表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

第2話 飛車の咆哮

訓練が始まって、二週間が経った。


歩一の体は悲鳴を上げていた。毎日夜明け前から日没まで、走り、剣を振り、陣形を組み、また走る。村での農作業も楽ではなかったが、比べ物にならない。


「遅い!死にたいのか!」


飛車の怒号が訓練場に響く。歩一を含む新兵たちは、もはや返事をする余裕もなく走り続けた。


「戦場では一瞬の遅れが命取りになる!敵は待ってくれんぞ!」


飛車は自らも先頭を走りながら叫ぶ。この男は部下に厳しいが、自分にはもっと厳しい。誰よりも早く起き、誰よりも遅く眠る。それが飛車という男だった。


「歩一!お前はまだ動ける!前に出ろ!」


名指しされた歩一は、歯を食いしばって足を速めた。肺が焼けるように熱い。視界が霞む。それでも止まらなかった。止まったら、あの日の自分に戻ってしまう気がした。何もできず、ただ立ち尽くしていたあの日に。


訓練が終わる頃には、新兵の半数が地面に倒れ込んでいた。歩一も膝をついて荒い息を吐いていた。


「今日はここまでだ」


飛車が水筒を投げてよこした。


「飲め。脱水で死なれても困る」


歩一は震える手で水筒を受け取り、一気に飲み干した。冷たい水が喉を通り、干からびた体に染み渡る。


「お前、筋はいいな」


飛車が歩一の隣にしゃがみ込んだ。


「村で何かやっていたか」


「...畑仕事くらいです」


「そうか。鍬を振る動きと剣を振る動きは似ている。体が覚えているんだろう」


飛車は立ち上がり、西の空を見た。


「明日、俺は前線に出る」


歩一は顔を上げた。


「帝国が動いた。沿岸部を制圧した連中が、内陸に進軍を始めた。このままでは中央の穀倉地帯が落ちる」


「俺も——」


「お前はまだ早い」


飛車は振り返らずに言った。


「死ににいくだけだ。もう少し鍛えてから来い」


「でも——」


「これは命令だ」


飛車の声に、有無を言わさぬ響きがあった。歩一は唇を噛んで黙り込んだ。


「...焦るな」


飛車は少しだけ声を和らげた。


「お前が死んだら、お前の村の連中は誰が弔う。生き残ることも、戦いのうちだ」


歩一は何も言えなかった。


---


翌朝、飛車率いる突撃隊が出陣した。


歩一は城門の前で、その背中を見送った。飛車を先頭に、精鋭たちが隊列を組んで進んでいく。彼らの背には「飛」の一字が刻まれた旗が翻っていた。


「行っちまったな」


声をかけてきたのは、桂馬だった。軽装に身を包んだ偵察部隊の長。飄々とした顔立ちに、どこか食えない笑みを浮かべている。


「お前、歩一だっけ。飛車の隊の新入り」


「...はい」


「そう気を落とすなって。飛車が『まだ早い』って言うなら、本当にまだ早いんだよ。あの人、そういうとこの見立ては確かだから」


桂馬は歩一の肩を叩いた。


「俺も出るけどな。偵察だから、正面からぶつかる飛車たちとは別行動だ」


「偵察...」


「そ。敵の動きを探って、味方に伝える。地味だけど大事な仕事だぜ」


桂馬は軽く跳ねるような足取りで歩き出した。


「じゃあな、新入り。生き残れよ」


歩一は桂馬の背中を見送った。跳ねるように、不規則に、予測できない動き。桂馬という駒の特性そのものだった。


---


飛車隊が前線に到着したのは、三日後の夕刻だった。


戦場となる平原には、既に帝国軍が陣を敷いていた。白銀の甲冑が夕陽を受けて鈍く光る。その数、およそ三千。将棋国軍の倍以上だ。


「多いな」


副官の一人が呟いた。


「多かろうが少なかろうが、やることは変わらん」


飛車は馬上から敵陣を睨んだ。


「俺たちは真っ直ぐ進む。それだけだ」


飛車の視線が、敵陣の一角で止まった。


ひときわ大きな旗が翻っている。馬の頭を象った紋章。ナイト部隊の旗だ。


「あれが指揮官か」


白銀の甲冑に身を包んだ騎士が、馬上で静かに佇んでいる。跳躍を得意とするナイトは、戦場を縦横無尽に駆け、敵陣を撹乱する厄介な相手だ。


「飛車殿」


伝令が駆けてきた。


「角行殿より伝言です。『無理をするな。俺が側面から補給線を叩く。それまで持ちこたえろ』と」


「あいつらしい」


飛車は鼻で笑った。


「だが、持ちこたえるだけでは勝てん」


飛車は剣を抜いた。


「全軍、聞け!」


声が平原に響き渡る。


「俺たちは飛車だ!真っ直ぐにしか進めん!だが、真っ直ぐ進む者を、誰が止められる!」


兵士たちの目に、火が灯った。


「敵は倍以上いる!だが数で負けても、気迫で負けるな!一人が二人分、三人分働けば、数など関係ない!」


飛車は剣を掲げた。


「続け!俺が道を切り開く!」


咆哮が上がった。飛車を先頭に、突撃隊が動き出す。


大地が揺れた。


---


帝国軍のナイト隊長は、その光景を冷静に見つめていた。


「来たか」


白銀の鎧の下、鋭い目が敵を捉える。将棋国の飛車隊。真っ直ぐにしか進めない、単純な駒。しかしその突進力は侮れない。


「隊長、迎撃しますか」


「いや、待て」


ナイト隊長は部下を制した。


「飛車は直線でしか動けん。正面から受ければ被害が出る。我らは側面から跳ぶ」


ナイトの強みは、その不規則な動きにある。直線的な敵を翻弄し、予測不能な角度から急所を突く。それがナイトの戦い方だった。


「弟よ」


隊長は隣の若い騎士に声をかけた。


「お前は後方で待機しろ」


「兄上、私も戦います」


「駄目だ。お前はまだ——」


「私はもう子供ではありません」


若い騎士は兄を真っ直ぐに見た。


「私もナイトです。跳ぶことしかできませんが、跳ぶことなら誰にも負けません」


隊長は弟の目を見つめ、やがて小さく頷いた。


「...分かった。だが、俺のそばを離れるな」


「はい、兄上」


二人は馬首を巡らせた。


「ナイト隊、跳躍用意!」


号令と共に、白銀の騎士たちが動き出した。


---


戦場の中央で、飛車隊と帝国歩兵が激突した。


「押し通れ!」


飛車の剣が閃く。一太刀で帝国兵を二人薙ぎ払い、さらに前へ進む。飛車の周囲では、精鋭たちが主の背中を守りながら敵を蹴散らしていく。


「強い...!」


帝国兵たちが怯む。飛車の突進は、まさに名の通りだった。真っ直ぐに、止まることなく、敵陣を切り裂いていく。


しかし、その時だった。


「横だ!」


誰かが叫んだ瞬間、側面から白銀の影が飛び込んできた。


ナイト隊だ。


不規則な軌道で跳躍し、飛車隊の側面を突く。直線的な動きしかできない飛車隊にとって、最も厄介な攻撃だった。


「くそっ...!」


飛車は舌打ちした。分かっていた。ナイトが正面から来るはずがないことくらい。だが、分かっていても対処が難しい。


「隊形を維持しろ!横に気を取られるな!」


飛車は叫びながら、自ら側面のナイトに斬りかかった。しかしナイトは軽やかに跳躍し、攻撃を躱す。


「やはり飛車は直線だな」


冷たい声が響いた。白銀の甲冑に包まれたナイト隊長が、飛車の前に降り立つ。


「真っ直ぐにしか進めん者が、我らに勝てると思うか」


「やってみなければ分からんだろう」


飛車は剣を構えた。


「それに、真っ直ぐ進むことの何が悪い。曲がりくねった道より、よほど潔い」


「潔さで戦は勝てん」


ナイト隊長が跳んだ。


---


二人の戦いは、周囲の兵士たちの目を釘付けにした。


ナイト隊長は縦横無尽に跳躍し、あらゆる角度から飛車を攻める。飛車は直線的な動きでそれを捌くが、徐々に傷が増えていく。


「どうした、飛車。真っ直ぐ進めんのか」


「うるさい」


飛車の剣が空を切る。ナイト隊長は軽やかに躱し、カウンターを放つ。飛車の肩が裂けた。


「兄上!」


若い騎士が叫んだ。ナイト隊長の弟だ。兄の優勢を見て、興奮していた。


「俺が止めを——」


「待て!お前は下がって——」


ナイト隊長の制止は、間に合わなかった。


若い騎士は兄を援護しようと、飛車の背後に回り込んだ。だがその動きは、飛車には筒抜けだった。


「甘い」


飛車が振り向きざまに剣を振るう。


若い騎士は、自分の胸から剣が生えているのを、信じられないような目で見下ろした。


「あ...兄、上...」


「——っ!」


ナイト隊長の絶叫が、戦場に響いた。


飛車は剣を引き抜いた。若い騎士の体が崩れ落ちる。飛車は一瞬だけ、倒れた騎士を見下ろした。自分と同じくらいの年齢だった。


「...戦場だ」


飛車は呟いた。


「恨むなら、お前をここに連れてきた奴を恨め」


「貴様ァァァァ!」


ナイト隊長が跳んだ。先ほどまでの冷静さはどこにもなかった。ただ怒りだけが、その剣を振るわせていた。


飛車は冷静にそれを見切った。


「感情に任せた剣は——」


飛車の剣がナイト隊長の剣を弾く。


「——読みやすい」


返す刃でナイト隊長の腕を斬った。剣が手から離れ、地面に落ちる。


「これで終わりだ」


飛車が止めを刺そうとした、その時。


「隊長!撤退命令です!」


帝国軍の伝令が叫んだ。角行の別動隊が補給線を叩いたのだ。このままでは帝国軍は孤立する。


「...撤退だと」


ナイト隊長は片腕を押さえながら、飛車を睨んだ。


「貴様、名は」


「将棋国が飛車だ」


「覚えたぞ、飛車」


ナイト隊長は弟の亡骸を部下に託し、馬に跨った。


「次に会う時は、必ず貴様を殺す」


「いつでも来い」


飛車は剣を下ろした。


「俺は逃げも隠れもせん。真っ直ぐ、ここにいる」


ナイト隊長は何も言わず、馬首を返した。帝国軍が撤退していく。


飛車はその背中を見送りながら、ふと、倒れた若い騎士を見た。


あどけなさの残る顔。歩一と、同じくらいの年齢。


「...戦場だ」


飛車はもう一度、自分に言い聞かせるように呟いた。


---


陽が落ちる頃、戦場の片付けが始まった。


将棋国の勝利だった。しかし犠牲も大きい。飛車隊だけで百名以上が命を落とした。


「飛車殿」


角行が馬を寄せてきた。


「補給線は叩いた。しばらくは敵も動けんだろう」


「助かった」


「礼を言われることではない。これが俺の役目だ」


角行は戦場を見渡した。


「...酷いものだな」


「ああ」


「お前、怪我は」


「大したことはない」


飛車は肩の傷を押さえた。血は止まっているが、痛みは残っている。


「ナイト隊長と戦った」


「聞いた。弟を討ったとか」


「ああ」


飛車は空を見上げた。


「若い騎士だった。俺たちの新兵と、同じくらいの年だ」


「...そうか」


「戦場だ。殺さなければ殺される。それは分かっている。だが——」


飛車は言葉を切った。


「——あの目は、しばらく忘れられんだろうな」


角行は何も言わなかった。ただ、友の隣に馬を並べた。


二人は黙って、沈む夕陽を見つめていた。


---


首都に戦勝の報が届いたのは、五日後だった。


歩一は他の新兵たちと共に、城門で凱旋する飛車隊を迎えた。


しかし、その隊列は出発時よりも明らかに短かった。空の馬が何頭も引かれている。戻らなかった者たちの馬だ。


飛車が歩一の前で馬を止めた。


「生きていたか」


「はい。飛車殿も」


「ああ、何とかな」


飛車は馬から降りた。その体には包帯が巻かれ、動きにもどこか固さがある。


「訓練は続けていたか」


「はい。毎日」


「そうか」


飛車は歩一の目を見た。


「次の戦いには、お前も連れていく」


歩一は息を呑んだ。


「まだ足りない部分は多い。だが、いつまでも後ろにいても成長せん。戦場でしか学べないこともある」


「...はい」


「死ぬなよ」


飛車は歩一の肩を叩いた。


「死んだら、俺の訓練が無駄になる」


「死にません」


歩一は真っ直ぐに飛車を見た。


「俺は、真っ直ぐ進みます。飛車殿のように」


飛車は一瞬、目を見開いた。そして、小さく笑った。


「...生意気だな」


飛車は歩一の横を通り過ぎた。


「だが、悪くない」


歩一は飛車の背中を見送った。


その背中には、新たな傷が刻まれていた。戦場で得た傷。仲間を失った傷。敵を殺した傷。


それでも飛車は、真っ直ぐ前を向いて歩いていた。


歩一は拳を握った。


いつか、自分もあの背中に追いつく。追いついて、並んで、共に戦う。


その日のために、今は走り続ける。


---


一方、帝国軍の陣営では——


ナイト隊長は、弟の墓標の前に跪いていた。


簡素な木の十字架。その下に、弟の剣が埋められている。


「...すまなかった」


声が震えていた。


「俺が止めていれば。お前を戦場に連れてこなければ」


返事はない。当たり前だ。死者は何も語らない。


「飛車...」


ナイト隊長は立ち上がった。


その目には、復讐の炎が燃えていた。


「必ず殺す。お前だけは、必ず」


背後で足音がした。


「隊長」


振り返ると、ビショップが立っていた。斜めにしか動けない、参謀役の駒。


「本陣から命令です。一時撤退し、態勢を立て直せと」


「分かっている」


「それと...お悔やみ申し上げます」


「...ああ」


ナイト隊長は墓標に背を向けた。


「ビショップ、お前は将棋国の駒と戦ったか」


「角行という者と。斜めにしか動けない、私と似た駒です」


「どうだった」


ビショップは少し考えてから答えた。


「...強かった。そして、どこか通じるものを感じました」


「通じるもの、だと」


ナイト隊長の声が冷たくなった。


「奴らは蛮族だ。取った駒の魂を奪い、自軍に加える呪われた民だ。通じるものなどあるはずがない」


「...はい。失言でした」


ビショップは頭を下げた。しかしその目には、わずかな疑念が浮かんでいた。


本当に、将棋国の者たちは蛮族なのだろうか。戦場で見た角行の目には、自分と同じ信念の光があった。それは蛮族の目ではなかった。


だが、今はそれを口にする時ではない。


「撤退の準備を進めます」


「ああ、頼む」


ビショップが去った後、ナイト隊長は再び弟の墓標を見た。


「待っていろ。必ず、仇は討つ」


風が吹いた。木の十字架が、かすかに揺れた。


---


戦争は、まだ始まったばかりだった。


将棋国とチェス帝国。二つの国の間に刻まれた憎しみは、これから幾重にも深くなっていく。


飛車とナイト。二人の因縁も、まだ終わらない。


そして歩一は、まだ何者でもなかった。


ただの歩兵。最前線に立つだけの、最も弱い駒。


だが、歩兵には歩兵の誇りがある。


前に進むこと。一歩ずつ、真っ直ぐに。


そしていつか、敵陣の奥深くで——


「成る」こと。


歩一は夜空を見上げた。


明日からまた、訓練が始まる。次の戦いは、もうすぐだ。


その時、自分は何ができるだろうか。


まだ分からない。だが、一つだけ決めていることがある。


死なないこと。生き残ること。


そして、真っ直ぐ前に進むこと。


それだけは、絶対に——


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ