第1話 東方征伐
その日、歩一が見た空の色を、彼は生涯忘れることがなかった。
朝靄の中、いつものように畑に出ようとしていた。将棋国の東端、海沿いの小さな村。歩一は九人いる歩兵の長兄として、幼い弟妹たちの分まで働くのが日課だった。
「兄ちゃん、今日も早いね」
末の妹、歩九がまだ眠そうな目をこすりながら戸口に立っていた。
「お前はもう少し寝てろ。朝飯までに戻る」
歩一は妹の頭を撫で、鍬を担いで外に出た。潮の匂いが鼻をくすぐる。平和な朝だった。少なくとも、そう見えた。
異変に気づいたのは、丘の上に立った時だった。
水平線に、黒い影が浮かんでいる。最初は雲かと思った。しかしそれは動いていた。近づいてくる。一つではない。十、二十、いや数えきれない。
船だ。
見たこともない巨大な船団が、こちらに向かってくる。帆には見慣れぬ紋章。十字を斜めに傾けたような、幾何学的な模様。
歩一の背筋を、冷たいものが走った。
「チェス...帝国...」
噂には聞いていた。大陸を支配する大国。将棋国を「未開の蛮族」と呼び、いつか征服すると公言している国。しかしそれは遠い話だと思っていた。海の向こうの、自分には関係のない世界の話だと。
村に走って戻った時には、既に何人かが海の異変に気づいて騒ぎ始めていた。
「逃げろ!船だ!帝国の船だ!」
歩一の叫びが、平和な朝を切り裂いた。
---
チェス帝国の艦隊が沿岸に到達するまで、一刻もかからなかった。
最初に降り立ったのは、白銀の甲冑に身を包んだ兵士たちだった。ポーンと呼ばれる歩兵たち。将棋国の歩と似た役割だが、その装備は比べ物にならないほど洗練されている。
続いて、異形の者たちが上陸する。
塔のように巨大な体躯のルーク。真っ直ぐにしか動けないが、その突進は何者にも止められない。
そして、馬の頭を持つ騎士たち。ナイト。彼らは不規則な軌道で跳躍し、予測不能な動きで敵を翻弄する。
村人たちは逃げ惑った。しかし逃げ場などなかった。
「抵抗するな」
冷たい声が響く。純白のローブを纏った女が、戦場を見下ろしていた。その動きには一切の無駄がなく、どの方向へも自在に滑るように移動する。クイーン。帝国最強の駒。
「この地は本日をもって、チェス帝国の領土となる。住民は速やかに武装を解除し、投降せよ。従う者には慈悲を与える。逆らう者には——」
クイーンが手を振ると、一人の村人が倒れた。何が起きたのか、歩一には見えなかった。ただ、男が糸の切れた人形のように崩れ落ちるのを見ただけだ。
「——死を」
悲鳴が上がった。村人たちが膝をつく。歩一も動けなかった。恐怖で足が竦んでいた。
その時、歩一の視界の端で何かが動いた。
歩九だった。
妹は母親の手を振り解き、倒れた村人の元へ駆け寄ろうとしていた。幼い子供には、死というものが理解できなかったのだろう。ただ、倒れた人を助けようとしただけだ。
ナイトの一人が、槍を構えた。
「歩九!」
歩一の叫びは、間に合わなかった。
---
炎が村を包んだのは、その直後だった。
歩一は気づくと瓦礫の下にいた。誰かが自分を庇ったらしい。父だった。既に息がない。
這い出して、周囲を見た。家が燃えている。人が倒れている。知っている顔ばかりだった。隣の家のおばさん。よく遊んでくれた兄ちゃん。そして、弟妹たち。
歩九の姿を探した。見つけたくなかった。しかし目は勝手にそれを捉えてしまった。
小さな体が、不自然な形で横たわっていた。
歩一は這うようにしてそこまで行き、妹の体を抱き上げた。まだ温かかった。しかしその目はもう、何も映していなかった。
声にならない叫びが喉から漏れた。
帝国の兵士たちは既に去っていた。彼らにとって、この村は通過点に過ぎなかったのだ。「文明化」という名の侵略の、最初の一歩。
どれくらいそうしていただろう。
日が傾き始めた頃、馬蹄の音が聞こえた。今度来るのは、敵か味方か。もはやどちらでも同じことだと歩一は思った。
しかし現れたのは、金色の鎧を纏った騎馬隊だった。将棋国の軍旗を掲げている。
「生存者がいたか」
先頭の騎馬から、一人の男が降りた。飛車。将棋国最強の突撃隊長。その名は歩一も聞いたことがあった。
「ひどい有様だ...」
飛車は焼け跡を見回し、拳を握りしめた。
「坊主、お前一人か」
歩一は答えられなかった。ただ、腕の中の妹を抱きしめていた。
飛車は何も言わず、自分の外套を脱いで歩九の体にかけた。そして歩一の肩に手を置いた。
「泣けるなら泣け。泣けなくなる前に」
歩一の目から、初めて涙が溢れた。
---
将棋国の首都は、辺境の村とは比べ物にならない規模だった。
連れてこられた歩一は、しかしその壮麗さに何も感じなかった。心が空洞になっていた。ただ機械的に歩き、機械的に食べ、機械的に眠った。
首都に着いて三日目。歩一は王城に呼び出された。
玉座の間には、既に多くの駒たちが集まっていた。金将、銀将、桂馬、香車。そして角行と飛車。将棋国の最高幹部が一堂に会している。
その中央に、一人の若者が立っていた。
王将。将棋国の王。歩一が想像していたよりもずっと若い。自分とそう変わらないようにも見える。しかしその目には、重い何かが宿っていた。
「皆、集まってくれたな」
王将の声が、静かに響いた。
「チェス帝国が我が国への侵攻を開始した。東の沿岸部は既に制圧され、多くの民が命を落とした」
沈黙が広がる。歩一は拳を握りしめた。
「帝国は我らを『蛮族』と呼ぶ。取った駒を自軍に加える我らの文化を『魂を奪う呪術』と断じ、聖戦を掲げている」
王将は玉座の前に進み出た。
「我らは確かに、敵の駒を取り、味方として迎え入れる。それは奪うことではない。許し、受け入れ、共に歩むことだ。帝国には理解できぬかもしれぬ。だが——」
王将の目が、集まった駒たちを見渡した。
「——我らの誇りを、踏みにじらせはしない」
飛車が一歩前に出た。
「王将、突撃隊の出陣許可を」
「待て、飛車」
角行が制止する。
「敵の戦力は未知数だ。まずは情報を集めるべきだ」
「悠長なことを言っている場合か!今も民が死んでいる!」
「だからこそ、無策で突っ込んで犠牲を増やすわけにはいかん」
二人が睨み合う。王将が手を上げた。
「二人とも、落ち着け」
王将は静かに、しかし確かな声で言った。
「飛車の気持ちは分かる。俺も今すぐ駆けつけたい。だが角行の言う通り、我らは帝国について知らなすぎる」
王将は地図を広げた。
「まずは防衛線を構築する。桂馬、偵察隊を出せ。敵の規模と進軍経路を把握しろ。香車は沿岸防衛の準備。金将、銀将は首都防衛と避難民の受け入れを。飛車と角行は予備兵力として待機。俺が出ると言うまで動くな」
「しかし——」
「これは命令だ、飛車」
王将の声に、有無を言わさぬ力があった。飛車は悔しそうに、しかし頷いた。
「...了解した」
「もう一つ」
王将は玉座の間の隅に立つ歩一を見た。
「そこの者。名は」
歩一は驚いた。まさか自分に声がかかるとは思っていなかった。
「...歩一。東の村の、ただの歩兵です」
「ただの歩兵などいない」
王将は歩一の前まで歩いてきた。
「報告は聞いた。家族を皆、失ったそうだな」
歩一は唇を噛んだ。
「帝国を、憎んでいるか」
当然だ。当たり前だ。妹を殺され、家族を奪われ、憎まないはずがない。しかし歩一は答えられなかった。憎しみよりも深い、どうしようもない虚無感が胸を塞いでいた。
王将は歩一の目を真っ直ぐに見た。
「お前に選ばせてやる。このまま首都で静かに暮らすもよし。戦う道を選ぶもよし。どちらを選んでも、誰もお前を責めはしない」
歩一は王将の目を見返した。
その目には、王の威厳だけではない何かがあった。歩一と同じ年頃でありながら、国全体を背負わねばならない重圧。それでも逃げない覚悟。
「...戦います」
声は震えていた。しかし歩一は続けた。
「俺には何もない。守るものも、帰る場所も。でも...俺と同じ思いをする奴を、これ以上増やしたくない」
王将は微かに笑った。
「いい目だ」
そして歩一の肩に手を置いた。
「我が軍に歩兵の空きがある。お前を正式に徴用する。歩一、今日からお前は将棋国の兵だ」
歩一は頭を下げた。
「...はい」
王将は全員に向き直った。
「皆、聞け」
その声は静かだが、玉座の間の隅々まで届いた。
「これより、将棋国はチェス帝国との戦争に入る。苦しい戦いになるだろう。多くの犠牲が出るだろう。だが俺は約束する」
王将は一人一人の目を見た。
「我らは一兵たりとも見捨てない。全員で生き残る。それが——」
王将の声に、確かな意志が宿った。
「——将棋国の戦い方だ」
---
その夜、歩一は兵舎の窓から空を見上げていた。
故郷で見た空と同じ星が瞬いている。しかしもう、あの村に帰ることはできない。家族の元に戻ることもできない。
「眠れないか」
声をかけてきたのは、飛車だった。
「...はい」
「そうだろうな。俺もそうだった」
飛車は歩一の隣に腰を下ろした。
「お前と同じ歳の頃、俺も村を焼かれた。帝国じゃない、山賊にだがな。家族は皆殺しだった」
歩一は飛車を見た。最強の突撃隊長と呼ばれる男の横顔は、意外なほど穏やかだった。
「俺は復讐のために強くなった。山賊を皆殺しにした。だがな、復讐を果たしても、何も戻ってこなかった。虚しいだけだった」
「...じゃあ、なんで戦ってるんですか」
飛車は少し考えてから答えた。
「王将に拾われたからだ。あの人は俺に言った。『お前の強さを、誰かを守るために使え』と。復讐のためじゃなく、守るために戦う。それが俺の戦う理由になった」
飛車は立ち上がった。
「お前もいつか見つかる。何のために戦うのか。急ぐ必要はない。ただ、生き残れ。死んだら何も見つからん」
「...はい」
飛車は去り際に振り返った。
「明日から訓練だ。覚悟しておけ。俺は厳しいぞ」
歩一は頷いた。
一人になって、再び空を見上げた。
歩九の顔が浮かんだ。あの笑顔を、もう二度と見ることはできない。
だけど——
歩一は涙を拭い、立ち上がった。
あの笑顔を守れなかった自分が、せめて誰かの笑顔を守れるように。そのために、強くなる。
それが今、歩一に残された唯一の道だった。
---
遠く、西の海の向こうで、帝国の軍旗が風に翻っていた。
戦争は、まだ始まったばかりだった。




