第5話『婚約者と執事のあいだで』
ドレスの裾がふわりと揺れるたびに、キャロルは吐き気がしそうになった。
鏡に映るのは、純白の刺繍ドレスを身にまとった“完璧な令嬢”。
──王太子殿下との顔合わせは、3日後。
何度も経験してきた儀式の一つ。
なのに、今回だけは、息が詰まりそうだった。
「……これを着て、どんな顔をすればいいのよ」
独り言のように呟いた声が、部屋にぽつりと落ちた。
◇ ◇ ◇
「……で、お嬢様。今日もお美しい」
ドアをノックもせず入ってきたアルシアは、またしても軽口を叩いている。
「ノックぐらいしなさい! そして美しいとか言うな!」
「では、お綺麗ですね」
「……っ、変わってないじゃない、言ってること」
苛立ちを隠しながらも、キャロルは内心ほっとしていた。
アルシアのこの緩い空気だけが、今の自分の“現実”を繋ぎとめている気がした。
アルシアはドレスのすそを整えながら、ちらりとキャロルの顔をのぞき込む。
「……表情が固いですね、お嬢様。
やはり“王家の方”とのお顔合わせ、緊張されますか?」
「別に。慣れてるわよ、こんなの。
向こうが勝手に“立派な妃”を求めてるだけなんだから」
「……ふむ」
「なによ」
「──その顔。嫌そうなときほど、眉がほんの少し下がるんですね」
「……観察しないで!! 執事のくせに、いちいち見てるんじゃないわよ!」
「いえ、むしろ“執事だから”こそです」
その言葉に、キャロルは少し言葉を詰まらせた。
(……なんで、こいつだけ、こんなふうに“普通”でいられるの?)
(私はこんなに、ぐちゃぐちゃなのに)
キャロルは突然、ソファにどさっと座り込んだ。
「ねえ、アルシア。ちょっと質問していい?」
「なんでしょう」
「──もし、私が“王妃にならなかった”ら。
この先、ただの女として生きていたら。……あなたは、私に何か期待した?」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
アルシアは少しだけ眉をひそめ、ゆっくりとキャロルの前に膝をついた。
「私は執事です。
お嬢様の“身分”や“立場”に関係なく、仕えることが仕事です。
……ただ」
「ただ?」
「“期待”などという言葉で片づけたくない気持ちは、確かにあります」
「………………」
キャロルは目をそらした。
(わかってる。わかってるのよ。私は、“好きになんてなっちゃいけない”立場)
(でも、こんなふうにやさしくされたら──)
「……あんたって、ほんとずるい」
ぽつりと、キャロルは呟いた。
◇ ◇ ◇
その夜。
アルシアが部屋を辞したあと、キャロルは書斎でこっそり日記を開いた。
> どうして私は、こんなにもこの人を気にしてるんだろう。
顔合わせが近づいてるのに、考えるのは彼のことばかり。
わたしはただ、
いつか、名前で呼ばれたあの日みたいに──
もう一度、笑ってほしいだけなのに。
ページにインクが滲む。
それが涙なのかどうか、キャロル自身ももう、わからなかった。
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