を見た。
「待っていろ。必ず、仇は討つ」
風が吹いた。木の十字架が、かすかに揺れた。
---
戦争は、まだ始まったばかりだった。
将棋国とチェス帝国。二つの国の間に刻まれた憎しみは、これから幾重にも深くなっていく。
飛車とナイト。二人の因縁も、まだ終わらない。
そして歩一は、まだ何者でもなかった。
ただの歩兵。最前線に立つだけの、最も弱い駒。
だが、歩兵には歩兵の誇りがある。
前に進むこと。一歩ずつ、真っ直ぐに。
そしていつか、敵陣の奥深くで——
「成る」こと。
歩一は夜空を見上げた。
明日からまた、訓練が始まる。次の戦いは、もうすぐだ。
その時、自分は何ができるだろうか。
まだ分からない。だが、一つだけ決めていることがある。
死なないこと。生き残ること。
そして、真っ直ぐ前に進むこと。
それだけは、絶対に——




