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第10話 反転

それは、静かに始まった。


白と黒の波が、盤上世界の果てから押し寄せてきた。


音もなく。警告もなく。


ただ、全てを塗り替えながら。


---


UNO国。


盤上世界の辺境に位置する小国だった。


赤、青、黄、緑。四つの色が調和する国。「色の調和」を国是とし、どの大国にも属さない中立を保ってきた。


その夜、フォビアは夜回りの任務についていた。


フォビアはUNO国の若い兵士だった。赤の一族に生まれ、国境警備隊に配属されて三ヶ月。まだ実戦経験はない。


「今夜も静かだな」


相棒の青の兵士、リバースが欠伸をした。


「当たり前だろ。UNO国に攻めてくる奴なんていない。将棋国もチェス帝国も、俺たちみたいな小国には興味ないさ」


「そうだけど、油断はできないぜ」


「真面目だな、お前は」


リバースは笑った。


「まあ、それがお前のいいところだけどな」


二人は国境沿いの見張り台に立ち、北西の方角を見つめていた。


その時——


「なんだ、あれ」


フォビアが目を細めた。


北西の空が、妙に明るかった。いや、明るいというより——白い。


「霧か?」


「いや、違う。あれは...」


白い霧のようなものが、地平線から広がってきていた。だが、霧にしては動きが速い。そして、その白さの中に、黒い影がちらちらと見える。


「なんだよ、あれ...」


リバースの声が震えていた。


白と黒の波が、近づいてくる。


見張り台から見ると、それはまるで巨大な津波のようだった。白と黒が交互に押し寄せ、通り過ぎた場所は全て——


「消えてる...!」


フォビアは目を見開いた。


森が消えていた。村が消えていた。白と黒の波が通り過ぎた後には、市松模様の地面だけが残されていた。


「警報だ!警報を鳴らせ!」


フォビアが叫んだ。


リバースが鐘を鳴らそうとした。だが——


「遅い」


声が聞こえた。


振り返ると、見張り台の下に、一人の男が立っていた。


道化の衣装。どこにも属さない、奇妙な色合い。そして、笑みを浮かべた顔。


「誰だ、お前は...!」


「俺?俺はジョーカー。ただの道化さ」


男は肩をすくめた。


「悪いな、UNO国。お前たちが最初の犠牲者になっちまった」


「何を言って——」


その時、白と黒の波が見張り台に到達した。


「リバース!」


フォビアはリバースの手を掴もうとした。だが、間に合わなかった。


白い影がリバースに触れた瞬間——


リバースの体が、白く染まっていった。


「あ...あああ...!」


リバースが叫んだ。だが、その声も途中で途切れた。


青だったリバースの体が、完全に白に染まった。目も、髪も、肌も、全てが白く。


そして——動きを止めた。


「リバース...?」


フォビアはリバースの肩を揺すった。だが、反応はなかった。


リバースの目は開いていた。だが、そこには何の光もなかった。白く染まった目が、虚空を見つめているだけだった。


「反転完了」


白い影が言った。声は人間のものではなかった。


「この者は、我らの一部となった」


「な...なんだよ、これ...」


フォビアは後ずさった。


周囲を見ると、白と黒の影が無数にいた。人の形をしているが、顔がない。ただ白と黒の輪郭だけが、そこにあった。


「お前も、反転させてやろう」


白い影がフォビアに手を伸ばした。


「来るな...!」


フォビアは見張り台から飛び降りた。


「逃げても無駄だ」


「この世界は、全て我らの色に染まる」


声が追いかけてくる。だが、フォビアは振り返らなかった。


走った。ひたすら走った。


後ろでは、悲鳴が上がっていた。UNO国の住民たちの悲鳴。そして、その悲鳴も、一つずつ途切れていく。


「誰か...誰か助けて...!」


フォビアは走り続けた。


夜明けまで、走り続けた。


---


将棋国の国境に、一人の男が辿り着いたのは、翌日の昼過ぎだった。


「何者だ!」


国境警備の兵士が槍を向けた。


男はボロボロだった。服は破れ、体中に傷を負い、目は虚ろだった。


「た...助けてくれ...」


男は膝をついた。


「俺は...UNO国の...フォビア...」


「UNO国?あの辺境の小国か」


「国が...国が消えた...!」


「何を言っている」


「白と黒の化け物が来た...!みんな...みんな反転させられた...!」


フォビアは震えていた。


「あれは...俺たちを導いた男がいた...。笑っていた...。あの道化服の男が...」


兵士たちは顔を見合わせた。


「道化服の男...?」


「すぐに王城に報告しろ。この男を医務室へ」


---


王城の執務室に、緊急の報告が届いた。


「UNO国が消滅した?」


王将は眉をひそめた。


「はい。生き残りの証言によると、白と黒の化け物に襲われたとのことです」


「白と黒...」


王将は桂馬の報告を思い出した。


「その生き残りに、話を聞きたい」


---


医務室で、フォビアは震えながら語った。


「あいつらは...白と黒の影だった...。触れられた者は...反転させられる...」


「反転?」


「色が...消えるんだ...。白か黒に染まって...意志を失う...」


フォビアの目に、恐怖の色が浮かんでいた。


「俺の仲間も...リバースも...白く染まって...動かなくなった...」


「その化け物を率いていたのは、誰だ」


「男がいた...。道化の服を着た男...」


フォビアは体を震わせた。


「あいつは...笑ってた...。国が消えていくのを見ながら...笑ってたんだ...!」


「道化の男...」


王将は部屋の隅に立っていた桂馬を見た。


桂馬は松葉杖をついたまま、顔を強張らせていた。


「ジョーカーだ」


桂馬が言った。


「間違いありません。俺がトランプ連邦で遭遇した男です」


「確かか」


「はい。あの男は言いました。『俺は新しいカードを切るだけだ』と。これが...あいつの言っていたことだったんだ」


王将は腕を組んだ。


「北西の果てで、何かを起こした。それが、この白と黒の化け物か」


「虚無の地...。反転の軍勢...」


桂馬は呟いた。


「あの時、もっと追っていれば...」


「自分を責めるな、桂馬。お前は命がけで情報を持ち帰った」


王将は立ち上がった。


「問題は、これからどうするかだ」


---


緊急の軍議が開かれた。


飛車、角行、金将、銀将、香車——主要な駒たちが集まった。


「UNO国が一夜で消滅した。次は我々かもしれない」


王将が言った。


「帝国との戦争を続けている場合ではありません」


角行が言った。


「この新たな脅威に対処するためには、戦力を集中させる必要があります」


「しかし、帝国が応じるだろうか」


金将が言った。


「我々が休戦を申し入れても、罠だと疑うのではないか」


「疑われても、言わなければ始まらない」


飛車が言った。


「帝国も同じ状況のはずだ。辺境から同じような報告が届いているはずだ」


王将は決断した。


「帝国に使者を送る。休戦と、共闘の提案だ」


---


数日後、中立地帯で会談が行われた。


将棋国からは王将、飛車、角行が出席。


チェス帝国からはキング、クイーン、ルーク隊長が出席。


「まさか、将棋国から休戦の申し入れがあるとはな」


キングの声は冷たかった。


「状況は承知しておられるはずだ。UNO国が消滅した。白と黒の化け物が現れた」


王将が言った。


「ああ、聞いている。我が国の辺境でも、いくつかの村が消滅したそうだ」


「ならば——」


「だが、それがどうした」


キングは王将の言葉を遮った。


「それがどうしたとは?」


「辺境の小国や村がいくつか消えた程度で、大騒ぎするほどのことか。我々には、将棋国という目の前の敵がいる」


「キング陛下、これは——」


「むしろ、これは罠ではないのか」


キングは疑いの目を向けた。


「『白と黒の化け物が現れた、だから休戦しよう』——都合の良い話だ。我々の警戒を緩めさせ、その隙に攻め込むつもりではないのか」


「そんなことは——」


「将棋国の攪乱作戦だ。乗るわけにはいかない」


王将は歯を食いしばった。


「陛下、お言葉ですが、UNO国は本当に消滅したのです。生き残りの証言もある」


「生き残り?将棋国が用意した役者だろう」


「なっ...!」


飛車が声を上げた。


「我々がそんな卑怯な真似をすると思うのか!」


「思うとも。戦争とはそういうものだ」


キングは立ち上がった。


「この会談は無駄だった。我々は休戦には応じない」


「キング陛下!」


「クイーン、ルーク隊長、帰るぞ」


キングは背を向けた。


クイーンは複雑な表情を浮かべていた。何か言いたそうだったが、口を開かなかった。


ルーク隊長も、無言でキングに従った。


「待ってくれ、キング陛下!」


王将が呼びかけたが、キングは振り返らなかった。


帝国の一行は、去っていった。


---


「くそっ...!」


飛車が地面を蹴った。


「あの傲慢な王め!目の前の危機が見えないのか!」


「落ち着け、飛車」


王将は静かに言った。


「だが——」


「気持ちは分かる。だが、キングの立場になって考えてみろ。長年の宿敵が、突然『休戦しよう』と言ってきた。疑うのは当然だ」


「しかし、このままでは...」


「分かっている」


王将は空を見上げた。


「帝国が自ら気づくのを待つしかない。あの化け物の脅威を、自分の目で見るまでは」


---


その機会は、予想より早く訪れた。


会談から三日後、帝国領内で——


「報告します!北東の砦が、何者かに襲撃されました!」


キングは眉をひそめた。


「将棋国か」


「いえ、違います。襲撃者は...白と黒の化け物だと」


「何?」


「砦は壊滅。生き残りは僅かです。その生き残りが、恐ろしいことを報告しています」


「何を報告した」


「『反転させられた仲間が、敵となって襲いかかってきた』と」


キングは顔色を変えた。


「...クイーンを呼べ。視察に行く」


---


キングとクイーンは、被害を受けた砦に向かった。


精鋭の護衛を連れて。


「なんだ、これは...」


砦に到着したキングは、絶句した。


砦は無事だった。建物は壊れていない。


だが、人の気配がなかった。


そして——


地面が、白と黒の市松模様に変わっていた。


「陛下、あれを...」


クイーンが指差した。


砦の中央に、兵士たちが立っていた。


だが、その姿は異様だった。


全員が、白か黒に染まっていた。肌も、髪も、鎧も。全てが白か黒だけの、モノトーンの姿。


そして、その目には——何の光もなかった。


「あれは...我が軍の兵士たちか...」


キングは息を呑んだ。


「陛下、下がってください」


ルーク隊長が剣を抜いた。


その時——


白と黒の兵士たちが、一斉に動いた。


「敵を...排除する...」


声は人間のものではなかった。抑揚のない、機械のような声。


「我らの色に...染まれ...」


兵士たちが迫ってくる。


「迎え撃て!」


ルーク隊長が叫んだ。


護衛の兵士たちが剣を構える。


だが——


「駄目だ!触れるな!」


クイーンが叫んだ。


遅かった。


一人の護衛が、白い兵士の手を払おうとした。


その瞬間——


「あ...あああ!」


護衛の体が、白く染まっていった。


「そんな...!」


キングは目を見開いた。


触れただけで、反転させられる。そして、反転させられた者は、敵となって襲いかかってくる。


「将棋国の言っていたことは、本当だった...!」


「陛下、退却を!」


クイーンが叫んだ。


「このままでは全滅します!」


キングは歯を食いしばった。


「撤退だ!全員、退け!」


残った護衛たちと共に、キングは砦から逃げ出した。


後ろから、白と黒の兵士たちが追いかけてくる。


「追ってくる...!」


「止まるな!走れ!」


キングは全力で走った。


王として、こんなに走ったのは初めてだった。


---


なんとか追手を撒いた頃には、護衛は半分に減っていた。


「陛下、ご無事ですか」


クイーンが息を切らしながら言った。


「ああ...なんとか...」


キングは地面に座り込んだ。


「あれが...将棋国の言っていた化け物か...」


「はい。触れただけで、人を反転させる。そして、反転された者は、意志を失い、敵となる」


クイーンは重い声で言った。


「このままでは、我が国も滅びます」


キングは黙っていた。


「将棋国は、本当のことを言っていたのですね」


「...ああ」


キングは認めた。


「私は...間違っていた」


「陛下...」


「あの時、休戦を受け入れていれば、被害は少なくて済んだかもしれない」


キングは立ち上がった。


「すぐに城に戻る。将棋国に使者を送れ」


「はい」


「休戦を受け入れると伝えろ。そして——共に戦う用意があると」


---


トランプ連邦、シャッフル・シティ。


「北部の村が五つ、消滅した?」


スペードの王が報告を聞いていた。


「はい。白と黒の化け物に襲われたとのことです」


「調査隊を送れ。何が起きているのか、確認する必要がある」


---


王宮の廊下で、ジャックは壁を殴っていた。


「くそっ...!」


拳から血が滴る。だが、ジャックは構わなかった。


「あの野郎...。本当にやりやがった...!」


ジョーカー。


あの男は、本気だったのだ。


「世界をリセットする」——その言葉は、冗談でも比喩でもなかった。本当に、世界を滅ぼそうとしている。


「俺は...止められなかった...」


ジャックは拳を握りしめた。


ジョーカーとは、何度か話したことがあった。他の誰も相手にしないジョーカーに、ジャックだけは声をかけていた。


「お前、いつも一人だな」


「ああ。俺はどこにも属さないからな」


「寂しくないのか」


「寂しい?」


ジョーカーは笑った。だが、その目は笑っていなかった。


「寂しいも何も、最初からそうだったからな。慣れたよ」


あの時、もっと踏み込んでいれば。もっと話を聞いていれば。


「でも、今さら言っても遅いか...」


ジャックは空を見上げた。


「止めるしかない。俺が、あいつを止めるしかない」


ジャックは決意を固めた。


ジョーカーと話ができるのは、自分だけだ。あいつが心を開いたことがあるとすれば、それは自分に対してだけだった。


「待ってろ、ジョーカー。俺が行く」


---


将棋国の王城に、帝国からの使者が到着した。


「キング陛下からの書状です」


使者は頭を下げた。


「休戦を受け入れる。そして、共に戦う用意がある——と」


王将は書状を受け取った。


「...何があった」


「キング陛下自ら、化け物を目撃されました。多くの兵を失いました」


使者の声は沈んでいた。


「陛下は、『自分が間違っていた』と仰っています」


王将は書状を読み終え、深く息を吐いた。


「...分かった。休戦を受け入れる」


飛車が傍らで言った。


「王将、これで——」


「ああ。ようやく、同じ方向を向けるようになった」


王将は窓の外を見た。


「だが、これからが本当の戦いだ」


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